お伺い
『大浄化が迫るにつれて神様の裁きの御働きの方が救ひの御働きより強くなるのでせうか。或は両方共に同じ様に強まるのでせうか。』
明主様御垂示
『同じ事である。平均してゆく。病気は苦しみがある。これが救いである。苦しみは救はれる事である。即ち浄化である。浄まれば救はれる。苦しみは延びるより早い方が良い。体は救はれず、霊だけ救はれる事もある。浄化が強くなる事は救いの力が強くなる事にもなる。』
私はですね、病気や苦しみのことを浄化ということの意味が本当に全然分からなかったのです。意味が分からなかった。というよりもマイナスのことを無理やりプラスの意味に置き換えて落ち込まないように気休めに言っているんだなと思ってました。病気や苦しみをあえて無理やり浄化と前向きに言い換えて自分をなだめているように感じましたし、マゾヒズムを極めた負け犬の遠吠えに近いなと捉えていました。中村天風さんが『病気は無いと思えば無いのや。』と言われていたのと同じように観念療法的なものと同様なのかなと思っていた時期もありました。
実はこの浄化の意味が分からないというのは私だけではない様に思うのです。私の場合などは浄化ということがあまりにも分からなさ過ぎて、この浄化に関連した御教えをかき集めてきて意味合いがゴチャゴチャにならないように一本にまとめたものを用意したりしました。一時期は貴い御教えに手を加えるなど恐れ多い様に感じたのですが、私の場合は出典元を全部公開していますし、継ぎ接ぎにしてプロパガンダにする意図は全くありませんので、おかしなところがあれば出典元に戻って御自分の中で訂正してもらえればなと思います。それで、以下に示すのが私が浄化というものを理解するために複数の御論文を一本にまとめたものでございまして、興味のある方は読んでいただきたいと思います。
浄化について
『元来薬というものは、地球上只の一つもないのであって、悉く毒物であり、毒だから効くのである。それはどういう意味かというと、薬という毒の作用によって病気症状が減るから治るように見えるので、実は治るのではないのである。では薬が何故毒物であるかというと、抑々人間が口へ入れるものとしては、造物主が人間を造ると同時に生を営むべく用意されたのが食物である。そうして食物にも人間が食うべきものと、食うべからざるものとは自ら別けられている。即ち食うべきものには味を含ませ、人間には味覚を与えられているのであるから、人間は食いたいものを楽しんで食えば、それで栄養は充分摂れるので、これだけを考えても造物主の周到なるは分る筈である。この意味に於て生きんが為に食物を摂るというよりも、食物を摂る事によって生きてゆけるので、丁度生殖と同様、子を得る目的で男女が営むのではなく、別の目的の営みで偶然子は授かるのであるから、神秘極まるものである。としたら人間は定められた食物以外の異物は、体内に入れてはならないに決っている。即ち味のない物、若しくは苦い物などは食うべからざる物として其物自体が示している。それを知らない為、昔から『良薬は口に苦し』などと謂ったのは、誤りも甚だしいと言わねばならない。
右の如く人間の体内機能は、食物として定められた物以外の異物は、完全に処理出来ないようになっているので、薬は異物である以上、含まれている栄養分だけは吸収されるが他は体内に残ってしまう。これが薬毒であって、しかも厄介な事にはこれが各局部に集溜し、時の経つにつれて固結してしまう。その集溜個所としては神経を使う処に限られている。神経を使う処といえば、勿論上半身特に首から上で、頭脳を中心とし眼、耳、鼻、口等であるから、其処を目掛けて毒素は集中せんとし、一旦頸の周りに固結する。如何なる人でも頸の周り、肩の辺に必ず固結をみるであろう。これが凝りであって、或程度に達するや自然排泄作用即ち浄化作用が発生する。その場合発熱によって毒結は溶けて液体となり、咳、痰、鼻汁、汗、下痢、熱尿等になって排除されようとする。これを名附けて感冒というのである。
