昭和三年の節分から始められて、昭和六年の節分迄が神界の御経綸でありまして、其の間に色々な神秘的な事が沢山ありました。
又三年三月、三年三月となって、五月一日に又新しい御経綸があったのであります。昨年五月一日に大森から麹町平河町、東京の中央へ出ましたが、今年の五月一日には麹町一丁目へ移転したのであります。
(昭和十年九月五日)
天の岩戸開き
今度愈々光明世界になるのは、天照皇大神が出現になられる岩戸開きがあるのであります。
昭和六年六月十五日、私が房州日本寺に天照皇大御神を御迎いに大勢の信者さんを御供にして参詣に行ったのであります。此の時大神様が霊界へ御出現なられたのであります。
房州は女の陰部であります。房州の保田(ホド)北条も同じ陰戸(ホド)、房州の房の字も同様であります。
(昭和十年九月五日)
日枝神社の御鎮座
昭和九年六月十五日に私は御神命により、麹町の山王様即ち日枝神社へ三十何人の御供を連れて御参拝しまして、天照大神様を御鎮祭、一同で祝詞を奏上致しました。是は日枝神社へ天照皇大神様が御鎮りになられたのでありますが、霊的の事でありますから神官すら知らん事であります。
日枝神社は今迄三柱の神様が御祭りしてあったが、此の三柱の神様は今迄の御留守番であったのでありますから、六月十五日の朝御昇天になられたのであります。是が昼間の世界の第一歩であります。
其の時に麹町の町名が大変に変りましたが、是も御経綸の一端でありまして、此の日のお祭りが今迄のお終いの又始りのお祭りに当るために盛大なお祭りでありまして、日枝神社の出し物は殆んど猿でありました。猿とは猿田彦命の事で、昔から神様の案内役でありました関係であります。
関東では日枝神社と、大宮の氷川神社が関東二大官幣大社であります。是れが御夫婦神ともなるのであります。観音会でも地方としては大宮へ支部が出来たばかりであります。之も不思議な因縁であります。
(昭和十年九月五日)
重大な経綸
昭和十二年五月一日は神幽現三界の御経綸がすんで、新しく重大なる御経綸が始まります。
昭和十四年七月廿三日は私が弥々五十六才七ケ月となるので、いよいよ光明世界建設の事となり来るのではないかと思われます。
昨年九月十五日(昭和九年)大本教と絶縁してより、私は自分の思う通りになってきたのであります。
昨年の五月一日から麹町へ出て病気治しをしましたが、此時あらゆる病気の人が来て色々な事を知らされたのであります。
(昭和十年九月五日)
医療士の講習
昭和十年五月一日より病気治しをする医療士の講習を開始する様になりました。是れこそは破天荒の事でありまして、釈迦もキリストも未だ曽て行われたことのない事で、釈迦もキリストも人を救う為病気は癒された事はあっても癒す力を人に授ける力は無かったのであります。
最初第一期は百人でありまして、既に九月末で目的を達したのであります。第二期は千人、第三期は一万人と益々此の目標へ向って増加させて行くのであります。
(昭和十年九月五日)
大日本観音会の名称の起因
昨昭和九年十月十一日東光男氏が参りまして、霊的写真が出る事になりまして、観音会が出来たのであります。此の霊的写真の説明を附けることにして説明を書いていると、東光男氏が来て、大先生が説明を書いたのではおかしい、何か会名で説明するのが本当だと言う、成る程自分で自分の説明をするよりは何か会の名を以てするのが良いという事になり、大日本観音会という名が出来たので、其の名のもとに説明だけの心算で居る間に是が本物になって来た訳であります。
最初は朧気に見える事が忽ちはっきりしてくるから、行って見ると忽ち出来上る。此の様にして朧気には沢山知らされているが、それは絶対に間違いない事でありまして、最初からあゝしよう、斯うし様と計画を立てゝやるのではない。其時其時にあたって順次出来るのであります。
この様にして観音会は出来上ったのであります。計画とか考え等はないので、只お知らせの儘のことをやって行けば、きちんきちんと合って来るのであります。自分であるか、観音様がやっているのか同一の様なものである。是は私も観音様も同一であるんであります。
(昭和十年九月五日)
鬼ケ島征伐
