十三、 灸、電気、鍼、按摩、手術

灸治法は、確かに相当の効果はあるものであるが、それ以上に不可なる理由が在るのである。それは、人間の肉体は、神の最高芸術品であるから、その曲線、皮膚等の美は、飽迄保たす様努めるのが本当であって、愈々その若さを保たすべく、些かも、汚さざる様になすべきが本当であって、之が、造物主に対し奉り、報恩感謝であり、大神心を安んじ奉る、人間の心構えであらねばならぬ。それに何ぞや、婦人等の艶麗珠の如き、雪の膚に見るも惨(ムゴタ)らしき、焼処の極印を、大中小羅列するに至っては沙汰の限りである。例へて言へば、園芸家が、美しく花を咲かしたとする。その艶やかな花弁面へ線香を以て、焼穴を作ったのと変りはない。その園芸家は如何に嘆くであらふ。之を思へば、灸治の如何に、間違って居るかが肯かれるであらふ。

故に、灸治に依って、病気治癒の目的は達せられたとしても、神へ対し奉り、冒涜の罪は免るる能はず、何時かは必ず、其罪の清算に依って、相応の苦しみは脱れる事は出来ないのである。

電気療法も一時的、相当の効果はあるが、病気を根治する事は出来得ないのである。之は多く説明する必要はない。霊から治す力がないからであって、体的に一時は良くするのであって、偶々、其病気が治癒する様に見ゆるも、必ず他に、悪結果を及ぼすものである。

鍼療は、灸と同じく、神よりの賜り物へ、傷を付ける業であるから不可なのは言ふ迄もない事で、又その効果も体的療法であるから一時的であって、根本治療にはならないから不可である。

按摩は、之丈は確かに保存すべきものである。何となれば、人間は、就中、都会人は、腕と脚の運動が平均しないものである。如何なる人と雖も、腕を使用するより、脚を使用する方がずっと多いのであるから、腰部より脚部にかけては、良く血液が循環するのであるが、腕より肩にかけては、自然血液の循環が、非常に悪いのは当然である。それが為、欝血して、肩や首筋が凝る結果になるから、之を補ふべく、按摩の必要があるのである。故に、平常出来る丈、腕の運動をする方がいいのである。

(日本医術講義録 昭和十年)