寒冒毒素は自然生理作用が発生し、外部へ排泄されようとする。これを吾等の方では浄化作用と言う。そして毒素は、最初一旦人体の各局部に集溜する。其場合神経を使う処程多く集まる。人間が最も神経を使うのは上半身特に頭脳に近い程そうである。人間が目が醒めている間、手足は休む事はあっても、頭脳を始め、目、耳、鼻、口等は一瞬の休みもない。としたら毒素集溜の場合もそうであって、肩、頸、淋巴腺、延髄、耳下腺附近は固より、頭脳が主となっている。此様に各部に集溜した毒素は時日を経るに従って、漸次固結する。それが或限度に達するや、排除作用が発生する。ここに自然の恩恵を見るのである。何となれば、固結の為、血行が悪くなり、肩や頚が凝り、頭痛、頭重、視力減退、耳の鈍聴、鼻詰まり、嗅覚の鈍化、歯槽膿漏、歯牙の劣弱、息切れ、手足の弛緩、腰痛、浮腫等々により、活動力が減殺されるからで、それが為人間本来の使命が行われない事になる。それで造物主は病気という、結構な浄化作用を作られたのである。右の如く、毒素排除作用の苦痛が病気であるとしたら、病気こそ浄化作用であり、健康上最も必要なもので、神の恩恵中最大なものというべきである。故に若し人類から、病気を取除いたとしたら、人間は漸次弱って、遂には滅亡に到るかも知れないのである。
処が私は、病なき世界を造るというのであるから矛盾するように思うであろうが、これは根本的に異っている。というのは人間が無毒になれば、浄化作用の必要がなくなるから、共に病気もなくなるのは判り切った話である。此意味に於て私は、之から出来るだけ解り易く徹底的に説いてみよう。話は戻るが、固結毒素の排除作用を、私は浄化作用と名付けたが、先づ初め寒冒に罹るや発熱が先駆となる。自然は固結毒素の排除を容易ならしめんが為、熱で溶解させ液体化すのである。此液毒は速かに肺に浸入するが、此作用は実に神秘であって、例えば吾等が浄霊(之は療病法の名称)によって、固結毒素を溶解するや、間髪を入れず肺臓内に浸入する。其場合筋肉でも骨でも透過して了うのである。何しろ身体各局所にある固結毒素(以下毒結と称す)が、普通一、二個所位なら軽い症状で済むが、局所を増す毎に重くなる。最初軽いと思った寒冒が漸次重くなるのは、そういう訳である。
右の如く、液毒は迅速に肺臓内に浸入し、稀薄な場合は痰となって即事排泄されるが、濃度の場合は一時停滞し、咳というポンプ作用を待って、間もなく気管を通じて外部へ排泄される。咳の後には必ず痰が出るにみても明かであり、嚔の後に鼻汁が出るのも同様の理である。又頭痛、咽喉の痛み、中耳炎、淋巴腺炎、手足の関節や、鼠蹊腺等の痛みは何れも其部にあった毒結が溶解し、出口を求めようとして動き始める。それが神経を刺戟するからである。そうして液毒は濃い薄いが出来る。濃いのは喀痰、鼻汁、下痢等になるが、極く薄いのは水様となり、盗汗や尿によって排泄される。此様に浄化作用なるものは、最も自然に合理的に行われるもので、造物主の神技に感嘆せざるを得ないのである。一体造物主即ち神は、人間を造っておき乍ら、病気などという人間を苦しめ、活動を阻害するようなものを与えられる筈はなく、常に健康であらねばならないに拘わらず、人間が誤った考えで毒素を作り、貯溜させるので、止むなく排除の必要が発る。それが病気であるとすれば、寒冒の場合も何等の療法もせず、自然に放任しておけば完全に浄化が行われるから順調に治り、健康は増すのである。
