昭和二十四年五月二十五日
【問】絵画、彫刻等人工芸術の極致とは誤らざる自然の描写でありませうか。又芸術は美の追求であると考えますが、真善を具えれば全きといふべきでせうか。
【答】芸術の極致は自然のままを描写するのでなく、人格を通して真善美を表現するのである。西洋でも印象派、以前は写真のように克明にかいた。これは本当の芸術ではなかつた。処が日本の光琳の画がフランスへ行つた。光琳の画は無線で、単純なもので、これをみたフランス人は吃驚した。これは細密に自然描写をするより、単純にした方が反つて印象が強いといふ事を発見し、最初アール・ヌーボーといふ人がこれを図案に応用し、終に欧洲を風靡した。この影響を受けて後期印象派の如き素晴しい芸術が生れたのである。フランスでは「世界を動かせる光琳」といふ本が出たが、光琳は死後三百年を経て世界の芸術を革命したと言ふ事は日本最大の誇りである。私は今に光琳神社を建立したいと思つてゐる。光琳の影響は絵画のみではない。建築にまで革命を齎した。単純な線を応用したセセツシヨンの如きもそうである。丸の内の第一生命はその代表的な様式である。又総ゆるものの模様が単純化したのも皆光琳の影響からである、彫刻とても印象派の影響を受けてゐる。昔は細かく滑かに作つたのであるが、荒つぽい簡素な彫り方になつた。佐藤朝山(清蔵)の如きも現在では代表的のものであらう。
芸術は美の極致を表現すべきものであるが、高い低いはある。最高のものは真も善も具備されてゐる。それは人間の霊の高さによるのである。音楽でも文学でも同様で、之等に就ては何れ詳細にかくつもりである。
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昭和二十四年五月二十五日
【問】正月に就て。
(一)一月を正月といふ意味
(二)松竹梅のおかざりの意味
(三)〆飾り
(四)お飾りに使用する裏白、昆布、幣、海老等
(五)小豆粥
(六)七草
【答】之は大した意味はない。一月を正月といふのは、年頭に当つて今迄の間違つた事悪い事を反省して正しく出発しようという意で、正しく始める月といふ意味である。
松竹梅のおかざりは、松は六、竹は七、梅が五で五六七(ミロク)になる。故に本当は梅松竹と書くべきだが、松は一番位があるので松竹梅としたもので、やはりミロクという芽出度い事の予言でもある。
飾り七五三繩の由来は、神代に国常立尊を艮へ押込め、その系統の神々をも押込め、再び此世に出られぬ様にといふ意味でシメを張つたものだといふ事になつてゐる。
その他柊はトゲトゲしてゐるから悪魔除けの意味。ぞう煮は尊の臓腑を煮て食ふといふ意味で、小豆粥は血と筋を食ふ意味、又煎豆を撒くが、これは煎豆に花が咲いたら出よといふ事等で鬼門を非常に恐れた。昔から良い事を反対に解した事は沢山ある。
裏白、裏の白いといふ事は浄い事で、裏に秘密や暗い蔭などないといふ意味。白は清浄の色で、神主の着る白衣は浄衣といふ、昆布はヨロコブの言霊で、幣は祓ひ浄める意味、ヌサから出てゐる。橙は代々喜ぶにかけており、ゆづり葉は家督とか名とか嗣ぐ意味、海老は腰の曲る程寿命の長い事。要するに芽出度いものを集めたのである。
七草といふのは一種の迷信である。昔から七の数を多く使つたものである。子供が生れればお七夜を祝ひ、死ぬと初七日とか七七四九日を最後の法要日とする。春秋の七草、何々の七不思議、七曜、北斗七星等々で、又七は成り鳴るで物が完成する意味であるから、七草といふのは正月が一期済んだといふ訳で、創世記にも、七日目に完成、日曜日に神が休んで祝ふとある。
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昭和二十四年五月二十五日
【問】霊界では年令はどうなるでせうか。
【答】霊界の年といふのは、実に千差万別で地獄と天国と違ふ、天国は若くなる、地獄の霊は年寄のやうになる。又霊界で年とつて育つのもあり年中同じのもある。私も天国へ行けば三十才位になる。霊界へ行くと年令は違つても、親子はどこまでも親子である。霊界は凡て其人の想念の善悪と罪穢の多少、使命の必要、霊位の高下等によつて千差万別である。
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昭和二十四年五月二十五日
【問】七才の女子左足発育不充分にて昨年春より御浄霊を受けました。今日に至り左腰より五分位の穴があき膿が出ます。又食後嘔吐します。此子の霊的原因と救ふ道をお教え下さい。
