六、 絶対健康の可能と長寿法

恐らく、人間として、絶対健康と長寿を冀はぬ者は一人もないであらふ。然るに、今迄それを求めやうとした人類は、何に求めたかと言ふと、それは科学に求めたのである。之が抑々の誤謬の根本原因である。人間の肉体が、科学に依って造られたものならばいざ知らず、そうでない以上、科学で出来た薬や器械で治らふ筈がないではないか。神に依って造られた人間である以上、生命の神秘や其構造の、霊妙不可思議なる、到底、今日の学問の程度では知る事が出来ないのは当然(アタリマエ)である。それは、草木の成長や、太陽の光の正体、天候の予測が付かないのと同じ様なものである。

病気の原因に就ても、風邪の原因すら、未だ判ってゐないのであるのを見ても、思半に過ぐるであらふ。今日、肺病とか、胃病とか、何々結核とか、何々炎とか言った所で、それは病気として、現はれたる現象、言ひ換へれば、何等かの原因に生れた、其結果であってそれへ当て嵌めて病名を付けた丈のものである。例えば、肺病に罹ったとする。何故、肺病に罹ったかと言へば、黴菌を呑込んだからと言ふのである。然るに、黴菌は誰しも、毎日、何万匹呑込んでゐるか判らない。それなのに不公平にも病気に罹る人と、罹らない人が出来る。

医者は言ふであらふ。病気に罹るのは、其人が肺が弱いからであると。処が、何故、肺が弱く生れたのかと訊けば、其先は判らない。又、胃癌が発生したとする。其原因は判らない。子供がバナナを食って、疫痢になった事はよく聞く事であるが、バナナを食って疫痢になると決ってはゐない。年中食っても疫痢に罹らない子供もあれば、又、食っても何ともない時と、罹病する時とがある。まさか黴菌のあるバナナと、黴菌のないバナナとある訳のものではあるまい。バナナは皮を剥(ム)いて食ふものであるから、バナナ自身はみんな同じものでなければならない。然し、今日の医学上、疫痢は、黴菌の媒介に由るといふ学説である。そういふ様な訳で、黴菌に依って感染するといふ事はあるには違ひないが、此黴菌を人間に絶対附着侵入させないといふ事は、此複雑なる社会に生活してゐる以上、絶対不可能であらふ。或程度迄の衛生的予防より以上は不可能の事である。

吾々が電車に乗るとする、お隣りに肺患者が乗らないと、誰が保證し得やう。又、冬など、閉め切った電車内、満員であれば、五人や十人の保菌者は乗合してゐない事はあるまい。先づ、冬の電車に二三十分も乗ったら、一万や二万の結核菌は御馳走になると思はなければならない。次に、吾々が、毎日手で扱ふ貨幣である。紙幣にしろ、硬貨にしろ、肺患者や、梅毒患者が、タッタ今持ったかもしれない。それだといふて一々消毒をするといふ事は、絶対不可能である。又小売商店の販売人等は、貨幣を手にする事、一日何十回なるを知らず、まさか、その度毎にフォルマリンの消毒をする訳にも行かないから、其手で飯も食へば、菓子も撮(ツマ)むのは当然(アタリマエ)の話である。

菓子屋などを見てると、客から銭を貰ひ、勘定をすると、其手を以て、次に来た客へ売る菓子を直ぐに撮んで入れてるではないか。是等の実際を見る時、絶対に黴菌に侵されない様にするといふ事は、人類生活に一大変革の起らない限り、到底不可能な事である。絶対不可能でありとすれば、人間自身の身体の方で、縦令、黴菌が如何なる場所から侵入するとても、決して病気の起らないといふ、鉄の如き健康体を造る事が、理想的ではあるまいか。そういふ不死身の様な身体が出来る方法が有り得るとすれば、斯んな偉大な福音があるであらふか。それは私が創成した、日本式医学衛生を実行する事に由って、必ず可能なのである。

如何なる黴菌にも犯されないとすれば、其人は無病息災であるから、自然に、老齢天寿の来る迄は、生き得らるる道理である。先づ、人間の天寿としては、九十から百以上は可能であるから、爰に、長寿の希望は達し得らるるのである。故に、絶対健康法と長寿は、切っても切れない関係である。

(日本医術講義録 昭和十年)