此理によって人間は出来るだけ風邪を引くようにすべきで、そうすれば結核などという忌しい病は跡を絶つのである。処がどうした事か、何時の頃からか不思議にも、右の清浄作用を逆解して了った。そこで発病するや極力浄化を停めようとする。何しろ浄化の苦痛を悪化の苦痛と間違えたのだから堪らない。其為熱を恐れて下げようとする。解熱すれば毒結の溶解が停止されるから、咳痰を初め凡ゆる症状が軽減する。恰度病気が治るように見えるのである。判り易く言えば、折角溶け始めた毒結を元通り固めようとする。其固め方法が医療なのである。氷冷、湿布、薬剤、注射等すべてはそれであって、全部固まると同時に症状が消失するので、之で治ったと思って喜ぶが、何ぞ知らん、実は折角掃除をしようとする其手を抑えつけるようなもので、之は事実が證明している。よく風邪が拗れるというが、之は人体の方は浄化しようとする、それを止めようとするので、つまり浄化と非浄化との摩擦となるから長引くのである。又一旦風邪が治っても、暫くすると必ず再発するのを見ても分るであろう。故に結果から言えば、医療とは病気を治す方法ではなく、治さないで延期させる方法である。従而本当に治るという事は、毒素を外部へ排泄し、体内が清浄となって、病気の原因が皆無となる事である。だから真の医術とは浄化が発った際、固結毒素をより速く溶解させ、より多く体外へ排泄させる事で、それ以外真の療法はないのである。
そうしてこの浄化作用なるものは、人体の活力が旺盛であればあれ程起り易いので、これを停めるには人体の活力を弱らせるに限る。そこで薬と称する毒を用いたのである。昔から草根木皮、鉱物、動物の臓器等から探り出し、煎じたり、粉末にしたり、抽出したりして水薬、丸薬、塗布薬、注射薬等色々な形にして、浄化停止に応用したのである。それには毒が強いと生命に関わるから、微弱にして少しずつのませる。この為一日何回などと分量を決めたので、よく効く薬とは中毒を起さない程度に毒を強めたものである。この様に薬毒を以て溶解排除せんとする毒素を固めて来たので、今日の人間が如何に有毒者であり、病気が起り易くなっているかは、近来予防衛生などと喧しく言ったり、感冒を恐れるのもその為である。又人間の寿命にしても六十余歳となったといって喜んでいるが、これも大変な誤りである。というのは人間病さえなければ百歳以上は楽に生きられるのに、百歳以下で死ぬのは病による不自然死の為で、無病となれば自然死となる以上、長生するのは当然である。右の如く医療とは病を治すものではなく、一時的苦痛緩和手段で、その為絶対安静、湿布、塗布薬、氷冷、電気、光線療法等々、凡ての療法は固め手段ならざるはないのである。その中に一、二異うのは灸点と温熱方法であるが、これも一時的熱の刺戟によって、その個所へ毒素を誘導させるので楽にはなるが、時間が経てば元通りになるから何にもならないし、又ラジウム放射で癌を破壊する方法もあるが、これも癌だけの破壊なら結構だが、実は組織をも破壊してしまうから、差引プラスよりマイナスの方が多い訳である。
以上の如く現在迄の療法という療法は、徹頭徹尾固め方法であって、治す方法とは毒素を溶かして排除させる以外決してないのである。何よりも医師は“治す”とは言わない。“固める”というにみて明らかである。しかも固め方法の内最も有効なものが薬であり、その薬が病原を作るのであるから、医療を受ける程余病が発り易く、悪化するのは当然である。その結果遂に生命の危険に迄及ぶのである。それについてこういう事がある。治そうとして熱心に高貴薬など用いる患者程成績が悪く、その反対にどうでもいいと思う患者程治りがいいという話は、医師からよく聞く処である。又衛生に注意する者程弱く、無頓著の者程健康である事や、医師の家族や病院の看護婦などが多病であるのもよく聞く処である。面白い事には稀な健康者、長寿者に訊いてみると、「自分は病気した事がないから、医者や薬の厄介になった事はない」などというが、吾々からみればそれだから健康であり、健康だからそうであるので、この点大いに味わうべきである。
