金久平
私事、此度贈賄及び農地問題等で逮捕状により、静岡の獄舎に四十六日間勾留され、脅迫的拷問、怒号卑劣な罵声を以て、取調べを受けた当時の模様をかかせて頂き、社会の皆々様の御批判を仰ぐ次第であります。
忘れもしません。昭和廿五年五月八日朝六時、静岡県国警本部の刑事さん五名が来て、「貴方は-逮捕状が出ているから静岡迄来て貰ひたい」との事なので、私は「何の逮捕状ですか?」と訊ねた処、「此処で逮捕状を貴方に見せれば、貴方には我々は静岡迄手錠を掛けてゆかなくてはならないから、そうしたら貴方も困るだらう」と言うので、私も逮捕状が出る以上は、確実なる根拠があるものと信じ、且又、当時熱海地区農地委員が逮捕されておりましたので、何か農地委員に参千円位農地法の手続等教はった時に、お礼をしたかも知れぬと思ひ、静岡に行ったのであります。
然るに、当日の取調べに来た刑事は、見るからに恐い刑事で、断定的に強く「お前は大先生より多額の金を受取り、宗市長に贈与してゐるが、大体全部でいくらやった」とつよく責めてくるので、私は「宗市長には金品は全然やってゐない」と言うと「嘘を言ふな子供でも家の手伝ひ等した時には、何か呉れと言うではないか」と又々責めるので、私は「市長さんが譬へ私が持って行った処で、受取るやうなお方でないし、又教団としてもお金をやる理由がない」と言ふと「農地問題では色々と世話になっておって、何もお礼しないのか-」と言ふので、私は「自分で解らぬ事は色々教はったが、特別に市長に世話になった覚えは毛頭ないし、又市長のお蔭で大変よい結果になったといふ事もないから、何回責められても贈ってありません」と常に否定を致しましたら「お前は我々を甘くみてゐる、お前が正直に話しをすれば、此逮捕状は執行しなくともよいし、お前も今晩帰してやるがどうか」とつよく責めるので、その時、時計は早や九時であり、私は頭脳朦朧とし、眩暈を催したので、「今晩はこゝに泊めて下さい」と懇願するより外に方法はなかったのであります。そこで初めて逮捕状を読んで聞かされたのです。逮捕理由は、昭和廿二年五月頃農地委員上田五三郎に対し、参千円贈賄した嫌疑と言う事を聞かされたので、右罪状は一応承認致したのであります。
不安な一夜を明かし、翌日又留置場より呼び出されてみると、昨日の恐い主任刑事がおりませんので、他の刑事に、昨日の刑事主任の脅迫的取調べに対し、高圧的怒号、卑劣な罵声を以て責められ、精神的威圧をされた旨訴えると、刑事はあの人は紅林さんと言って斯んな事件を調べる人ではなく、強力犯を担当する人で夕べ殺人事件があったのでもう来ないとの事、私は地獄から救はれた思ひでした。正しく強力犯を受持つ刑事だと思ったのです。然しその後の取調べも市長の事で、同じ事を何回となく責められるので、私は三日目に「そんなに貴方々が根拠があって調べられるのなら、一万円位は私が贈った事がある様に思はれる」と供述致しましたら「そんなに少なくはない。お前は嘘を言ってゐる」と言うので「その通りです」と曰うと、その後は市長の事は偶に聞く位で強いて責めなかったのです。私は其時刑事に言ってやったのです。「人は嘘を言ふのに苦しむといふ事は聞いておりますが、警察では真実を申し上げるに非常に苦しむ処だ」と言ったら、「お前が全然やっておらなければ結構だ」と言って、市長の事は一週間位で終りましたので、別に調書も何も取られなかったのです。
