絶対健康法

人間に曇りを無くすることが健康法の根本であります。これは光に浴することが一番で光にふれることである。朝夕観音様を拝む事は光にふれる事で、光に照されることである。魂に光を受けるから清まるのである。

此の光に大、中、小がある。本部が大であり、支部が中であり、自家の観音様が小なのである。

それ故曇りが取れて病気が起らなくなるのである。観音会に病気がないのは是が為である。

又徳を積む事である。徳を積めば其徳により光が増すのである。人を救う。善い事をすると感謝となって、光となって其の人へ報い来るのであります。其の為其の人に威厳が増すから恭敬(ウヤ)まわれるのである。魂の穢れた人は徳がないから光がない。始終ビクビクしているから卑しく見えるのだ。

徳を積むには神様の事、社会の事、個人を救う事をどんどんやるのである。其の人が仮に病気をしていて人を救うことが出来んというかも知れんが、病気中なれば病気をしながらも人を救う様に世話をするのである。神様の有難いことを話して神様を信ずる様にするなり、病人なれば神様へ御治療を受けに行く様にする事である。この様にすれば病人でもその徳により自分の病気が直ちに癒るのであるから余計に神様からお光をいたゞくのである。

信者を一人作らしていたゞくのや導くのは大変な御用である。其の人が他人を救う。又其の救われた人が又救うといふ様に鼠算式に信者が殖えると大変なことになる。

それが絶対の健康法なのである。体的本位の健康法は末である。神様の御用をすれば何を喰べても非常に健康なのである。滋養も衛生も末の末、夜の世界の最後のものである。滋養は神様の霊気が一番なのである。

(観講 昭和十年九月十五日)

御講話 (昭和十年四月十七日)

西洋医学と日本医学とは、全然相反するものにして、其差は日の出づる国と日の沈む国との差ある程の相違である。

日本と西洋とは、それ程の差があるのである。私の言葉と医者の言う事と、全然反対に行えば良いのである。真の健康体を欲するならば、一日一回お茶漬を食する事、お菜は香のもの、特に菜葉の漬物が良い。これを行えば、諸々の病毒を去り、健康体となる事を得る。特に菜食主義が一番よろしいのである。肺病又は諸々の薬の中毒等を去るにも至極よろしいのである。

真の健康法

元来、真の健康法といふものは、霊体を曇らせない様にする事である。霊体を曇らせない様にするには、其根元である魂を曇らせない様にする事であります。茲に、一個の人間があるとする。此の人が間違った事をする。秘密的な人に知られて悪いやうな事をすると良心が咎める。それ丈でも魂は曇るのであります。又人を苦しめる様な事をすると気が咎めて自分自身が曇ると共に、苦しめられた人の想念が曇となって来るのであります。

其適切な例があります。某大デパートの専務ですが、代々不思議に病気になったり早死したりする。之は如何いう訳かといふと、デパートの繁栄によって打撃を与へられてゐる多数の小売商人が始終怨んでゐる。多数のその怨みの想念が始終来る為であります。成金の没落なども同一の理であって、多勢の嫉みの想念の為であります。又若くして名人になったり出世をしたりする芸術家などもよく早死しますが、そういふ訳なんであります。

右は全部といふ訳でもないが、名人でも徳のある人は例外の場合もあります。 今度は反対に人を助けたり人が感謝する様な行をすると、その感謝の念は『光』となってその人に来るので、それによって曇はそれだけ解けるから、其人は常に健康でいつも朗かでをられるのであります。之に依てみても真の健康法とは、正しい想念と善徳を施す以外にはないのであります。其人の行が俯仰天地に愧じないならば、心魂は常に爽快明朗であります。ですから、病気は或程度自分が作るのであって、それに依って苦しむものなのであります。祖先の罪穢(ツミケガレ)と雖も自分の行り方によって消えるのであります。

(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)