元来病気なるものの原因は実は自然の生理作用で、此理は凡ゆるものに共通してゐる。例えば万有一切は物心共に必ず汚穢が溜るが、それと正比例的に清浄化する自然活動が発生するのである。実に寸毫の差もない自然原則である。これを大にしては天地の間に汚穢が堆積するから暴風雨が起り、風で吹払い雨水で洗ひ、天日で乾かすのであり、小にしては人間の家屋内に塵埃が溜ればハタキで払い、箒で掃き、ゴミ溜へ捨て、そのゴミを一個所に集めて焼却するという順序である。これと同様な事は人体にも言える。人体と雖も常に何等かの原因によって霊肉共に汚穢が堆積するので、それに対する自然浄化作用が発生する、それが病気である。何よりの證拠は浄化発生するや発熱する。それは堆積した毒素は時日の経過によって固結するから、其固結溶解の為の熱で、それによって固結は溶解し液体となり、喀痰、鼻汁、発汗、尿、下痢等によって体外へ排泄されるのである。然るに此浄化過程は苦痛が伴ふので、この苦痛を称して病気と名づけたのである。従而これによって体内は清浄化し健康は増すのであるから、病気とは健康増進の為の自然生理作用で、これ程結構なものはない訳である、全く神の恩恵の最大なるものといふべきである。
そうして人間は体と霊との密合一致によって成立っているものであって、言う迄もなく体とは眼に見ゆる物質で誰にも判るが、霊は眼には見えないが、立派に存在している一種のエーテルの如きものであって、人体が空気界の存在である如く、人霊は勿論霊界の存在である。科学的に言えば非常に密度が高く超稀薄なものであって、現在進歩した原子顕微鏡でも、到底見る事は出来ない程の超々極微粒子であるにも拘わらず、之こそ前記の如く人間の本体であるから、全く想像もつかない程の神秘幽幻なものである。霊界とは曩にもかいた如く、空気よりも稀薄な透明体であって、無と同様であるが、実は此世界こそ無処ではなく、絶対無限の力の発生源であって、其本質は太陽の精と、月の精と、土の精との融合による、想像もつかない程の霊妙幽幻な世界である。之を仮に宇宙力と言っておこう。此宇宙力によって万物は生成化育されるが、それと共に汚穢が溜るので、それに対する浄化が行われる。恰度人体に垢が溜り、入浴が必要となるようなものである。即ち地上霊界に汚濁が溜るや、それが一定の局所に集中され、低気圧という浄化作用が発生して清掃される。雷火も人的火災もそれである。言う迄もなく、人間もそれと同様、汚穢が溜れば、霊を主として浄化作用が発生する。之等を詳しくかいてみよう。右の如く、人霊に溜った汚穢即ち曇りであるが、之は透明体である人霊に、不透明体の部分が発生する。此理によって病原の最初は此霊の全部又は一部に曇りが発生する。そうして此原因には二種類ある。一は霊自体に発生する曇りと、二は体から移写される曇りである。
先づ前者から説いてみるが、人霊の内奥は求心的三重になっている。之を中心から逆に遠心的に説いてみれば、中心は所謂魂である。魂とは人間が此世に生れる場合、最初男性を通じて女性の腹へ宿る丶である。処が魂を包んでいるものが心であり、心を包んでいるものが霊であるから、魂の如何は其儘心を通じて霊に反映すると共に、霊の如何は心を通じて魂に反映する。此様に魂と心と霊とは相互関係で三位一体である。勿論如何なる人間と雖も、生きている間善も行えば悪も行う。その場合善よりも悪が多ければ、差引多いだけが罪となり、それが魂へ反映して曇りとなる。為に心が曇り、霊が曇るという順序である。すると浄化作用発生によって曇りの排除が行われる。其過程として一旦曇りの容積は縮小され、濃度化し、体内の何れかの局所に集結する。面白い事には罪によって固結場所が異う。例えば目の罪は目に、頭の罪は頭に、胸の罪は胸というように相応するのである。
