五、 西洋医学の誤謬と日本医学の建設

病気の原因は、精霊が曇るといふ事は、前述の通りであるが、それに対して、人間の肉体は、実に巧妙に出来てゐるのであって、今仮に病気、例へば、風邪に罹るとか、扁桃腺で喉が痛いとか、関節炎で節々が痛いとかいふ、夫等熱や痛みの、苦痛の本体は、一体何であるかと言ふ事なのである。実に、その苦痛こそ、病気其物を治癒すべき、霊妙不可思議なる、人間自身の工作である。

人間を造られた、主神の御意図は、本来、健康人体であって、人間が、天地の法則を破り、又は破らんとする、其意志や行為を、警(イマシ)め給ふ其為に、止むを得ず、病気なるものを存続せられてゐるのである。主神の御意志としては、天律を破らない、従而、病気をしない人間であって欲しいといふ事は、間違ひない事である。言ひ換えれば、病気とは、人間の不正行為に対する刑罰である。

故に、病気の苦痛には、二つの意味がある。一つは、悪を再びせざる戒めと、も一つは、肉体自身の治病工作のそれである。であるから、発熱とか痛みとかは、病気を治癒する工作であり、活動であるから、其苦痛は、一歩々々否一刻々々、病を軽減しつつあるのである。然し、何事にも最盛期があるので、病気に対する、その治病工作とても、峠があり、クライマックスがあるのであるから、最早苦痛に堪えないといふ時が、必ずあるものである。

然し、そういふ苦痛時は、永く続くものでは決してない。何故なれば、そういふ激しい苦痛の時は、治病工作が白熱的であるからで、そういふ時こそ、大いに、病気は治癒されつつあるのである。然し、今迄此事を識り得なかったので、病気の苦痛は、病気が悪化する為と誤解して、苦痛が強ければ強い程、非常に不安を感じ、医療を受け様とするのである。何ぞ知らん、事実は反対であって、苦痛が強ければ強い程、それは治りつつあるのである。

然るに、西洋医学は、元来が対症療法であるから、専ら病気の苦痛を軽減するに努める。即ち、熱が出れば冷まさうとし、腫物が腫れて膿が出やうとすれば、膿を出すまいとして氷で冷し、又は、薬で散らさうとする。痛みで治さうとすれば、其痛みを感じさせまいと注射をする。そういふ方法は、病気を治す処か、反対に治す工作の邪魔をして、実は、治さない様に努力してゐる訳である。恐らく誤りも之程甚しいものは外にないであらふ。且つ、事は人間の生命に関する大問題であるのに、それが、今日迄、気が付かなかったと言ふ事は、実に、驚くべき事ではないか。

観世音の霊示に依って識り得た私は、世界人類の為何条黙視し得べき、一日も早く、人類の覚醒を促さん為、真に治る医学、病気をしない衛生法、長寿可能の健康法を創成したのである。之が即ち日本医学なのである。

(日本医術講義録 昭和十年)