五月五日から鬼ケ島征伐となるのであり、五月五日は桃の実の節句であります。三月三日は桃の花の節句であります。私が桃太郎でありますから、信者は其の従者である犬、猿、雉に当るのであります。つまり臣であり、又桃太郎は千手観音であります。
出口王仁三郎先生の写真の中で廿年位前の写真に、お腹に日が宿っている写真がありますが、あれは胎臓の彌勒であります。
昨年私が大本を止める時、大本と大喧嘩をしたが、それは生みの大陣痛であり、又其の時の型が今度の伊太利エチオピヤ問題にからんで欧洲方面のゴタゴタの型なのであります。
満洲事変の時も其の型をやりました。私がいろいろ世界の型をやるので、是が全世界に拡がるのでありますから、私は予言が出来るのであります。神界へ出た事は必ず現界へ出るのが原則でありますからであります。
今に観音会が非常に発展する事や、日本が世界的に発展を来す事も充分解っているのであります。
(昭和十年九月五日)
私の信仰の経路
私の生れたのは、浅草橋場で浅草観音様の裏の方であって、明治前に私の曽祖父が武蔵屋喜左衛門といって、其の界隈での幅利きで橋場から五六丁離れた所の浅草町という所で質屋を営み、相当の財産家で義侠心に富み、今の町長位の資格であり、人を助けることが好きで鳴らしたものであった。此の浅草町に明治の初年迄営業を続けて居たのであります。
何年頃か知りませんが、其の当時浅草の観音様の御本尊を質に預けたものがありましたが、流れて其の儘になったのであります。尤も、観音は宮戸川へ流れて来ていたのでありますから、流れるのが因縁かも知れませんが、私の父の乳母が、私の家に御本体があったといって居りましたが、父の義理の兄が失敗して御本体も人手に渡ったのかも知れませんが、今はそれはありませんそうです。
私はその橋場で生れたのであります。日本の艮は東京で、東京の艮は浅草で、その又艮にあたる橋場で生れたのも何かの因縁で、私が十五位の年迄此処に居ったのであります。 太陽は東から昇ると言われますが、東と言うより艮の方から昇りますから、色々に因縁は深い訳であります。
浅草の観音様の御本体は、明治時代に無くなっていると言うことは事実らしいのであります。元は本当の御神体は橋場の私の家の十軒ばかり先の長勝寺に安置してありまして、御開帳中は浅草寺にお移しして居たのであります。私の家の菩提寺は三河島の観音寺という寺であるのも深い因縁のある事であります。私も子供時代にこの様に非常に観音様に縁があると思って居りました。今日に及んで充分訳が判った様に思います。
私の幼時は平凡でありましたが、只有難いと思ったのは非常に貧乏であった事であると思って居ります。浅草の橋場の生れでありますから、江戸っ子であります。浅草は東京の東、東京は日本の東、日本は世界の極東であります。私の生れたのは浅草の観音様の裏で、観音様の東であります。
当時私の両親は、古道具屋をやって居り、浅草の観音様の境内で夜店に出て居ったのであります。父が荷車を挽き、母は私をおぶって荷車の後押しをし、共稼ぎをして居りました。此の様な境遇の内に育てられた私は、幼時から物を大切にしました。今以って物を無駄にしないのは、心の内に染込んで居るからだと思います。
小学校時代二年から三年を飛越えて、四年に上ったのを見ると他の人よりは優れて居たのだと思います。尚又、成績は優良の為、何時も一番で通したのであります。これは私は負ける事が嫌いであったからだと思って居りますが、人々より優れて居た事が解ります。此の為八年の小学校を七年で卒業したのであります。
私は美術学校へ入学を志し、中学程度の予備校へ入り、美術家とならうとしましたが、病気の為に止めたのであります。この時代に絵筆の使い方を知ったのであります。十七八才から二十五才迄は、病気の為ブラブラとして居りましたが、其の間に色々な書物を読んだのであります。其の本は商人になる様に志し、盛んに読んだのであります。
二十五才の時、小間物屋を始め、十年位で十五万円位儲けました。成功者として非常に評判になった。其の頃朝日ダイヤを発明して、十ケ国の専売特許が得られたのであります。アメリカへ盛んに出して儲けましたが、其の内に失敗して宗教生活へ入ったのであります。盛んな頃、資本金二百万円の株式会社と迄したが、大正九年のガラで散々の失敗をしたのでありますが、この失敗が信仰生活に入った動機となったのであります。