【答】之は霊的ではなく脊髄カリエスの軽症である。膿が出るのは結構で、出るだけ出れば治る。食後嘔吐するのはカリエスの浄化熱に因る為である。カリエスでなくとも背中に熱が出ると吐気が起るものである。
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昭和二十四年五月二十五日
【問】田畑の害虫駆除する方法。
【答】之は駆除するより発生しないようにするのが本当である。主原因は人肥金肥消毒剤を使用する為であつて、消毒剤などは土へ入つてそれを植物が吸収するためである。無肥料なら絶対虫害はない。雑草を見ればよく判る。そして肥料をやると作物は弱る。作物が花落したり実が落ちたりするのは皆肥料の為である。
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昭和二十四年五月二十五日
【問】当年三才の男子、乳離れした時から御飯や野菜を嫌ひ、魚及び肉類のみしか頂きません。一日中肉類か魚をやりませんとヒイヒイ泣きます。どういう訳ですか。
【答】動物霊が憑いてゐるか、動物が人間に再生したもので、まあ猫とか犬のようなものだらう。前生の動物霊の性能が、転生しても性癖は多少は残つてゐるものである。入信して気永に浄霊すれば段々快くなる。
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昭和二十四年五月二十五日
【問】東洋と西洋の霊界の相違。
【答】東洋の霊界はピラミッド型になつており、階級的である。西洋のそれは概ね平面で、少し立体的になつてゐる位で幾らか階級がある。言葉でも日本の言葉は非常に階級的で、西洋の言葉は平面的である。
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昭和二十四年五月二十五日
【問】憑依霊は副霊の働きの強い時に憑依するでせうか。亦憑依する霊は先祖に関係あるでせうか。
【答】副霊が憑いてゐる肉体へ別の副霊が憑くべく入らうとして争ふ事がある。其際憑依霊同志が戦ふので、人間の方はクラクラしたり、煩悶状態になるものである。そして前住の副霊が後入より弱い時は後の霊が勝つ事があるが、それは一時的で長い間にはやはり先住の副霊が勝つのである。
先に墓地に接近すると必ず病床に寝る人があつたが、これは死霊が憑くのである。又或松の下を通ると必ず死にたくなる所があつた。之も縊死の死霊が憑くのである。狐などは臨時に憑いて人を殺したり悪事をさしたりする事が多いのである。そういふ事のうまい程、彼等の仲間で巾が利くのである。祖霊は人間に何か伝える時など大抵は狐に委託するものである。
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昭和二十四年五月二十五日
【問】宗教、芸術、文化の誠とは如何なるものですか。
【答】如何なるものにも善悪正邪があり、宗教でも正教と邪教がある。全然邪教といふものはないが、大抵は堕落の結果横道へ外れたり、外道に堕ちたりする。今迄は最初は良い目的で始めたものが中途から邪神に利用される。即ちその宗教が力が弱いから邪神に負けるのである。世間は新しいものを邪教視するが、新しいものには良心的なものが多く、比較的古いものに邪教が多い。古いもの程黴が生えたり破損したりなどしてをり、邪神に負け易いからである。宗教によつて救はれるといふ事は、入信以前よりは幸福になるものでなくてはならぬ。例えば身体が丈夫になるとか、貧乏だつたのが豊かになつたとか、家庭が融和する状態になつたとかいふやうに。
次に芸術にも正不正がある。それは芸術によつて良い感化を受け、崇高な観念が湧くとかいふようなものが誠の芸術である。処が反対に邪念を起さしたり堕落さしたり、不快を催したりするものも多い。例えば近代絵画の如き、特に洋画の人物などは妖怪の様である。之等は自分の主観を恣まにしてゐるからで寧ろ美術ではなく醜術といふべきである。之も或時期までで又改められる事になる。今の日本画は描くのではなく塗沫である。例えば書をなすつたらどうなるか、それは芸術品ではなく提灯屋の書いたものと同じである。日本画は筆力とその味はひを出す所に価値があり、それが真の芸術である。故に塗沫絵は美術工芸品だと私はいふ。
次に文化の誠であるが、文化といつても非常に広いのであるが、それを人類が利用する場合それが為社会が良くなり、人類の発明や発見を利用して人殺しや世の中を悪化させるのは誠の文化ではない。斯様に人間の使い様によつて文化は善くも悪くもなるのである。