此曇りの溜積が或程度に達するや、茲に浄化作用が発生する。之が病気、災害、又は法による刑罰であって、之に洩れた分が神の律法によって霊的刑罰を受けるのである。然し此刑罰を如何に巧妙に免れ得たとしても、神のそれは絶対である以上、体に移写して大きな苦悩となる。勿論此際の病気は悪性で、多くは生命に迄及ぶのである。そうして悪の刑罰は、早ければ早い程軽く済むもので、恰度借金と同様、返えさずにおくと利子が溜るようなものである。然し悪人によっては、人と神との両刑罰を巧く免れる者も稀にはあるが、それらは死と共に霊界に往くや、罪の重荷によって地獄のドン底に堕ちて了うので、如何なる悪人も悔悟せざるを得ない事になる。即ち此処は仏教で唱える無間地獄、神道でいう根底の国、西洋では彼のダンテの地獄篇にある煉獄である。何しろ光なく熱なく、暗黒無明の世界で、何一つ見えず、凍結状態のまゝ何百年でも続くのであるから、如何なる極悪人でも往生せざるを得ないのである。斯んな事を記くと現代人は容易に信じ難いだろうが、私は霊界研究の折、多くの霊から直接聞いた話で、一点の間違いはないから、絶対信じて貰いたいのである。
話は戻るが、悪の結果として自責の念が起るが、此心の苦痛こそ軽い浄化であって、此時悔い改めればいゝが、中々そうはゆかないもので、多くは罪を重ねる事になる。勿論曇りといっても罪の大小により、其量も相応するが、それとは別に他動的の場合もある。それは人を苦しめると、苦しみを受けた人間は怒ったり怨んだりするから、其想念が霊線といって、無線電波式に加害者の霊身に伝達し、それが曇りとなる。之に反し人を喜ばせ、善を行うと、相手の感謝の念が光となって伝達されるから、それだけ曇りが減るのである。然し之とても陰徳的に本人に知れないようにする程、神の恩賞は大きくなるもので、之こそ厳たる天則であるからどうしようもないのである。以上が霊界の在り方であって絶対の真理である以上、人間は之を信じ、之に従うより外はない。右の通り曇りの浄化作用が病気其他の災いの因としたら、人間幸福を得たければ悪を廃め、善を行い、霊を曇らせないようにする事である。
次に後者を解いてみるが、之は前者は反対で、体から霊に映るので、其場合最初血液に濁りが生じ、其通り霊が曇る。元来人体は霊の物質化したものが血液であり、其反対に血液の霊化が霊であるから、つまり霊体は一致している。従而、濃度化した曇りが体に映ると濁血となり、それが一層濃度化したものが固結であり、此固結が溶解され液体となって、身体各所から排除されようとする。其苦痛が病気である。そうして体からの移写とは、勿論濁血のそれである。然らば何故濁血が出来るかというと、此原因こそ実に意外である。というのは医療の王座を占めている薬剤そのものである。即ち薬とは全部毒であるから、薬を体内に入れるだけは濁血が作られるという訳で、何よりも事実がよく證明している。それは病気が医療を受け乍ら、長引いたり、悪化したり、余病が発るというのは其為で、別に不思議はないのである。そうして体にある濁血が、霊へ映って曇りとなり、之が病原となるとしたら、実は病気を治す方法自体が、病気を作る方法という事になる。処が万有の法則は霊が主で、体が従であるから、病気は霊の曇りを解消しない限り、全治しないのは当然である。処が我医術は此原理の応用であるから、霊を浄める事によって、病気は根本的に治る。それで浄霊というのである。
