昭和二十四年三月一日
此欄の記事は、多数の信徒から寄せられたる難問、疑問に対し、大先生に於かれては快刀乱麻を断つ如く懇切丁寧に応答せられたる中から毎号掲載し、信徒諸氏の身魂の糧として熟読されん事を望むのである。
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昭和二十四年三月一日
【問】真理に就て。
【答】之は一概にいえない。真理は其人の見方と立場によつて異ふ。神から御覧になるのと人が観るのと違ふし、神でも上中下の位があるから、下位の神の見らるる真理と、最高の神の見らるる真理とは又大いに異ふのである。人間が真理と信じてゐる事で、神から見て逆理の事も往々ある。森羅万象の一切と其動きは真理ならざるはない。何となれば万有全体の上に座す神としては、その全体が御自分の物であるからである。又一切を二つに分けると、その各々の真理は陰陽相対的に異つてくる。その二つのものがそれからそれへ幾つにも分れるに従つてそれぞれ異つてくる。要するに小さく考えるのと大きく考えるのとでも異つて来るのである。
人類社会に於る真理、それはどうしても正しい事を基本にしなくてはならない。宇宙の真理とても善を主に動いてゐるからである。もし悪を真理とするとすれば、人類社会は既に崩壊し一切は滅亡してゐた筈である。そうならないで現在の如く栄えてゐるのは、少しづつでも正が勝つてゐる事を証拠立ててゐる。これによつてみても善が栄えるのが真理であるといふ事に帰着するのである。
然し乍ら人類社会に善なる者のみで、悪なるものが無かつたならば今日の如く文化は発達し得なかつたのである。悪があつて善の活動を妨げたり苦しめたりする事によつて善の力を強め、その進歩を促進せしめたのである。以上は大乗的な説方であつて或程度の覚りを開いた人に説くのは差支えないが、小乗的な人にはその真意は解し難く、誤解を招くおそれがあるから注意すべきである。
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昭和二十四年三月一日
【問】観音力、観音行、観音心に就て。
【答】観音力とは観音の発揮する力であつて、この観音力を戴けば人間が之を発揮する事が出来るのは諸君が無数の奇蹟を行つてゐる事実によつても明かである。ただ其際人により発揮する力の強弱の差別はある。
観音心とは観音の大慈大悲の御心でありその御心を心として体現する事が観音行である。特に観音心行に於ては絶対に人を咎めてはならぬ。此人を尤めるのが一番いけないのである。
御讃歌に菩薩行といふ事があるが、菩薩とは仏教では覚者を指すのである。この菩薩までは誰でもなれるのであるが如来には容易になれない。如来も無論印度の位で、尊者、菩薩何々天、如来、明王といふ位がある。菩薩行とはその菩薩になるまでの行をいふのである。
観音様の事を無礙光如来とも応身弥勒ともいふのであるが、之は自由無碍、円転滑脱、行詰る事のないお働きをいふ。又応身とは、相手に応ずる事で、時により所により人により凡ゆるものに応じ千変万化の行をするので三十三相に化現されるといふのも、応身のお働きを示したものである。であるから観音行に於ては先づ応身する事が出来なくてはいけない。そして本当に観音行が肚へ入ればどんな事でもうまく行くのである。
観音様は一面非常に勇猛な点もあるので、最勝妙如来といふ御名もあり、又馬頭観音のお働きもあるが、此場合は獣になられて悪鬼羅刹を克服されるのである。
神様の事は悉く極めて合理的であつて、神様のなさる事やお許しのある事は必ず肯けるべき理窟がある。従而人間の行動も無理がないと共に理窟が立たなくてはいけない。然しそれは決して窮屈に難しく考えるのも感心出来ない。要するに信仰は当然の事を行えば良いのである。よく「果報は寝て待て」といふが、あらゆる事は決して焦つてはいけない。寝て待つ位な、常にゆつたりした気持でなくてはならぬので、そうすれば物事がうまくゆくといふ事で、之も観音行の一面である。
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昭和二十四年三月一日
【問】インフレ解決の時期。
【答】之はもう長くはない。凡ゆるものは陰陽が交る代る転換する様になつており、陰の極は陽に転じ、陽の極は陰に転ずるのである。インフレとてもそうであつて上つたものは下るに決つてゐる。只問題は峠即ち天井と底を知る事である。然るに現在はインフレの峠になつてゐるか、下り坂になつてゐるか、或は中途であるかであるが、インフレといふものはどんなに続いても十年以上は続かない。
