龍神界

龍神などといふと、現代人は荒唐無稽の説と思ひ、古代人の幻想による作為的のものとしか想ふまいが、実はそうではないので立派に実在してゐるのである。

それに就て私の体験から先に書いてみるが、私が宗教や霊の研究に入った初めの頃である。或日精神統一をしてゐると、突然異様の状態となった。それは口を大きく開くと共に、口が耳の辺まで裂けてるやうな感じがし、眼爛々として前額部の両方に角の隆起せる如く思はれ、猛獣の吼えるが如き物凄い唸り声が自然に発するのである。私は驚くと共に、予ねて霊の憑依といふ事を聞いてゐたので、これだなと思った。仍(ソコ)で私は、此霊は虎か豹かライオンの如きものではないかとも思ってみたが、右の獣は無角獣であるからそうではない。そこで当時先輩であった或指導者格の人に質いてみた処、それは正しく龍神の霊であると言ふ。其時私も龍神などといふものは実際あるかどうか判らないと思ってゐたが、そう聞くと成程と思った。而も神憑りの場合、脊柱上方部の骨が隆起するやうな感じがしたのも龍の特徴である。其様な事が何回もあったが、その中に私以外のものが私の身体の中で喋舌(シャベ)るのである。それは右の龍の霊であって、私に憑依した事によって人語を操れるやうになったと感謝してをり、種々の物語りをした。其話によれば『自分は富士山に鎮まりゐます木之花咲爺姫命の守護神であって、クスシの宮に鎮りゐる九頭龍権現である。』と言ふのである。然るに其後数年を経て、私は初めて富士登山を試みたが、それまでは龍神から聞いたクスシの宮は山麓であると思ひ、尋ねたが見当らない。遂に富士山頂へ登った。頂上の登口右側に大きな神社がある。見ると久須志神社と書いてある。あゝこれだ、全く龍神の言は偽りでない事が判った。右の龍神に就ては種々神秘があったが、何れ他の著書で発表しようと思ふ。此事によって私は龍神の存在を先づ知り得たのである。

私は種々の点から考察するに此大地構成の初め泥海の如き脆弱(ゼイジャク)な土壌を固め締めたのは無数の龍神群であったが、龍神が体を失った後、その霊が天文其他人間社会の凡ゆる部面に今も猶活動し続けてゐるのである。龍神が此大地を固めた。次が科学者の唱へるマンモス時代で、之は巨大なる象群が、大地を馳駆し固めたものであらう。今日満洲の奥地から偶々発見される恐龍の骨などは最後の龍と想ふ。

又龍には種類が頗る多く、重なるものを挙げてみれば、天龍、金龍、銀龍、蛟龍、白龍、地龍、山龍、海龍、水龍、火龍、赤龍、黄龍、青龍、黒龍、木龍等々である。伝説によれば観世音菩薩の守護神は金龍となってゐる。浅草の観音様を金龍山浅草寺といふのもその為であらう。又白龍は弁財天ともいひ、赤龍は聖書中にある「サタンは赤い辰なり」といふ言葉があるが、それであらう。黄龍及び青龍は支那の龍であり、黒龍は海の王となってゐる。木龍は樹木に憑依してゐる龍で、世間よく大きな樹木を伐り倒したりすると祟ると謂ふが、之は憑依せる木龍の憤怒に因るのである。故に切り倒す前先づ小さくとも同種又は似通へる樹木を代りとして近くへ植ゑ、御饌御酒(ミケミキ)を供へ、恭々しく霊の転移を冀ふのである。それは言葉によればいいので、それだけの手続をすれば何等祟りはないのである。

抑々龍神なるものは如何なる必要あって存在するかといふに、皆それぞれの職責を分担的に管掌の神から命ぜられ、それによって不断の活動を続けてゐるのである。就中天文現象即ち風雨雷霆(ライテイ)等はそれぞれの龍神が、祓戸四柱の神の指揮に従ひ担掌するので、勿論天地間の浄化作用が主である。其他一定地域の海洋湖沼河川や、小にしては池、井戸に至るまで、大中小それぞれの龍神が住み、守ってゐるのである。従而池沼井戸等を埋める場合其後不思議な災厄が次々起る事は人の識る所である。それは龍神の性質は非常に怒り易く自己の住居を全滅せられた為の怒りであり、又人間に気を付かせ、代りの住居を得たいからでもある。故に初めから小さくとも代りを与へ木龍の如く転移の手続をすればいいので、事情により甕の如きものに水を入れても可いのである。元来龍神は霊となっても熱し易く水がなくては居られないので、非常に水を欲しがるのである。