その後の取調べも相も変らずに、農地委員書記に多額の金を贈賄してゐると脅迫的に拷問するので、私としてはお金は全然贈った覚えはないと、常に否定して来ましたのです。すると刑事は「お前は上田に土地を世話して貰ったらう」とつよく責めるので、私は「実は上田さんの知人の杉山と言う人からの世話で土地を六百坪余買ひました」といふと「その時いくら上田にお礼をしたか?」といふので私は「上田さんにも杉山さんにもいくらと言うお礼は全然してありません」といふと「お前は非常識だ。人に世話になってお礼もしないとは馬鹿だ」と言うので「それではいくらお礼をすればよいのか、教えて下さい」といふと、「お前は小田原署に呼ばれた時のやうに吾々を甘くみてかかってゐる」と又々言うので私は貴方々を甘く見てゐるとは心外で、寧ろ私は初めて経験する百八十度の転回した留置場生活も日を追ふ事、十日にもなってゐる。その間私は毎日の取調べに精神的に疲労して、昨日貴方々に申上げた事すら、忘れてしまう様な始末です。私は自白する人の心境がよくわかります。只今の私の心境は幾ら真実を申上げても、みんな貴方々が嘘だと簡単に片付けてしまふので、私は如何にして嘘を言えば、貴方々に納得して頂けるかと苦しんでゐるのです。
然しお前嘘は困る。お前には全部相手があるのだからと言う。私は貴方々の私に対する様な調べ方では、相手方だって皆言う事が嘘になりますと言うと、刑事は「我々は何でも相手が有るのだから、お前の言う事と相手の言う事が同じで、合えばよいのだ」と言うのです。私は早や精神的にも肉体的にも疲労し、失神したかの如くになり、毎日の取調べに対しもし虚偽の申立てをすれば、相手方の釈放が一日も早くなるものと思ひ、それからは相手方の調書の引出しに苦しむ外に道はなかったのです。それで取調べに対し、一言も口を切らずにおりますと、土地を世話して貰って、十五万円贈ったらうと言うので、私はそれは初耳です。何しろ売買の成立の時に、謝礼の事は何も言っていなかったから、ブローカの杉山が話しを持って来た事だから、五、六万円の儲けは見て来てゐると思ったので、五拾万円で土地を買ったのであって、十五万円を贈った覚えは全然ありませんと言うと、相手二人共「お前の諒解を得て貰ったと言ってゐる」と刑事が言うので、そんなことは聞いた事もなく、又現在では私はそんな事を信じておりませんと言うと、お前がいくら隠しても駄目だ。上田でも杉山でも、怒ってゐるぞ、金さんさえ早く言ってくれれば、早く出られるとお前はみんなから怨まれてゐるぞ、お前でもそうだ。早くみんな言ってしまはなければ、結果に於て長くなる。そうすれば大先生にだって疑惑が掛るし、まあーマアー斯んな事は大した事でないから、早く言って了えといふので、私も肉体的、精神的疲労より私が承知をすれば事解決するものと思ひ、意にもしない数多い調書が出来て了ったのであります。
留置所生活する事十二日目の夕方、刑事の一人が来て貴方は取調べ困難のため、検事勾留を十日間追加されたからとの知らせを受けたのです。私は刑事諸氏が、毎日四人位で私一人を調べてゐるのに、調べが困難とは面白い事だと一人で笑ひました。それは私に真実の事を言えといふので、真実の事を言うと、それはみんな嘘だッーと言って取り合はない。全く真実を言ふ時には、石地蔵に話しをするも、同然なのであります。刑事諸氏の誘導訊問に対し嘘を言うと喜ぶと言う始末です。その一例は、沢口警部と言ふ人が私に対し「お前は、梅園上の公園計画の処で上田に大変世話になってゐるので、上田に一万円贈ったらう」と言うので、私は「そのやうな覚えは全然ありません」と言うと、「それでも上田は貰ったと言ってゐる。お前には何回も言うが、警察と言う処は両方の話しが合ふ迄はお前達を泊めて調べる処なのだ」と言う。それでは私も記憶のよい方でないから、上田さんが貰ったと言ってゐるなら贈った様な気がすると朧気なる申し立をすると刑事はその申立を調書にして、帰る時に明日検事の取調べがあるが、我々が下調べしたものを検事が又調べるのだから、余り否認したり立腹したりすると、検事の心證を害しお前の損だと教えて帰ったのです。