其理を知らない医学は、霊を無視し、体のみを治そうとするのである。したがって、何程進歩したと言っても、一時的治癒でしかない。何よりも事実をみればよく判る如く、医療は根治が出来ない。一旦治っても殆んど再発する。例えば盲腸炎の場合、患部を剔出するので、盲腸炎は起らないとしても盲腸に近接している腹膜炎や、腎臓病が起り易くなる。之は全く霊の曇りがそのまま残っているからで、再び濁血が作られ、位置を変えて集溜するからである。そうして濁血の変化であるが、濁血が不断の浄化によって、一層濃度化するや、血粒は漸次白色化する。之が膿である。よく血膿と言って膿と血液とが混合しているものは変化の中途である。尚進むと全部膿化する。よく結核の喀痰が血液の混っているものと、そうでないものとがあるのは、右によって判るであろう。又医学に於ける赤血球と白血球というのもそれであって、それを食菌作用と医学は言うのである。
右に述べた如く、病気の本体は霊の曇りであり、此曇りから黴菌は発生するという、其順序を詳しくかいてみるが、初め透明体である人霊に曇りが発生するか、又は濁血の移写によって曇りが出来る訳は、既にかいた通りであるが、然らば曇りから何故病菌が発生するかというと、曇りの濃度化が或程度に達するや、自然に超微粒子が発生する。即ち霊の曇りと雖も超極微粒子から成立っている。即ち不断の浄化作用によって濃度化し、個体化した霊に植物性超微粒子が発生するのである。之は何が為かというと、元来曇りとは水素の集合である以上、植物発生には都合がいいからである。そうして之が漸次成育し、遂に有機化して了う。即ち之が黴菌の卵子であって、此卵子が成育して最初の黴菌となるが、此程度では勿論顕微鏡では視る事は出来ない。然し最早生物となった黴菌は、食物が必要となり、互に食い合いを始める。即ち弱肉強食的生物の自然原則である。言うまでもなく生存競争である。勿論黴菌群中にも強者が現われ、弱者は淘汰され、強者は益々太るという訳で、此強者こそ顕微鏡で捕捉される迄になった黴菌であって、此点人間社会と酷似している。此理を知ったなら彼のヴィールスも分るであろう。即ちヴィールスとは右の如くまだ親にならない黴菌の子供であるから、顕微鏡では見えないが、確かに育って親となり病原となるので、之は学問でも認めている。これを最も分り易い譬えとして、彼の塵溜に湧く蛆である。医学は蛆だけを殺そうとして、塵の方に気が附かないと同じである。右の如くであるから、病原とは全く最初に発生した霊の曇りであるとすれば、此曇りを解消する以外、根本的治病の方法はあり得ないのである。
以上の理によって根本的に病気を治すとしたら、右の如き黴菌の発生源である霊の曇りを解消する以外に、真の治病法のない事は明らかである。それに就ての曇りの解消とは一体どういう意味かを説明してみると斯うである。不純水素というのは水素中に不純分子が含有されており、勿論顕微鏡でも見得ない程の超微粒子であって、この微粒子を消滅させるのが浄霊法である。即ち施術者は患者の患部に対って掌を翳すや、施術者の掌から一種の光波が放射されるのである。これによれば右の毒微粒子のみが焼尽され、純粋水素は残り病原は全く解消されるのである。そうしてこの施術こそ人間の掌から放射される不可視光線であって、この光線の本質は火素である。分り易く言えば之は太陽の精であって、私は之を火素と名附けた。即ち空気の本質は水素であるに対し、霊気の本質は火素であるからで、勿論火素といえば火には違いないが、人間が現在目で見、熱く感じるそれは火素の体であって、右の火素とはつまり火霊である。即ち火の体は熱であるが、火の霊は熱くはないが、体以上の素晴しい強力さである。此火霊が人霊の曇りに向って放射されるや、曇りの中の不純分子だけ焼燼され、其灰に相応する分子が排泄物となって体外へ排除され、純粋分子は漿液中に混入されて了い、茲に曇り即ち病原は解消されるのである。
