“世界救世教奇蹟集” 広告文

凡そこの世に神は在るか無いかという事程、簡単にして難しい問題はあるまい。という訳は昔から今日迄肯定派と否定派とが何程論議を闘わして来たか分らないが、今以て結論は得られないにみても明らかである。これに就いて私としてもよく考えてみると、神が無いという方が当ってはいないかと思う。何故なれば目にも見えず、耳にも聞えず、手にも触れないからである。従って誰にでもハッキリ分る処の唯物科学を以て唯一無上のものと信じ、絶対的信頼を払っているのが現在である。処が困る事には何程科学が進歩しても、割切れない問題が次から次へ出て来るので、科学のみでは到底安心出来ないが為、或者は哲学へ、或者は宗教へ、或者は何々というように、何等か力強いものを求めてはいるが、それを満し得る程のものはないので、人々は不安に怯え乍ら、希望なき人生を送っているに過ぎないのである。成程文化の進歩は何も彼も便利となり、政治も社会機構も改善され、昔とは比べものにならない程恵まれているに拘わらず、右の如しとすれば現代文明の何処かに気の附かない大きな欠陥があるに相違ない事が考えられる。

では欠陥とは何かというと、即ち科学過信であって、特に智識人程そうであるから、何よりもこれに目覚めさせる事で、これが先決問題である。といっても智性の進んだ今日、何事も学理第一主義になっているから、この誤った考え方を是正し奇蹟によって神の実在を認識させる事である。従ってこれが一般に知れ渡るとしたら、茲に人類待望の平和幸福な世界実現は必然である。又昔から奇蹟は宗教に附物とされているが、その中でも彼のキリストの奇蹟である。これが同教発展の上に如何に大きな役目をしたかは、今日文化民族の大半が基督者であるにみても明らかである。それに引換え彼の仏教が、現在見る如き極東の一角に漸く命脈を保っているにすぎないのは釈尊在世中見るべき奇蹟がなかったからでもあろう。又今一つの重要事がある。それは昔から宗教、倫理、道徳、教育等々理屈を以て教化の方法として来たが、これも殆んど魅力を失ってしまった。というのは如何に巧妙な理屈といえども、事実が伴わない限り、人心を捉える事は出来ない。理屈だけで悪人が善人にはならない。理屈で幸福は掴めない。理屈通り医療を施しても病人は減らない。というように人間は最早理屈不感症となっている(只医学のみはそれに気附かないだけの事だ)然しこれより外に方法がない現在、ないより増しだ位に続けているのである。斯うみてくると今日真に人類を救い得る力のあるものは殆んどないといってよかろう。

処が驚くべし、この大問題を確実に解決出来る一大福音が生まれたのである。これこそ人間が夢想だもしなかった超人間力、即ち最高神の力であって、これが本教を通じて今や暗黒無明の世界をして、光明赫々たる世界に転化せしめんとするのである。その唯一の方法が奇蹟であり、本教位奇蹟の多い宗教は未だ嘗てないとされている。一例を挙げれば一信者にして、キリストと同様の奇蹟を顕わし得る者已に数十万に及んでをり、尚益々増加の傾向にあり、この事自体が已に一大奇蹟である。その実例百二十を載せてあるが、余りに超現実的なものばかりで、直ぐに信じ得られまいが、事実は飽くまで事実であり、全部本人手記のものである以上、疑念のある人は本人に直接打っかって訊くか、本教に来って直接検討されん事である。以上によってキリストの曰われた天国も、釈尊の曰われた彌勒の世も神の準備は已に成り、今や呱々の声を挙げんとするその直前が今日である。故に現在迄の人類苦闘史は、その陣痛の為でしかない事が分るであろう。

(読売 昭和二十八年十月三十日)