四、 病気の本体は魂なり

抑々、此現象界に於ける凡ゆる物質は、悉くが霊と体から成立ってゐるのであって、物質が腐敗したり、腐朽したりするのは、霊が脱け切って了ふからなのである。石でさへが、死石と言ってポロポロ欠けるのがあるが、あれ等が、霊が脱けた為なのである。金が錆びるといふのは、矢張り、霊が脱けて、其表面が屍(シカバネ)になったからなので、錆は、金の死骸とも言へるのである。然し、よく磨いた刀や昔の鏡が、錆が少ないのは、其工作者の霊が加はってゐる為である。併して、物質の霊は単に霊であるが、動物の霊は精霊と名付けられてゐる。生きた人間は、精霊と肉体と、密著(ミッチャク)不離になってゐるのであって、精霊が脱出して、現界から霊界へ行く事を、往生又は死といふのである。

然し、人間は、精霊許りかといふとそうではない。精霊ばかりなら、物質と違はないのであるが、凡て動物は、精霊の外に、否、精霊の中に心があり、魂があるのである。即ち、精霊の中心に心があり、心の中心に魂があるので、その大きさは、心は精霊の百分の一で、魂は心の百分の一の大きさが本当である。であるから、最初、魂が動いて心が動き、心が動いて精霊が動き、精霊が動いて肉体が動くのであるから、人体の運動は固より、凡ゆる肉体現象の本源は、魂其物から出発するのである。之を善悪に分ければ、肉体が悪であって心が善であり、心が悪であって魂が善であるのである。此善悪、善悪、善悪の軋轢が調和となり、それが、活能力となって現はれるのである。

故に、病気其物の発生は、肉体を動かす精霊の千分の一の容積たる、魂の其一部に発生するのである。此魂なるものは、小さくとも伸縮自在であって、人間が起きて働いてゐる時は、人間の形をしてをり、寝る時は丸くなってをるもので、死の刹那、人魂が丸くなって飛んでゆくのは、死と同時に、魂が丸くなり、心が丸くなり、精霊が丸くなるからなのである。其丸いのに光が伴ふから、人魂となって、偶々人間の眼に見える事になるのである。

人間の形をした魂の一部に、病気が発生するといふ事は、実は、魂の一部が曇るのである。即ち、其部分の光が薄らぐのである。それが心に写り、精霊に映り、終に、肉体に、病気となって現はれるのである。であるから、魂にさえ曇りが出来なかったら、絶対に病気には罹らないものである。然らば、何故に、魂に曇りが生ずるやといふに、それが罪穢なのである。此罪穢を説明するには、宗教の分野に入る事になるから、爰では、之丈に止めてをいて、肉体に現はれた病患の説明に移る事にする。

前述の如く、精霊が精霊の一部、例えば肺臓の部分に、曇りを生ずるとする。すると、其部分の血液が濁るのである。濁りが進めば化膿する事になる。此濁った血が、喀血又は血痰となり、化膿した膿汁が痰となるのである。臭気を持った痰は、此膿汁が古くなったのである。

肺病に限らず、凡ゆる病気は、右と殆んど同一の理に依って、発生するのであるから、治病の原理としては、此精霊の曇りを払拭するのである。然るに、此理を知らざる現代医学は、肉体に現はれたる病気現象のみを治療せんとし、研究努力するのは、末のみを知って、本を知らざるが故である。縦令(タトエ)、一時的小康を得るとも、根本的治癒は到底出来得べくもないのである。故に、我指圧療法は、観音の光に依って、此精霊の曇を解消するのであり、其曇が解消すると同時に膿汁が溶解し、病気が軽減又は消失するのであるから、此精霊の浄化が肉体へ映って病気は治癒するのである。然乍ら、未だ之のみにては根本的とは言ひ難いのである。無論医術よりも根本的ではあるが、絶対とは言へないのである。何となれば、魂が、全く浄化されなければ、真の安心は出来ない訳である。魂の浄化とは、其人が正しい信仰を把握し、其行を実践するのでなくては徹底しないのであって、其行が観音行であるのであるから、其所まで行けば罪穢の発生は全然無くなり、反対に徳を積む人となるに由り、無病息災所か、歓喜法悦に満ちた生活が出来、福徳長寿の幸を得て、一家弥栄える事になるのである。

序だから、魂に就て、今一つの事を説いてみる。それは、能く物に驚き易い人や、何時も不安状態で、何となく、そはそはしてゐる人とがある。是等は、其魂が弱ってゐるので、外界の衝動に対する抵抗力が、薄いからである。現今非常に多い、神経衰弱といふのは斯ういふ人である。此原因は、矢張り魂に曇があるから弱るので、斯ういふ人は多く首筋に毒血の凝血が必ずあるので、之を溶解すれば治るのである。之が激しくなれば不眠症を起すのであって全快後も、再発の患(ウレエ)を無くするには観音信仰に入り魂が光に照され曇の生じない様にするのが、最良の方法である。

(日本医術講義録 昭和十年)