インフレの一番の原因は主食を統制した事にあるので米の値段がすべての物価を支配する事は誰も知つてゐる。処が今は主食は輸入と相俟つて間に合つて来つゝある。又物が下り始めると思惑で買控える事となるから下げに拍車を掛ける事になる。そして近頃食料品以外の物も生産が増して来た。その上日本は軍備がなくなつたから、今迄それに消費した国力を平和産業に振り向ける事となるから何れは物が非常に殖えて使ひ切れぬ位になる。現在物価は最も上らぬものでも百倍位になつており、物によつては千倍或は三千倍位になつてゐる。故に今は寧ろ下る時の準備をした方がよいと思ふ。又何事でもそうであるが、上げる時には時間が掛り、下る時は早いものである。「山高ければ谷深し」といふ諺があるから注意すべきである。とは云ふものゝ万一米ソ戦争が始まるとすれば考え方は又異つてくる。又平価切下げも考慮に入れておく必要があらう。
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昭和二十四年三月一日
【問】光明如来様をお祭りしてあるお部屋へ入ると、麝香よりも線香よりも、ずつと好い匂ひがする。特に立派な先生の御宅の御奉斎の間へ入ると一層強く感じますが、如何なる訳でせうか。
【答】神霊は何ともいへぬいい匂ひのするものである。匂ひといふのは真善美の中、美のうちに入るので、天国や極楽などは芳香に満ちてゐるものである。
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昭和二十四年三月一日
【問】お盆の意味に就てお伺ひ致します。
【答】釈尊の大慈悲から盂蘭盆会といふものを作り、毎年一回日を決めて地獄にゐる霊を子孫の家へ還らして下さるのである。その日は地獄の釜の蓋が開くといふが、兎に角地獄の祖霊も仏壇へ招かれ子孫に供養される。地獄の霊もそれを知つてゐて待つてゐるのである。
元来祖霊は常に全部仏壇にゐる訳でなく、平常は選ばれた留守番の霊がゐるだけで子孫が拝む時だけ仏壇に集るのである。その際仏壇には或程度救はれた霊だけしか来られない。つまり八衢以上のものが来られるので、地獄にゐる霊はお盆の時以外は来られないのである。
お盆には種々の儀式を行つて霊を迎へるのであるが、「おがら」を焚くのはこゝからお入り下さいといふ目印である。之は今迄夜の世界だつたため霊界も暗いので燈りを見せないと霊がまごつくからである。
茲で注意したい事がある。それは仏事はどんな古い先祖でもする程よい。又長男だけが祖霊を祭り、次男以下は祭らないのがあるがこれはよくない。霊界人となつてもやはり現界と同様親子兄弟の情は同じ事で、自分の子供のどの家へでも行ける様にありたい訳だ。従而、次男も三男も全部祭るべきである。
位牌が多くて始末に困る時は面識のある祖霊はそれぞれに位牌を作り、面識のない祖霊は先祖代々にまとめてよいのである。
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昭和二十四年三月一日
【問】人間往生すると北枕に寝かし、着物を左前にしたり、逆さに掛けたり、逆さ屏風にしたり、死体の上に刀を置いたりする習慣になつてゐますが之は如何なる訳でせうか。
【答】元来方角からいつて北は霊、南は体である。人間が死ぬと霊になるので、北へ向つて往くのが本当である。往生する時、天国へ往く霊は額から、地獄界へ落ちるのは足の拇指から、八衢へ往くのは臍から、それぞれ脱出するのであるが、天国行の霊は少ない事は勿論で兎に角天国へ行く様にといふ意味から北枕にするのである。そうして方角の中北が主で一番位が高く霊気が濃いのである。
北とは言霊学上気足(キタ)で、即ち霊が満ちてる事で磁石が北を指すのもそのためである。従而、体は南へ、霊は北に属する。これが原則である。故に生きた人間とても北枕にした方がよい。昔から頭寒足熱といふが頭を冷く、足を温める訳で私は昔から北枕にしてゐる。然し北枕がいいといつても床の間が南になつてゐる場合は不可である。
死者に着物を左前にしたり逆さにかけたりするのは現界と霊界は逆であるからで、すべて反対が理窟に合ふ事となる。
刀は魔除けのためにおくので、死人を魔が狙ふとか、猫や邪霊などがいたずらをするといふ訳だがそんな事はないので、之等は生きてる人の気慰めにすぎない。
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昭和二十四年三月一日
【問】恋愛に就て。
【答】此問題は非常に広く多角的なものであるから端的に斯うといふ事は言えない。普通の恋愛即ち純粋の恋愛は神様から与えられた御恵で、これは結構なものである。然しバーナード・シヨウは「恋愛は子孫を絶やさぬ為の一種の手段である。」と言つたが、全く穿つてはゐるが冷たい見方である。本来恋愛そのものは悪いものではないが、恋愛にも正邪があるのであつてそこに正しい判別を要するのである。
本当の純愛で結婚が成立するのは勿論善い事であるが、一方に妻あり夫がありながら、他の者に恋愛すればその為に結局人を苦しめる事となるから罪を作るので、よく考えなくてはならぬ。一時的の享楽の為に大きな苦しみを得る事は甚だ詰らぬ事である。須らく叡智と道義を本として判別すべきである。
但し右の如き恋愛でも想念だけなら大した罪にはならないが行動に移すと罪になるのである。
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昭和二十四年三月一日
