人権蹂躪

自由民主々義とは、人権を尊重する事から始まるといふのは、今更言ふ必要のない程、明らかな話ではあるが、実際上それが仲々行はれてゐない事を、今度の事件によって、熟々思はれたのである。意外なのは役人が人民に対し、平気で行ふ人権蹂躪的態度である。何しろ警察官が人民を拘束し、自由を奪ふ事など当り前のやうになってゐる。全く一種の特権階級と言ってもいい。其表はれとして一寸した聞き込みや、投書、密告、部下の報告等によって、碌々調べもせず簡単に召喚したり留置したりする。留置した場合でも、被告の迷惑などには頓着なく、一回の取調べが一日位の勾留で済むやうな事でも、二日も三日も留置したりする。今度の事件なども数人が関聨してゐるといふ理由で、廿数日から長きは四十日以上も勾留されたのである。常識で考えても先づ一二週間なら充分可能と思う容疑なのに、曩に述べた如く、毎日々々一つ事を繰返すのだから長引く訳である。之等はどう考えても民主々義ではなく、官主々義である。

何しろ、長い間封建制が続いて来た日本であるから、官憲の御代官的観念は、仲々抜け切れないのは、止むを得ないかも知れない。又人民も人民で、長い物には巻かれろ式で、何事も屈従して了ふのであるから、真の民主日本となるには程遠い感がする。彼の米国に於ける役人と人民の関係などを聴くにつけ、実に羨ましい限りで、日本も早くそうなる事を切望して止まないのである。成程日本の警察も以前からみると『オイッコラッ』式や『貴様』なども殆どなくなり、人民に対する態度も余程よくなった点は認め得るが、前述の如き不必要な迄に、人民の自由を束縛する行き過ぎは、最早止めてもいい時期と思ふのである。

次に今度私が取調べを受けた時の、被告としての心理状態をかいてみるのも、満更無駄ではあるまい。之に就て曩に詳しくかいた如く、調官の訊問に対し、事実記憶にない事は否認するのが当り前だが、それが調官の感情に触れるかのやうに、取調べは段々強化される、終ひには威嚇したり、焦立ったり、呶号罵言さへ浴せかけるのであるから、被告の方も感情的になり、言はうと思う事も口に出ないやうになる。自然取調べはスムースにゆかない、其結果双方共無駄な時間と労力を徒費する事夥しい。私は出所帰宅後健康を取戻すと共に、平常の心理状態になったので、よく考えてみると、其当時の状態がよく判って来た、それはあの時どうして思ひ切って自己の主張を通さなかったのか、あんな法に引っ掛かりそうな事を、マザマザと言ったのだらうか、而も事実でない拵え事までしたり、先方のカマ掛け訊問と知り乍ら是認したり、不利な事を承知で言ったりした事など、自分乍ら不思議な心理状態と思ふのである。従って最後迄真実を頑張り続けたなら、起訴にはならなかったかも知れない事など後から聞くにつけ、後悔もしてみたが、今更どうする訳にもならないので諦めてはゐるが、今其時の心理状態を詳しく描写してみよう。

先づ、何よりも留置所へ入れられると同時に環境は一変する。部屋といえば小さな窓が上の方に一つ付いてゐるだけで、青空さえ見えない。そうして薄暗い三畳位の部屋で、朝から晩まで黙念と座ってゐるばかりで、全く生ける屍である。天井も壁も荒削りの板張りで、一方だけ大きな牢屋格子の扉がある。其扉に着いてゐる鉄の箆棒に大きな鍵を時々警官が開けるが、ガチャリといふ無気味な音を聞くだけで神経衰弱になりそうだ。それも事実罪を犯したなら我慢も出来るが、そうでないとすれば、馬鹿らしくて憂鬱そのものだ。私の場合信仰があるから、之も神から身魂磨きをさせられてゐると思ひ、我慢も出来るがそれでも仲々辛いもので、経験がないと一寸判りにくいのである。以前読んだロシアの小説にあった生きてゐる自由といふ言葉を思ひ出したが、之は全然自由がないといふ逆の言ひ方で、寔にその通りだ。只三畳の部屋だけが、自由の天地で、運動ときたら時々三畳の部屋の中を往ったり来たりする位で、まるで檻の中の獣だ。此時程自由といふものの有難さを知った事はない。日に三度づつ餌を入れられて生命を繋いでゐる、只それだけだ、話も出来なければ、本も読めない。無論煙草も喫めない。便所は一定の時間以外行けないのだから、之は獣の方が自由だ。人間失格とは之だと思った。

こんな訳で食欲は漸次減ってゆく、経験者の話によると十日以上経った頃が一番ひどいといはれる。尤も人にもよるが、普通は二十日以上経つと馴れて来て、漸次楽になるそうだ。先づ連続十日以上に及ぶと肉体の疲労と相俟って、一種の神経衰弱になり、精神力が非常に薄弱になる。そうなると調官からどんな事を言はれても抗弁する気力などは失ひ、どうにでもなれといふ半ば捨鉢気分になって了ふ。いくら頑張らうとしても霊肉共にいふ事をきかない。私が二度も卒倒したのはそんな訳である。終には取調室へ入る時の恐怖は迚も大変だ。調官の前へ出るのは、何共言えぬ怖しさだ。私は平素から精神力の点は、人に負けない自信があったが、此所へ来ると自信なんかいつしか吹っ飛んで了ふ。只訊問を逃れたい、早く此処を出たいといふ観念だけで一杯だ。従って斯ういふ事を言えば罪になるとか、ならないとかそんな事は問題ではない。どうせ自分は悪い事をしてゐないのだから、結局無罪になるのは決ってゐるといふ。それだけがせめてもの心の置場所で、他の事など一切考える余裕はない。之が偽らざる告白である。私は人権蹂躪にも色々あるが、以上の如き、当局者の行り方も、一種の人権蹂躪であると思ったのである。

(法難手記 昭和二十五年十月三十日)