私は其晩嘘を言った為か寝られず、一夜を明かして翌日の夕方検事に呼出され恐る恐る検事の前に行くと「お前は昨日上田に一万円贈ったと供述してあるが上田を調べた処、上田は泣いて私は金さんから一万円なんて貰った覚えはないと言ってゐるが、お前はどうなのか」と尋ねるので、私は「それはその通りです。一万円なんてやった覚えは全然ないのですが、沢口警部さんが上田が貰ってゐると言ってゐるから何でも私がやってゐると言うので誘導され意にもない事を言ったのです」と言うと、検事はそれでは訂正して置くと言って訂正したのです。私は思ひました。アメリカ式民主警察とは、被疑者を最初より断定的に現行犯人扱ひにし、又調べに際しては真実の事は真向より否定した取調べ方なのだらうか、これでは善人は泣き悪人がよい子になるところと熟々思ひました。
調べは段々に進み留置場生活する事十六、七日頃と思ひます。又々刑事四人沢口警部、栗山警部補、小長谷部長、松島部長と来て、私にお前は建築の事で係官に相当の御礼をしてゐるだらうと調べるので、私は「建築の事では色々と世話になる代願の稲葉さんには、若しかしたら五千円位お礼として渡したかも知れぬ」と申立てると、翌日稲葉さんは私の朧気なる申立で逮捕され留置されたのであります。それからと言ふものは松島刑事が私と稲葉さんの間を掛持ちして、「稲葉はこんなに自供してゐる」と言ひ、又私がそれに口を合はすべく自供すると今度は稲葉さんの処に行き、「金はこんなに自供してゐる」と言ひ、結局数多い供述調書が出来たのですが、最初の五千円切りで何もなく双方でカマ掛訊問に引掛った金額が七万円位になり、私は贈賄未遂、稲葉さんは横領の嫌疑によるものなのです。当時の松島部長は私に怒号する卑劣な罵声を以て拷問するので、私は稲葉さんが、一日も早く帰れるやうと思ひ、刑事の言うがままに供述するより外に道がなかったのです。
刑務所記
勾留期間一杯の五月二十九日午後二時、私の力もつきて刑務所に護送されました。余りの疲労により入所した夜は其まま寝て了ったのですが、七時のニュースの時間に何気なくラヂオの音に目がさめると、生命に賭けてもと思ひつめた、明主様の勾留を知って、既に万事休すの絶望に萎え、激怒に慄え乍ら一夜を明しました。翌日刑務所員が、呼びに来たので行ってみると、沢口警部、栗山警部補、松島、小長谷両部長が来てゐるので、激怒の余り口を利かないでゐると、松島部長曰く、今日は金さん大変怒ってゐるけれども、お前は大先生が来られたのを知ってゐるかと言うので、私も今日は絶対に口を利かないと言うと、皆んなで今度はなだめるのです。曰く「何もお前の申立で我々が大先生をお連れしたのでなく、何でも相手のある事だから仕方がないよ。だからお前としてはまだまだ我々に話してない事が沢山あるから、一日も早く話して大先生にお帰りになって頂く外に、お前達責任者としての忠義の道はたたない」となだめるので、私は一言だけ「貴方々は良い様に言ふけれ共、結果は駄目なのだから、さりとて私は申上げる事はありません」刑事諸氏曰く、「今日は金さんは怒ってゐるから駄目だから帰らう」と言って帰ったのです。獄中は前科のある人達と話もし、聞きもしたが、前科者は皆々うまく逃げてゐる様に思はれます。泣く者は善者のみです。
私は只今起訴され帰宅の身でありますが、私も神に仕ふる身として、斯かる結果になった事は信仰の至らぬ為で、日々神様に詫び信徒の皆々様に謝してゐる者で御座います。只々真正なる裁きの日を待つのみで、法廷では、予想もされないナンセンス的事が、多々生ずる事と思っております。
(法難手記 昭和二十五年十月三十日)