では右の火素が何故掌から放射されるかというと、この浄化力こそ、神エホバが火素の本源ともいうべき霊光の玉を私に与えられたのであって(これは腹部の中央に直径六糎位で肉眼で見る人もある)この玉から無限に光波が放射され、その伝達方法として二分の一メートル位の紙片に、墨と筆で光の文字を書いたものを畳んで懐へ入れさせる。すると私から出る光波は、霊線を通じて施術者に伝わり、その人の掌から放射される。これが浄霊法である。丁度ラジオの放送局と、アンテナと受信機のようなもので、実例報告中にある御守というのがこれである。此御守というのは私が書いた文字で、光、光明、大光明の三種あるが、之こそ主の神(エホバ)の神霊が、私の霊体を中継として御守に伝達され、御守から信者の掌を透して放射されるのである。では何故神はそういう方法を私に授けられたかというと、これこそ彼のキリストが「天国は近づけり」と予言された処の紀元的時機が来たからである。その根本としては第一に人類から病を追放する事で、神は病気滅消の方法を私に教え給うたのである。
茲で薬毒に就ての原理を実地経験によってかいてみるが、浄霊によって一旦治癒した患者でも、暫くすると再発する事がある。之を吾々の方では再浄化というが、此理由は初めの浄霊は、浄化発生している分だけの毒素が解消されるので一旦は快くなるが、業務に就き仕事にかゝるや、此時は相当活力も出て来たので、活溌な浄化作用が発生する。つまり浄化によって健康になり、健康になるから浄化が発るという訳で、それを繰返しつゝ健康は漸次快復するのである。というように再浄化の場合は割合強烈な為、高熱や激しい咳嗽が発る。之は固まった古い痰が出る為で、濃厚なのと薬の臭いでよく分るが、勿論食欲不振、衰弱等も加わり、稀には不帰の客となる事もないではない。其率は今日迄の統計によると、浄霊で全快した者百人に対し、七人の割合であるから、後の九十三人は完全健康者となって、現在皆活動している。右の如き驚異的治病成績に対し、一層驚くべきは、吾々に来る患者の殆んどは医療、民間療法、信仰療法等、凡ゆる方法で治らず、死の一歩手前に迄追い詰められた重症患者のみであるに対し、右の如き素晴しい成果を挙げるとしたら、到底信じ得られないであろう。処で右七人の不成績者と雖も、其原因の悉くは薬毒多量の為であるから、浄霊法とはつまり薬毒除去の方法であって、何よりも薬毒が減るだけは、快方に向うに見て明らかである。としたら無結核国日本にするには、敢て難しい事ではない。薬剤を全廃する事と、感冒を奨励する此二つで、充分目的を達し得らるゝのである。』
黴菌の発生(結核信仰療法 昭和二十七年十二月一日)
病気とは何ぞや(結核の革命的療法 昭和二十六年八月十五日)
霊主体従(結核の革命的療法 昭和二十六年八月十五日)
無機から有機へ(結核の革命的療法 昭和二十六年八月十五日)
医学の誤謬(自観叢書十 昭和二十五年四月二十日)
結核(アメリカを救う 昭和二十八年一月一日)
毒素の解剖(結核信仰療法 昭和二十七年十二月一日)
病気とは何ぞや(アメリカを救う 昭和二十八年一月一日)
結構長文になので読むのが大変なのですが、美しい程に論理展開が整っていて分かりやすいと思います。本当は全文に要約をつけたり図解をつけたり補足説明をつけてもいいんですけども、面倒くさいので100回読んでいただければなと思います。それで分かるはずです。たぶん。