当局に望む

以上は、詳細に述べた如く、慈悲も涙もない冷酷極まる取調べを受けた吾等として、熟々思はれる事は、どうしても、取調べの任にある人達には、宗教心の必要なる事である。言う迄もなく、被告を悔悟させるには、遮二無二責めるばかりでは効果はない。どうしても調官は、叡智な眼を開いて判断し、若しも罪があるとみたら、飽く迄追及するのも可いが、罪がないと判れば、それ迄の疑ひに対し固執するのを止めて、潔ぎよく撤回し、速かに無罪釈放すべきである。然し若し軽い罪でもあるとしたら、其罪相応の処断をすればいいので、それが正しい行り方であらう。吾等と雖も自己の罪あるを認識する以上、それ相応の処断を受けるのは、些かも異存はないが、無実の罪を甘んじて受ける事は、何としても納得は出来ない。処が茲に言ひたい事は、苛酷な取調べを受ける場合、幾らかでも自己に罪あるを認め得るとすれば、我慢もし易いが、そうでない場合、不満を抑へるといふ精神的苦悩は、蓋し並々ならぬものがある。以上述べたやうな、種々の不合理に対し、之を改善すべき事こそ、民主人民の義務であらう。従って此記録を書くのも、止むにやまれぬ正義意識の迸りであって、他意ない事を諒されたいのである。

最後に特に忠告したい事がある。それは吾等が常に口を酢くして唱える処の、誠の一字で、特に罪人を扱ふ者に於てをやである。如何なる事でも、誠なくしては如何に外形的に努力すると雖も、畢竟、無効果以外の何物でもない。とすれば此誠を培ふには何によるかといふと、それが正しい信仰の力である。言ふ迄もなく、犯罪の原因は見えざるものは信ずべからずと言ふ、無神的唯物思想が根本である以上、唯物思想の打破こそ、犯罪減少の抜本的方法で、之は不滅の真理である。故に先づ何よりも神の存在を認識させ信ぜしむる事である。それには何と言っても犯罪者取調べの任にある者が、先に神の存在を認識し、然る後罪人に対し、誠の愛を以て接する事である。之なくして相手の心を動かす事は到底出来る筈はない。之を一言にして言えば、神を認める事によってのみ真の誠が生れるからである。誠の愛を以て罪人に臨むとすれば、必ずこちらの誠は先方の魂に触れて、初めて先方の心が動くのである。

今回の経験によって、取調べ当局の無信仰振りが遺憾なく判ったので、何とかして法の世界にも信仰心の必要なる事を認識させたい為、此文をかいたのである。由来、何人と雖も先天的信仰心のないものはない。只唯物教育の結果と、そうして在来の宗教に力がなく、旧態依然たる有様である事と、新宗教と雖も一部は別とし大部分はこれぞといふものがない為とで、世人は喰はず嫌ひのまま今日に至ったのであろう。偶々吾等が人に対って信仰の醍醐味を説く事あるも、容易に口へ入れる処ではなく、反って彼等は吾等を目して、迷信に囚はれたる気の毒な者として軽侮し、一顧だも与えないのである。特に智識人に至っては大いに然りで、宗教を云々するのは、何か沽券にでも障るように思ふらしく見えるのである。というのは本教に入信した智識人も、相当あるにはあるが、彼等は人に勧める事を控へ、秘密にする傾向があるにみて明かである。加ふるに言論機関のデマ記事、唯物主義者の反感、官憲の無理解等もあり、其中で兎も角教線を拡げやうとするのであるから実に容易な業ではない。そうしていくら勧めても、此世に神などあるものか、それは迷信に過ぎないと絶対否定する人も少なくないが、斯ういふ人こそ吾等からみると、迷信でないものを迷信とする迷信者であり、反って気の毒な人と思ふのである。何となれば、迷信と言はれる吾々の方は、常に安心立命の境地に住し、此険悪なる世相の中にあって何等の不安なく、楽しき人生を送ってゐるからである。