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昭和二十四年五月二十五日
【問】現在の哲学が唯物主観的立場にある以上迷学といふべきではないでせうか。
【答】哲学は本来唯物主観的であつて、その一歩上が宗教である。つまり科学と宗教の中間が哲学で、どちらかといえば唯物の方に近いものである。だから哲学には疑問が多く結論がない。それで哲学へ入ると迷ひが深くなる。要するに哲学は疑問を並べたものである。故に哲学は一種の参考としてみるのはよいが、それによつて万事解決しようとしても駄目である。そうでないと懐疑に陥り易い。
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昭和二十四年五月二十五日
【問】分霊と化身に就て。
【答】分霊とはわけみたまといひ、人間にはないが神様はいくつにも霊を分けられる。然し神社で同じ神様を方々で祀る場合神の分霊といふが本当をいふと、家来の直系とか傍系などの神様もある。然し天の御中主神とか高皇産霊神皇産霊神とかはそうでないが、伊邪諾尊、伊邪冊尊、天照大御神などは人体をもつて一度此世に現はれ給ふた神であるから、爪や頭髪を分けて祭られたのである。
化身で一番重要な事は、仏は全部神の化身であつて、夜の世界の間は仏の世であるから神々は全部仏に化身された。天照皇大神が大日如来、月読尊が阿彌陀如来、稚姫君尊が釈迦如来というようにである。随而、仏滅といふ事は仏が皆元の神格に還り給ふ事である。善言讃詞に「観世音菩薩此土に天降らせ給ひ、光明如来と現じ応身彌勒と化し」とあるが、観音は伊都能売の神であり、ミロク神の化身である。従而、何れは観音といふ御名も無くなる時が来る。霊界では既に殆んどなくなつている。
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昭和二十四年五月二十五日
【問】宗祖、開祖は八衢にあつて教を垂れてゐるんでせうか。
【答】宗祖開祖は天国又は極楽にゐられる。八衢で救ひをしてゐるのは全部その弟子で、即ち神主とか僧侶布教師、伝道師等である。然し中には右のような宗教者でも罪の為八衢や地獄で苦しんでゐるものもある。これは間違つた事をしてゐたからで、その罪は宗祖開祖が一部を引受ける場合もある。
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昭和二十四年五月二十五日
【問】キリストと十二人の弟子に就て。
【答】キリストには十二人の弟子があつた。その中一人は彼のユダがイエスに叛いた為、実際は十一人の弟子である。
その当時、当局の圧迫がひどく、弟子達は皆逃避し十年の間はひつそりしてゐた。十年以上経つて皆寄り合つて教の元を作らうといふので、皆でイエスから聞いた心覚へをかいた。それがバイブルであるから、キリスト御自身の書いたような訳にはゆかないであらう。旧約はモーゼが書いたもので夢みたいな謎が多いが、それは神懸りに因るものである。ヨハネが作つたといふ説もあるが、之はモーゼがかいたといふのが本当であらう。圧迫のほとぼりの覚めるに従ひ、内密に書いたのが聖書である。 仏教のお経とても釈迦の説いたものを弟子が書いたものである。釈迦はただ説くだけであつた。
キリスト教徒にはなかなか偉い人があつた。アフリカ探検の有名なりヴイングストン博士の話を聞いた事があるが、実に偉い人で私も感心した。此人はアフリカ探検の際凡ゆる危険を犯して伝道したが、土人の鉄砲に包囲された中を平然と通過した。其時の彼は「もし自分が現世に用事があれば、絶対に神は自分を殺さぬ」といふ信念であつたとの事である。
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昭和二十四年五月二十五日
【問】遠方へ布教開拓に出た場合最も効果的な方法を御教え下さい。
【答】別にこういふ方法といふ事はない。根本的に云つて誠である。誠の強い人は神様の御守護がつよいので、霊が強力に働くからいゝ結果が得られる。決して焦つてはいけない。焦ると人間の力が上になるから逆効果を来す。又その地方によつて、効果あるなしはその土地の霊界の明暗が大いに関係がある。又産土の神の系統による事もある。熱心な祖霊の活動にもよる。自分は最善の法をつくして、後は神様にお委せすることである。又神様の方ではすべて時期と順序がある。此土地を開いてからでないと、彼の土地は開けぬといふ場合がある。それが人間の思惑と違ふことが多い。それを人間は知らぬから、うまく行かぬと焦り出す。此注意が肝腎である。
