私は、今回の事件の為、五日間静岡刑務所(正確にいふと拘置所である)に収容され、獄舎生活をしたが、其時痛切に感じた一事があるから、それをかいてみよう。此刑務所は最近出来たばかりの建物だそうで、設備其他一切がよく完備しており、文化的の香りも高く、予ねて想像してゐた此種のものとは、思えない程であった。所属の警察官も寔に親切で、民主的気分が横溢してゐる。見た処、囚人の健康状態もよく、斯ういふ処にゐる人達とは思えない程明朗そのもので、私は之等の数々をみて好感を覚えずにはおれなかったが、惜しむらくは、精神的施設の何もない事だ。精神的施設とは何を指すかといふと、それを左にかいてみよう。
即ち宗教教育である。それに就て私の考えた案を茲にかいてみるが、先づ大講堂を作り、一日の中午前と午後の二回、一回三十分乃至一時間づつ各宗教の権威者を招き、替る々々講話をして貰ふ事である。勿論喜んで応ずるであらう。何となれば、宗教家として之程意義ある仕事はないからである。又囚人の方も気分が転換し、心の糧を満喫する事が出来、不知不識の裡に自己の非を覚り、悔改める者も相当出来るであらう。以前から、喧ましく言はれてゐる、学校に宗教教育を採入れる案であるが、之は今以て実施の運びに至らないのは甚だ遺憾であるが、これには種々複雑した事情がある為であらう。
それは何かといふに、日本は欧米の如き宗教と言えば、キリスト教一本であるに反し、八宗九宗、種別が非常に多く、実際問題としては不可能であらう。処が事実今日の日本の現在はどうであらうか、誰も知る如く犯罪者の目立って激増した事である。当局者は因より、心あるものは、何とかしなければならない、到底一日も放ってをけないと思はずにはおれないのである。此儘では社会不安は益々甚しく、再建日本の前途に対しても、思ひやられるのである、従而、早急に其対策を講じなくてはならないが、さらばと言って、之ならというやうな名案は未だ見当らないのである。
というのは余りに唯物的方面にのみ眼を奪はれ、精神的方面に眼を向けないからである。今私の言はんとするのは此点であって如何に警察や裁判所が完備し、防犯に努力すると雖も結局に於て末梢的方法でしかあるまい。何となれば結果のみをみて、原因に眼を閉じてゐるからである。一切は原因があって結果があるのは万有の通則で、之は余りに判り切った話であるが、此判り切った事に気がつかない点が、現代文化の一大欠陥である。勿論その理由としては、余りに唯物教育に偏したが為で、謂はば跛行的文化である。見よ文化が進歩したと言ひ乍ら、犯罪が減らない処か、逆に増加の傾向さへあるのが何よりの證拠である。
そうして、現在行はれてゐる防犯方法としては、罰金と体刑的懲罰である。成程懲罰主義も他に方法がないとすれば、又止むを得ないとするも、之だけで、社会から犯罪を除去するなどは、百年河清を待つに等しいものと言えよう。元来法律や懲罰なるものは、獣を扱ふに鞭や檻、金網を用ひるやうなもので、之によって僅かに獣の狂暴性を防ぐのであるから、獣は隙あれば、其処から脱出しやうとする。之を人間社会に当嵌めてみるとよく判る。法弥よ繁きは檻や金網の目を細かくすると同様であって、今日如何に獣性人間の多いかが判るのである。此意味に於て、法や檻がなくとも危険のない人間が殖える事こそ、真に文化の進歩といふべきである。
故にそういふ獣扱ひを必要としない人間を造るといふ、それが宗教の根本使命であって、此事の認識がなければ、如何に唯物的防犯施設が完備すると雖も、予期の効果を挙げ得ないのは余りに明かである。以上によってみても、囚人に宗教教育を施す事こそ大した費用も要らず、最も適切にして効果ある方法である事を、当局者へ進言するのである。最後に追加したい一事がある。それは獄舎内に成可一室に一冊宛の聖書を備へつける事である。世界の凡ゆる宗教関係書籍の内、罪を悔改めるに最も力あるものとしては、聖書に優るものはないからである。
(法難手記 昭和二十五年十月三十日)