次に今一つ重要な事がある。それは吾等の宗教活動に対する恐るべき偏見である。といふのは、本教を調査の場合、只悪い面のみをみて、善い面には眼を蔽ふてゐる事実である。成程、検察当局としては、犯罪に関する面のみに注意を集めるのは、職務柄当然ではあるが、茲で考ふべきは、法があって国家があるのではない。国家があって法があるのである。つまり国家が主で、法が従である以上、仮に本教を調査の場合としたら、悪い面と共に、善い面をも見なければならない。それは本教の善い面であって、本教が如何に国家の利益に役立ってゐるかといふ事である。大病院や数人の博士から死の宣告を受けた者が、起死回生的に助かったり、悪思想の者や、悪質犯罪者、不良少年等の如きが、改過遷善されたり、貧困が解決されたりする等々、幾多のマイナス的人間が、プラス的人間に転化する生きた事実である。その一部は本教出版物に多数掲載されてゐるから、一読すれば何人と雖も疑ひの余地はあるまい。何よりも本教異例の発展振りがよくそれを物語ってゐる。然るに本教に対し、善い面を見ずして、何か欠点なきやと悪い面のみを探そうとする。此態度こそ国家の利益を度外視し、自己の都合や利益のみを本意とするものと言えよう。成程畳叩けば埃が出るとよく言はれるが、本教とても発展が急なる為、監督不行届きな点や、法に無知なる為、法に触れる点も多少あるかも知れないが、それは十に対する一位である。即ち九が白で一が黒、とすれば、九を援助してこそ国家の利益となるのは言う迄もない。然るに当局は一の方ばかりみて、九の方をみようとしない。言はば一の黒をひろげて、九の白を抹殺して了ふ。九の虫を助けて一の虫を殺すなら可いが、一の虫を助けて、九の虫を殺すといふ事になる。それが今回の事件発生の真因であらう。

右の一の黒とは、言ふ迄もなく、本教を狙ふユスリ団、嫉視羨望する輩、本教の発展によって打撃を受ける者、商売仇的反対者等々が作り上げたもので、それが新聞雑誌や人の噂から噂によって喧伝せられ、大きく拡がりそれをみた当局は、火のない所に煙はないといふ筆法で、本教には何かクサイものがあるに違ひないと想ひ、一度は徹底的に調査してみなければならないとし、其計画を立てた事は、吾等も数ケ月前から承知してゐた。それに対し種々献策する者もあったが、元々吾々は天に愧じない立派な仕事をしてゐる以上、何れは真相が判るに決ってゐると安心して、其儘にしてゐたのである。処が当局も銀行其他の調査はしてみたが、大した預金もないので、偖ては現金を金銀宝石に換え巧妙に隠匿してゐるに違ひないと予想し、今回の如き大仕掛の家宅捜索となったのであらう。他面又大いに当局の疑ひを深めた点もあるのは、何しろ、一日一千万円以上の収入があるとか、資産何十億とかいふやうなデマ記事が昨年あたりから各新聞雑誌を賑はしたので、当局も丸呑みにはしない迄も、或程度の信を置いた事は想像される。而もユスリ団が最も力を入れたデマは、多量の金塊ダイヤモンド等を隠匿してあるといふのであるから、当局も之なるかなと想って行動に移った事と想う。そうして当局が一旦疑惑を掛けた場合、偶々見込み違ひが判っても仲々諦めず、どこ迄も一念を通そうとするやうに見える。そこで止むなく軽微な罪を大きく取上げざるを得ない羽目になるのであらう。

次に言ひたい事は、本教が宗教法人として発足したのは、昭和廿二年八月からで、まだ二年半位にしかならない。それまでの資産としては知れたものであった。それが右の短期間に此世智辛い世の中に、数十億などといふ途方もない資産が出来る筈はありやう訳がないではないか、之は常識で考えてもすぐ判る事である。従って此様なデマや噂に仮に躍らされたとしたら、本教こそ飛んだ災難に遭った訳で実に遺憾に堪へない次第である。

以上の如くであるから、今後当局におかれても、本教に対し善い面と悪い面を公平に批判し、マイナスよりプラスの方がズッと多いとすれば、無論存在の価値あるものとして、支援しない迄も安心して活動の出来るやう擁護されたい事である。要は小乗を捨て大乗的にみられる事で、信教の自由も此意味に外ならないと思ふのである。昔から喬木風多しとか、出る釘は打たれるとかよく言はれるが全く其の通りで、世間よく言ふ日本人は少し目立つようなものが出ると、寄ってたかって打ちのめそうとする島国根性には困るとされてゐるが、これが如何に国家の進運を阻害するかは、心あるものの常に嘆息する処である。此点を改めない限り、到底偉大なるものが生れる筈はないであらう。それに引換え彼の米国などは少し頭角を現はすものが出ると、一般が援助を与え、より大きなものに育て上げるといふ事を聞いてゐる。之では日本はいつ迄も東亜の一隅に萎縮してゐるのみであらう。此点に気付き一日も早く偉大なる文化国家に育て上げ、世界平和に貢献すべき日の速からん事を望んで止まないものである。

(法難手記 昭和二十五年十月三十日)