近来最も多い病気に扁桃腺炎がある。此病気は大抵の人は経験してゐるであらう。医学に於ては扁桃腺なる機能は未だ判ってゐないのである。何となれば不用として手術によって除去するからである。考へてもみるがいい。人体に不必要なるものを造物主が造る筈がないではないか、医学者も人間である。造物主に造られた人間である。然るに、造物主が必要として造られた物を人間が不必要として除去するのは何たる暴逆であらう。此意味に於て、医学で扁桃腺が不必要といふのは実はその存在理由が未だ不明であるからで、それを判明したやうに錯覚するとは、寔に危険千万といふべきである。
扁桃腺は、私の発見によれば、非常に重要な役目を果してゐる。それは人体の上半身中最も毒素集溜する個所は頸部淋巴腺附近である。それが浄化によって排泄される場合、一旦扁桃腺に凝結し、発熱溶解、液体となって排泄せられるのである。その溶解時、紅く腫脹し痛むのであるが、放置しておけば簡単に治癒するのである。医療はルゴール等の塗布薬又は氷冷湿布等の浄化停止を行ふので、治癒に時日を要し一旦治癒しても再発し易いのである。右の如き事を繰返すに於て、終に慢性となり、固結は漸次膨大、扁桃腺肥大症となる。斯様になると、発病の場合、激痛高熱苦悩甚だしく、食物嚥下も困難となるので、手術のやむなきに至るのである。
又扁桃腺除去は他に悪影響を及ぼすのである。それは淋巴腺附近の集溜毒素が排泄されんとしても、出口である扁桃腺がない為、反対の方向-即ち中耳に向って移行し、耳骨に穿孔、激痛高熱が発生する、それが中耳炎である。又中耳炎発病の場合、液体膿が多量なる時は、中耳から頭脳にまで移行する。それが中耳炎と脳膜炎の合併症であって、之は生命に危険を及ぼすのである。之によって是を見れば、医学の誤療は最初扁桃腺炎といふ軽病から中耳炎に発展させ、終に脳膜炎にまで進行させ生命を迄危くするのである。
盲腸炎は、周知の如く下腹部右側(極稀に左側もある)の一局部の激痛である。そうして医学に於てはその原因を食物に置いてゐるやうであるが、之は誤りで、真の原因は上半身に於ける扁桃腺と同様、下半身に於ける毒素排泄機能である。発病するや、医療は速かに手術を奨めるが、実は放置しておけば速かに完全に治癒するのである。自然療法の場合激痛は一日位、二日三日は中痛、四日目位から歩行時痛む位で必ず下痢あり、一週間位で全治し再発の憂は決してないのである。医学では生命の危険を伴ふといひ、寸刻を争って手術を奨めるが、之は非常の誤りで、手術の結果往々死を招く事があるが自然療法なれば、亳も危険はないのである。
次に医学に於ては、発病によって盲腸炎を知るのであるが、本医術の診断に於ては、未発生即ち潜伏期と雖もよく診断し得る。それは熟練によって盲腸部の毒素固結が判り得るのである。
茲で、手術に就て一言を挿(サシハサ)むが、今日医学の進歩を言ふ時必ず手術の進歩を賞(タタ)へるのである。之は一寸聞くと尤のやうであるが、実は大いなる誤である。何となれば病患以外患部の機能をも除去するので、人体に於ける重要機能を消失する以上、他に悪影響を及ぼさない訳にはゆかない。成程手術後一時的或期間は健康であるが、数年後徐々として健康に支障を及ぼす事は確実である。それは浄化機能の喪失によって、毒素は他の凡ゆる機能を侵す事になる。事実、扁桃腺除去後、首より上方の病気に罹り易くなり、又虫様突起除去は腎臓、腹膜、胃腸等に障碍を来し、婦人は月経不順勝ちになり、頭痛、肩の凝り等に悩み、全身的にも活力減退は争へない事実である。常識で考へても判る筈である。最も高級で微妙極まる人体組織の一部なりとも毀損(キソン)する以上、何等かの影響がない訳はない。例へば、如何なる名画と雖も、画面の一部に毀損があれば、それは全体の毀損であり、価値は大いに低下する。又家屋の場合、一本の柱一石の土台、一枚の瓦と雖も除去されたとしたら、その家屋の安全性はそれだけ減殺される訳である。斯くの如く手術は病気のみの除去ではなく、併せて機能の除去でもあるから、如何に理由づけるとしても医術の進歩とはならない。医術の真の進歩とは病気だけを除去して機能はそのまま元通りであらねばならないのである。然し乍ら、内科的手術は、外面に痕跡を貽(ノコ)さないから、直接不自由と外観に影響がないので左程恐れられないのであらう。従而私は思ふ、手術の進歩とは医術の進歩ではなく、技術の進歩に過ぎないのである。又思ふ、メスを揮ひ、痛苦を与へ、血液を消耗させ、人体の一部を不具者たらしむる事は、全く野蛮的行為でなくて何であらう。
医博越智真逸氏は、或著書に左の如き記事を載せてゐる。
「虫様垂を以て全然無用の長物で、既に退化しつつある機関であると考へるのは果して自然を正しく理解せる賢き考へであらうか。恐らくは吾人の知識が未だ浅薄で、神秘の宝庫を開き得ぬ為と信ずる。余は自然は断じて無用有害の機関を吾人に与へないと確信する。」
斯様な理解ある説を唱ふる医学者のある事を私は心強く感ずるものである。
(天国の福音 昭和二十二年二月五日)