私は普通の商人の様に、決して我利々々亡者ではなかったのであります。苦学生を養ったり、苦学生に学資を送って学校を卒業させてやったり、救世軍や何かにも寄附したり、慈悲善根を施し等しましたが、其の内十五万円位損をしました。
前の家内の四人の子供が皆亡くなり、家内も亦病気中流産をして亡くなるという大不幸続きで、私は、これ程よい事をしているに拘らず、この様に失敗や不幸続きは解らんと、何か信仰に入らうと、いろいろ調べたが其の頃新聞で大本教の広告のあったのを見て引きつけられて、信者になる動機を得たのであります。
昭和二年神憑りとなり、色々のお知らせを受けたのであります。何十万年前からの歴史及過去未来の色々の事を知らされたのであります。これから述べることは、この時にお知らせがあったのであります。
大使命を知らされ、光明世界建設の事も、この時に知らされたが、最初私は是れを疑って居りましたが、其の後沢山奇蹟が続出したのであります。この状態が三月ばかり続きましたが、其の後半ケ年位後に、大本教へ行った時出口先生が神憑りで知らされた通りの事を言って、あなたは病気治しをすれば、何程でも治ると知らされたので、家に帰って病気治しをやって見ると良く癒るので、いよいよ神様から大使命のあった事を悟って、三年かかって商業を廃め、神様専門になった訳であります。
近頃の流行語にインチキといふ事が沢山あります。インチキ宗教とか、インチキ野郎とか、あれはインチキだとかいふやうに、馬鹿に流行ってゐる。で、インチキといふ言葉は怪しげなものに対し、ピンと来る一番適当な言葉です。一番よく使はれてゐるのは宗教に使はれるインチキ宗とか邪教とか、新聞雑誌等によく出てをります。私はその度に思ふ。遠慮なくいへば、今日如何なる宗教もインチキでないものはない、全部がインチキであると断定出来るんであります。
インチキといふ事は、他の言葉でいふと、インチキの言葉が一番よく表はしてゐるんで他の言葉にいゝのがない。古い言葉で言へば誤魔化しとか、贋物とか、まやかしものとかいふ意味で、要するに本当のものではないといふ意味であります。
そういふ意味からいふと、宗教以外に沢山あり、本当らしい顔をして本当でないものが沢山ある。
新しい宗教を多くインチキインチキといひますが、或はそうかもしれぬが、然し観音会丈は絶対にその名称は当てはまらぬ。如何なる宗教でも何でも、手前味噌は言ふのですがこういふ言訳は効目はないが、ここにお出での方は判ってるが、世間では又味噌を言ってるやうに言ふ。
先刻米沢さんが言ったやうに、観音運動は当然の事を行ふといふのが観音運動の根本で、当然の事を行ひ又行はなければならぬといふ事は、如何に世の中の人が当然の事を行はなくなってるかといふ事になる。兎に角脱線が多過ぎるといふ訳になる。此事をしっかり判れば観音行は一番よく判るんであります。よく判るやうにいろいろお話してゐるんで、今迄の世の中の事とは大分違ふ。
ともすれば今迄の癖が出て観音行にならなくなるといふのは、その前に観音運動の根本としては、人間個人をよりよくする、要するに人間らしい人間を造るといふ訳で、実際今日世の中を見渡して、人間らしい人間は実に少なくなった。見付けるに骨が折れる。それでは一般に沢山の人間はありますが、誰かの歌に“人の皮着た獣なりけり”といふやうな歌があったが、獣のやうではないが、人間よりは以下になってる心や行になってゐる。
神が人間を造られた目的は、今日の人間のやうなものでなかった。然し之も必要があって今迄そういふ風になってゐた。で、今度いよいよ人間らしい人間を造るといふ事になるんであります。それは何かといふと、人間として行ふべき事考ふべき事はちゃんと決ってゐる。それ以外に脱出しやうとする為に、いろいろ面倒が起る。病貧争の根本はそこにあるのでありますから、今日の人間は殆んど病人で、どんな方をみても本当に無病息災といふ人はない。