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昭和二十四年五月二十五日
【問】連れ子をして再婚した者ですが、夫に愛情がなく観音様の道も理解して呉れません、離婚した方がよいか迷つております。御指導願ひます。
【答】お指図は出来ない。之は観音様にお任せしておくのが一番いゝ。決して無理をしたり、荒立てたりしてはいけない。観音様にお任せし時を待つてゐれば必ずうまく解決する。罪穢相応に苦しむのである。人間は霊層界に籍があるが、夫婦の中一方が磨けて向上し、余り両者の位置が放れると、どうしても生別れ死別れする事になる。 右の理によつてどちらかが磨けた方へ接近しなければ共白髪まで添ひ遂げる事は出来ない。
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昭和二十四年五月二十五日
【問】本教に入会させて頂き一年半になります。親が反対しますがどうしたら宜敷いでせう。
【答】そのまゝにしておいたがよい。時節が来ぬのであるから、無理に入会をすゝめてはいけない。気長に時を待つのが一番いい。するといつか祖霊が入信しなくてはならぬ様にしてくれる。又こういふ点もある。それはその人に副守護神が間違つた心や行ひをさせたりしようとしてゐるのが、その人が入信すると、そういふ間違つたことが出来ぬ様になるため入れない様に邪魔する場合もある。又よく二号や三号を置いてゐる人で、妻君が入信し本人も良いお道だと思ってゐて入らない人がよくある。それは入信すると二号や三号もやめなくてはならぬ。それが恐くて入らぬ。そのくせ人には奨める。そのうち二号三号もおけぬ境遇になり、初めて入信する人もある。
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昭和二十四年五月二十五日
【問】稲荷を部屋の内に祭る事はよろしくないように伺つてゐますが、今迄部屋の内に祭つてあつた稲荷を庭に祭らせて頂く場合の方法を御教示願ひます。
【答】稲荷はやたらに祀り替えてはいけない。怒つてアダする事がある。祖先からあつた稲荷は大祖先が稲荷になつて守護してゐるのであるから部屋の中でいゝが、中途の祖先が祀つたものは処理した方が宜しい。其場合お供物を上げて今日迄の御守護の礼をいつて、今度観音様をお祭りする事となつたからお帰り願ひたいと口で言ふだけでよい。祝詞は天津祝詞を奏げればよい。
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昭和二十四年五月二十五日
【問】真を行ふには如何致したらよいでせう。
【答】自分の事を第二にし他人を良くするのが誠である。即ち人良かれの精神、利他的精神である。世の中とか社会の為になる事を行ふ事である。真とは嘘の反対で本当の事である。然し乍らただ正直のみでも困る。智慧が働かなくてはいけない。常識的判断がよい。自分の国家とか階級だけ良くするのは善い様に見えて真ではない。それは小さい真であるから突つめれば真でなくなつてしまふ。どうしても人類愛を本として判断しなくてはならない。
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昭和二十四年五月二十五日
【問】宗教教育とは魂の啓発でせうか。
【答】世間一般の宗教々育と我々の宗教教育とは違ふ。今迄の宗教の説き方は幼稚園程度で、これ以上は教える事が出来なかつた。信仰雑話は小学程度の教科書である。
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昭和二十四年五月二十五日
【問】過去の宗教で何故霊は救はれなかつたのですか。
【答】全然救はれなかつたのでなく、救はれ方が微弱であつた。といふのは過去の宗教には力が薄かつたからで、それは夜の世界の為であつた。夜は月の光だからである。然し暗の中にゐる人間が月光に浴したので有難いと思つてゐた。処が今度の私の救ひは太陽の光で、太陽は月の六十倍の力がある。その位の違ひがあると思つてよい。今迄の教は月の光だからはつきりしない。今度の信仰雑話ははつきりしてゐる。これを読んでも判るように極く僅かの言葉で浩澣な経文と同じ事が判る。だから今迄は霊界へ行つても寂光の浄土に救はれた。寂光とは月の光である。太陽の光なら陽光である。
(地天四号 昭和二十四年五月二十五日)