人間の死後龍神に化するといふ事は既説の通りであるが、勿論執着心によるので、之等は霊界に於ける修業によって再び人間に生れ替るのである。彼の菅原道真が死後、生前自己を苦しめた藤原時平等の讒者(ザンシャ)等に対し、復讐の執着から火龍となり、雷火によって次々殺傷し、終には紫宸殿にまで落雷し、その災禍天皇にまで及ばんとしたので驚いて急遽神に祭る事となったので、それが今日の天満宮である。それ以来何事もなかったといふ事で、之等は歴史上有名な話であり、現代科学では到底解釈し難いであらう。次に明治から大正へかけての話であるが、今の霞ヶ関の大蔵省の邸内に彼の平将門の墓があった。それに気の付かなかった為か、大蔵省関係者に不思議な災厄が次々起るので、種々調査の結果、将門の霊の為ではないかといふ事になり、盛大なる祭典を行った処、それ以来何事もなくなったといふ話であるが、之等も将門の霊が龍神となったものであらう。そうして龍神に限らず凡ゆる霊は祭典や供養を非常に欲するものである。何となればそれによって霊界に於ての地位が向上するからである。

龍神は大体画にある如き形体であるが、有角と無角とあって、高級の龍神は頗る巨大でその身長数里又は数十里に及ぶものさへある。彼の有名な八大龍王は古事記にある八人男女即ち五男三女神であり、有名な京都の祇園祭は八大龍王の祭典である。伝説によれば彼の釈尊が八大龍王を海洋に封じ込め、或時期まで待てと申渡したといふことである。私の考察によればその時期とは、夜の世界が昼の世界に転換する時までである。何となれば仏法は一言にして言へば真如の教であるといふ。釈尊の言葉がそれである。即ち真如とは月の意味で、全く夜の世界の事である。因みに八大龍王は人間に再生し昼の世界建設の為現在活動しつつある事になって居る。

昔から龍神の修行は海に千年、山に千年、里に千年といふ事になってゐる。之等も相当根拠はあるようである。然し龍神の修行は、関係者の供養や善行等によって期間は短縮されるのである。そうして龍神の修業が済むと昇天するが、其場合雲を呼び暴風を起し、所謂龍巻によって海水を随分高く上げ、天に昇るのであるが、之を見た人は世間に数多くある。それに就て私は私の一弟子から聞いた話であるが、それは或時松の木に蛇が絡んでゐる。凝乎と見てゐると蛇は段々木の頂上に昇り、終に木から離れて空中へ舞上った-と見る間にずんずん上昇し、終に見えなくなったといふのである。之は霊ではなく実物であるから面白いと思ふと共に、有り得べからざる話であり、又あり得べき話でもある。

龍神が再生した人間を私は数知れず常に見るのであるが、何れも身体に特徴を有ってゐる。太股、横腹、腰等に鱗の形が表はれてをり、鱗も人により大中小種々あり、顕出状態も鮮明なるもの、朦朧たるもの、赤きあり、黒きあり、千差万別である。又面貌によっても判るのである。龍神型としては顴骨(カンコツ)高く、額部は角型で、顳 (コメカミ)部に青筋の隆起せるものがあり、眼は窪んだものが多く、顎も角張ってをり、特徴としてはよく水を飲みたがる。性質は気位が高く、人に屈する事を嫌ふが、覇気に富むから割合出世する者が多い。龍系型を熟視すれば、龍といふ感じがよく表はれてゐるから、何人も注意すれば発見する事は容易である。又女性にあっては龍神の再生を龍女といひ、多くは結婚を嫌ひ、独身者で満足する。又龍女は結婚の話などが纏まらうとする場合、相手の男子が死ぬとか、本人が病気に罹るといふやうに、故障が起り易い。之を無理に結婚させると、死別生別其他の事情によって破綻を生ずる事が多い。特に龍女は嫉妬心や猜疑心が強く、夫婦生活の幸福は得難いのである。従而龍女系女性は世の為人の為善徳を積むか、又は正しい信仰に入る等によって、或程度の浄化をさるれば結婚生活も遂げらるるのである。龍女の浄化とは龍神の霊が人間化する事である。普通龍女は一旦此世を去り、人間として祀られ、再生する事によって普通の人間となるのである。又龍女は眼澄み肌目細やかにして美人型が多いのである。

(天国の福音 昭和二十二年二月五日)