殆んどが病人で、身体はよくみえても心は本当でない。心と身体とは使ふもの。お腹に虫が涌くのは何の為かと聞く人があって、それはお腹が虫の涌く位腐ってゐるからだと答へたのです。之は本当で、人間の身体には虫の涌くべきものではない。虫といっても蛆虫ですが、肚に蛆が湧く程に肚が汚い、肚が汚いといふことは心が汚い、心が綺麗ならば肚に虫の湧く道理はない。では子供はどういふ訳かといふと、子供は親の分身であり枝ですから、枝がわるくなるのは、この根がわるいに決ってゐる。それ位に人間がわるくなってゐる。
ですからいつもいふ通り、病気治しは血を浄める事、浄化する事ですから、私はおワイ屋と埃とりと兼帯でしてるんで、人間の身体に湧いた塵やおワイをとるのと同じで、之は本当の事で、それ程に汚くなってゐる。それ程心が汚れてる。その肉体を綺麗にし、心を綺麗にし立派なものにする。それが観音運動で、肉体を綺麗にするのは、健康にする事で、心の間違ってゐるのは、心が病体なんで、心と肉体即ち霊体を健康にする事は誰もしなかった。
心を治すのに宗教があり、肉体を治すのにお医者があった。宗教も三千年も前から、世界中にはいろんな偉い人が出て、生命を犠牲にする位にして人間の心を治さうとし、医者も何千年前からやってゐる。こうして一生懸命宗教家も医者もやりながら、人間はさっぱり精神肉体共に健康にならない。反って反対に病体に余計なりつつある。之は何処かに欠陥がなくてはならぬ。斯んなにひどくなるとは可笑しい。
こんなにひどく不健康な人間が出来たといふのは、霊体共に治す所の宗教や医学が皆インチキだったからで、もし本当のものが出来てゐたら、もっと結果がよくならなくてはならぬ筈であります。然し、まやかし物でもまるっきりまやかしものなら存在の価値はなくなる。いい点も沢山ある。もし今日迄、宗教や医学がなかったなら、もっと人間の健康はひどかったかもしれぬ。或はもっとひどくならずにすんだか、それは判らぬ。それは試してみなければ判らぬ。
宗教はそうではないが、医学の方は、もしなかったならばもっと健康は害はれてゐなかったと思ふ。観音運動は宗教や医学を本当のものにするんで観音様の思召もそこにあるんであります。本当の宗教と医術を拵えて、人間を本当に健康にすれば、それでよいのであります。
今夜の夕刊に大本教の事が出てゐたといふ事ですが、国体変革の証拠あり、建物全部を破壊して根絶する方針とか出てゐたんですが、之等も実に当然の事をしなかった為で、何といっても宗教は人の心をよくするもので、それ以外には宗教としての使命はない。然るに何ぞや、政治運動だの、国防運動だの、社会運動をするから、全然宗教の埓外に出ているから、当然大鉄槌を食ふに決ってゐる。
当然の事とは、宗教は宗教としての使命がある。商人は商人として、軍人は軍人としての各々するべき事、すべからざる事と判然と自ら決ってゐる。之以外の事をやれば滅びるに決ってゐる。今日の宗教は、社会事業をやってゐますが、之が間違ってゐる。そういふ社会事業の背景となる事はいいが、それを直接するといふ事は全然間違ってゐる。
大きな事は、小さい事で一人一人個人個人よい事をすればよい。良い個人が沢山寄れば政治等も完全になる。敢て政治等に嘴を入れなくていい。政治は政治家がやる。宗教は霊肉を完全にする。それ丈やればいい。所が人間を完全にする丈の力のある宗教はない。精神が健全なれば、肉体は健全になるに決ってゐる。行が当然な行をし、間違った事をしなければ健全になるに決ってゐる。
昔から「健康なる精神は、健康なる肉体に宿る」といひますが、之はちっと疑問がある。随分大きな仕事をした人でも病体の人がある。有名な正岡子規等肺の初期になって、反って大作を残した。石川啄木でも病院中で作った歌は実にいい歌がある。ですから健康な肉体に健全な精神が宿るといへば、角力取りなど偉大な立派な精神を持ちそうなものです。
然し、健全な精神なら必ず健全な肉体を持つのは真ですから、根本は健全な精神で、健全な精神を作る事が根本で、凡ゆる宗教をみて、病人のない宗教があれば、それは本当の宗教の使命を遂行してるものであります。然し乍ら、如何なる宗教の信者も病人のない宗教はない。信者でも信者でない人も、健康状態は同じ様なものです。それは力のない事を証明してをります。
