注射は、最近頗る其種類が増加して来てゐる。それ等を私の知り得る範囲に於て述べる事とする。
苦痛軽減の目的による注射、例えば胃痙攣、腸痙攣の如きは、一時的痛苦は確かに消滅するのであるが、それは痛苦の原因たる疾患を治癒するに非ずして、痛苦を感受する処の神経を、薬剤によって一時的麻痺さすので、其麻痺状態中に、本尊たる疾患は、自然治癒をされるのである。故に、病根を祓除(フツジョ)するのでないから、一旦治癒の状態を呈するも、一定時を過ぐれば再発するのは勿論の事である。次に喘息の注射は、注射するや咳嗽、喘音は速かに停止して、健康時と異る所無き迄に、全く治癒されたかと思ふ程であるが、半日乃至二、三日位経るや、再び発作状態となるのである。薬剤効果の特性として、三日より二日、二日より一日といふ具合に、漸次、効果時が短縮され、終に全く、薬剤中毒患者になって了ふのであって、本来の喘息は、依然として存続するのみか、反って多少宛、悪化に向ふものである。何となれば、喘息の病原は、横隔膜の下部に水膿溜結し、その自然排除現象としての喘音、咳嗽であるから、注射によって咳嗽を留むるに於て、其期間だけは、水膿排除作用が停止する事に由って、それだけ病気は悪化する道理である。
又、衰弱を恢復し、体力を旺盛ならしむる為、カルシュウム注射を行ふのであるが、之は確かに一時は食欲を進め、体重を増し、殆んど健康増進せる如に見ゆるも、それは全く人為作用であるから、一時的であって、注射を止めると共に、再び衰弱時に還元するのみか、反って反動作用の加はるが為に、より衰弱の度を増すのが実際である。加之、此薬剤は、凡そ一年以上四、五年を経れば、蕁麻疹の如き、頗る掻痒を感ずる発疹が、全身又は部分的に発生するのである。之は全くカルシュウム中毒であるに係らず、医科大学を始め、医学の大家と雖も、之に気が付かないと言ふのは、実に不可思議と謂ふべきである。此症状に対し、塗布薬、注射、服薬、食餌療法等を応用すれども、其病原と齟齬(ソゴ)するが故に、更に効果なく、患者は二ケ月三ケ月、半年一年に及び、医師病院を転々して、多額の治療費を使用し、猶治癒されないといふ。洵に気の毒な患者を尠なからず見受くるのである。私が治癒した三十歳位の婦人で、此カルシュウム中毒の発疹が顔面に出で、四、五年もに及んで、凡ゆる方法によるも治癒しないので、若き婦人としては、外出も滅多に出来ず煩悶を続けてゐたといふ。実に同情すべき事であった。此患者は三回の施術によって全治し、今も非常に感謝してゐる。
中風又は、神経痛の如き疾患にする注射は、其効果は全く今の所疑問である。夫等の疾患は、注射によって全治せるものを、私は未だ見た事がない。反って、注射に因る薬剤中毒の為、本来の病気以外、追加されたる負担に由る痛苦の増加を来した気の毒な患者は、無数に見るのである。是等注射中毒患者は、注射の回数の多い程、痛苦が激しく、治癒は困難なのである。故に私は、注射の有無と回数によって、治癒日数を予定するのである。無論、注射の多い程治療日数を要するのである。今迄に取扱った患者の中、二ケ月半に七百本の注射を受けたのが、最多であったのである。
又、脚気の注射であるが、之もそれに依て全治したといふ例を聞いた事が無い。そうして、理論上から言って、薬剤注射を以て治癒する筈は決して無いのである。何となれば、脚気の病原としては、一種の毒素が極浅い皮下一面に滞延するのであるから、此毒素を解消せしむるより外は無いのである。然るに、此毒素は全く医家の言ふが如く、白米中毒である。白米中毒の原因は、糠を絶無ならしめたのが原因であるから、糠を服用すれば、最も簡単にして費用を要せず、全治するのであるから、何を好んで薬剤や注射の如き、苦痛と手数と費用を要するの必要ありやである。然し我療法に由れば、普通は二、三回重症にても十回以内にて全癒するのである。之に就て大いに注意すべき事柄がある。それは、多くの医家は、白米中毒の脚気と、腎臓萎縮の為の尿毒によっての類似脚気とを混同してゐるといふ、診断の不正確が多い事である。之は全然別箇の病症であって、此差別の不知な為に、恐るべき結果をさえ来す例が屡々あるのである。