【問】自己の不徳のため、相手に迷惑を及ぼしたので之を謝罪し相手も許してはくれたものゝ尚且つ自己の良心に責められる場合、安心を得られる悟りにつき御垂示下さい。
【答】相手が許したら罪は大方消えてゐるが、それで全部が消えた訳ではない。真の裁きは神様がなさるのだから神様が許したのでなくては完全ではない。先方が許せば怨みの霊が来なくなるから大きい影響はなくなる。恰度法律に触れる様な罪を犯した場合、悔改め自首しても刑罰は軽くはなるが無罪とはならない、それと同様である。
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昭和二十四年三月一日
【問】重病人で脈搏以外に臨終を知る方法を御教示下さい。
【答】死期を知るのは霊感が一番よいが、体的にも種々な徴しがある。即ち死相であるが、昔から眼の縁が黒くなり、小鼻が落ちる事など謂ふが、一番よく判るのは顔が死人の様にみえる事である。又足の甲に浮腫が来ると大抵は駄目である。然し甲の上から上方へ平均して浮腫のあるのは一般的病気症状で之は生命には関わらぬ。又唾が出なくなつたり、唇がギザギザに乾くのもいけない。目に力のないのも先づ見込みはない。特に頭が変になつてトンチンカンな事をいふ様なのは、既に本霊が抜けてゐるのでこれは絶対駄目である。
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昭和二十四年三月一日
【問】墓石に自然石を用ひるのは墓相学上よくないと聞いておりますが、墓相といふものはあるものでせうか。
【答】人間に人相がある様に墓相の可否も多少はある。自然石を墓石にするのは余りよくない。自然石は本来庭石などに使ふべきもので、斯ういふ事に使ふのは理窟に合はぬからである。
やはり墓には墓石の形にするのが本当である。霊によつては斯ういふ事を非常に嫌ふのがある。墓参に行くと、祖霊が墓へ挨拶に来る。その時墓が法に適つてゐないと嫌がるのである。霊界人はすべて法則通りを好むので実に几帳面なものである。 又黒石を大変嫌ふが元来黒色は地獄とか悪魔を表徴するからで、天国は白色又は紫色で表はすものである。
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昭和二十四年三月一日
【問】入信してからの不幸災難の原因に対する神の慈悲と恵に就いて。
【答】信仰者に対し神様が恵みを与へようとしても、その人に罪穢があつては神恵を受ける資格がないためである。即ち入れ物の中が汚れてゐるからそれを取除いて奇麗にして下さるといふ訳である。
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昭和二十四年三月一日
【問】自家で飼育した家畜を殺して食べる事は罪悪になりませうか。
【答】家畜類を殺して食ふ事の可否は一概には決められぬ。営業で殺す場合は割合に罪は軽いが、そうでないのは重い訳で動物と雖も殺されれば怨む。その怨みも沢山になると共同して人間に対し恨を返す事になる。故に年に一ぺん位まとめて供養してやるといい。そうすれば罪は消える。営業でなく自家の家畜を殺す場合は怨みが大きいから必ず供養してやる要がある。そうしてその時幽世の大神様に「その家畜類が此次は転生して人間に生れ代らして下さるよう」御願してやると、反つて大きな功徳となるのである。
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昭和二十四年三月一日
【問】自己の行に対しては専ら小乗的に律し、他人に対しては大乗的に行くべきが本当でせうか。
【答】之は大いなる誤りである。大乗的といへば自分も他人もあらゆる事に大乗的でなくてはならぬ。自分を小乗的に律する時はそのため自分自身が拘束され、働きが狭まり力が出ぬ。
戒律などは小乗的なもので狭い、こうしてはならぬ、あゝしなくてはならぬと限界を作ると進歩発展が出来ぬ。要するに何をしても良いといふ具合でゐて、自ら総てに渉つて法に外れず道に叶ふ様でなくてはならない。
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昭和二十四年三月一日
【問】私は東京で戦災に遇い只今他地に住つておりますが、相次ぐ物心両面の苦しみに堪え兼ねつつも救いのお道の為、大いに働かせて頂き度いと衷心より願つて居りますが、それも思ふように出来ませんが、どういふ訳でしよう。
【答】これは罪穢が沢山ある為でもあり、又大きい使命があるからでもある。大きい使命のある人はより磨かねばならない。それが為苦しい浄化はあつても、その人に信仰のある場合神様は必ずそれに堪え得るような奇蹟や、一方良い事を与え希望を持たせて下さるものである。故に信仰さへ動かなければ左程苦しまず必ず一歩々々好転してくる。故に結局は良くならんが為の苦しみと覚るべきである。
(地天二号 昭和二十四年三月一日)