其一例として左記の如き患者があった。
某高貴な婦人、年齢四拾歳位、二、三年間歩行不能、然し匍匐(ホフク)して入浴をなし、座して食事を摂り得る位の事は出来得たが、偶々、日本有数の大病院の主任博士の診療を受けたるに、脚気との診断にて、六十回の注射をすれば全治すると曰ひ、注射四十回に及ぶ頃、全く起居不能に陥り、寝返りさえ打てず、殆んど寝床に、膠着(コウチャク)せる如くになって了ったので、患者は驚いて注射の継続を拒否したのである。そうして其状態は、更に恢復せず、其時より約一ケ年位経た頃、私は聘(ヘイ)されて其状態を見、経過を聞いて驚いたのであった。之は尿毒性類似脚気を、白米中毒の脚気と誤診したが為であった。右の起居不能は注射の中毒に因る事は、一点疑えない処である。故に、此患者を治癒するには、其注射薬剤を除去するより方法は無いが、短期間には奏効不可能であるので、どうしても、肉体の新陳代謝による自然消滅を待つより外は無いので、其旨を患者に詳言して、一時手を引いたのである。斯の如きは、実に同情すべき不幸であると共に、医学の不明か、診断の不正確か、孰れかであらふが、注射療法の如何に恐るべきかを痛感したのである。
小児百日咳に対し、よく注射療法をするが、之等も非常な誤りである。何となれば、元来百日咳の病原は、人間は生れながらにして、一種の毒素を持ってゐる。其毒素を排除しなければ、発育と健康へ対して、障礙となるから、其毒素を排除する工作、それが百日咳なのである。従而、其毒素排除に要する日数が百日掛るといふ訳である。之は、咳嗽と共に白色の泡の如き液体を排除する。それが毒素である。之が多量の時は、嘔吐によって排泄するのである。故に、咳嗽そのものによって、毒素を排除するのであるから、此場合咳嗽こそは、最も必要であるにも不拘、医家は此咳嗽を軽減させよふと努力する。故に若し咳嗽が軽減さるればされた丈は、毒素排除量が減少されるから、治癒は遅延するのである。自然に放置すれば、凡そ百日で治癒すべきに、医療を受くる結果、非常に長時日を要し、半ケ年にも一ケ年にも及ぶ者さへあるのは、全く之が為である。又、此誤療の為予後何ケ月も、時によっては何年もの慢性咳嗽患者、又は肺患者になる事実さへ往々見るのである。之に由ってみるも、医学の未完成による注射の弊害こそは、実に恐るべきものである。
小児疫痢の注射に対しても、私は賛成出来ないのである。何故なれば、注射によって生命を取止むるよりも、生命を失った方の実例が、余りに多い事を知ってゐるからである。生後数ケ月の嬰児に対し数十本の注射をして、死に到らしめた例は、屡々見るのである。
其他、ヂフテリヤ、肺炎、丹毒(タンドク)、瘍疔(ヨウチョウ)等の注射も、好結果の実例はあまり聞かないのである。
唯、痔疾と梅毒の注射は、或程度の効果は認め得るのであるが、其効果と雖も、我療法に比すれば何分の一にも及ばないといふ事を言ひ得るのである。 其他未だ各種の注射療法があるであらふが、大体大同小異であるから、右によって想像され度いのである。
之を要するに、注射の功罪は、一時的は効果あれども、最後は反って病勢を悪化する懼れあるのが実際であるから、根本的治療から言えば、注射を行はない方が良いのである。(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)