ですから観音運動は宗教改革と医学の革命で、大体此二つで世の中はよくなる。政治や経済などは、それは専門家に任せばそれでよい。宗教改革といっても、ルーテルのやうなものでない、もっと大きい。
今日はすべて世界的になってるから、世界的のものでなくてはならぬ。
各宗教の間違った点は、阿呆文学で指摘する。こういふ事を真面目にいふと、甚だお気の毒ですから、反って反感を持つといかんから、滑稽にする。最初に大本教の一番の欠点をやり、次に天理教をし、最近は屁の玉宗、今度は南無諦め宗といふのを作りました。今読んでもらひます。
「南無諦め宗」(御発表)
此次は、外の方面へ向けて、狂人製造宗といふのをやるつもりです。 観音運動の目的は只今お話した通りでありますが、観音運動の最後の目的たる人間を良くする、当然の事をする人間を造る事は、非常に簡単であってなかなか難しい。何故かといへば、今迄のものは、人間が当然な事をしなかった為に、どっちかへ脱線する癖がついてゐる。その癖を直すのが観音運動にもなる。
観音運動は御承知の通り、観音様はどちらへも片よらぬお働きをなさる。男でもなく女でもなく、日でも月でも、又火と水のお働きをなさる。火と水両方合したもの、丁度お湯で、人間を湯へ入らせるやうに、いい気持にさせる。之は先だって言った事ですが、丁度気候でいへば春と秋で、寒からず暑からずといふ具合です。
之が人間の行になり、心になればよろしい。どういふ行かといふと、どっちへも片よらぬ、極端にならぬ行で、今迄の宗教とは、その点が反対な程違ふ。今迄の宗教は、非常に熱心になる程極端になる。狂人じみてくる。狂信になる。そういふ信仰になると、外でみるとおかしい。それですから親戚知人からは反対され、結局信者丈の附合になって、それで神様の思召に合ってると思ふ。
所が観音行は信仰が進む程、信仰してるのかどうだか判らなくなる。此点が判らぬ事で、要するに味噌くさくなくなる訳であります。例えてみれば、その時とその場合とその相手によって、千変万化し、ちっとも主義とか決めるとかいふものはないのであります。
陽気が変るやうに、天が晴れたり曇ったりするやふに、水の流るる如く少しも拘泥してはいかぬ。
「天地の諸の動きの狂ひなきは観音行の鏡なりけり」
森羅万象、天地一切、凡ゆるものの動きが観音行になってゐる。之を人間一切の行にする。そうすれば永遠に栄える。それで人間が決めるところに天地自然の運行に反するから止る、行詰る。ですから観音会はどこまでも栄える。天地一切の生成化育と同じ事で、個人がそうなれば必ず栄えて行くに定ってゐる。その家はどんどんよくなる。天地自然の運行と外れる事のないやう始終心掛くれば、だんだんそうなる。そうなるやうに人間は造られてゐる。
そうならないのは間違ってゐる。人と話しするにも、丁度その時いゝ気持で聞ける話があり、それを話せば喜んで聞く。先方が未だその気にならないでをれば、時期が来ぬのですから話さない。四人五人と人がゐても、その人達や、その場の空気によって言ふべき事や、態度とか座り方など丁度いい所がある。そういふ事が判り、自然にそういふやうに行が出来れば、魂の磨けた人で、根本は飽迄平和で行かなければならぬ。
観音様は天国ですから、争がないから、地獄的なことは絶対にいけない。争などの場合は観音行とは全然違ふ。ですから水浴びたりなどの荒行は観音行ではない。水浴びるのは、魚か亀の子か蛙のする事であります。日光浴などありますが、あれは亀の子のやる事で、人間は天日に背を干すべきものではないと私は言ってゐる。 養生法でも食物でも、東京人はどういふ物を食ひ、どういふ風に働くかちゃんと誰も決めない法則がある。規則書などにしても駄目なんで、未だ未だ複雑な世界に、昨日と今日と同じ行ではいけない。
自然天然に観音様の守護をうければ、丁度いい行になる。で、非難もどうする事も出来ぬ。反って世の中が狂えば非難されるかしらぬが良いものはどこまでもいい。床の間におくべきものは床の間に置く。
当然の事をするのは訳はない事で、又或は今日の世の中の人には難しいかもしれませんが、どうしてもそうしなければならない事になって来てゐる。今ははっきり判りませんが、いづれは今迄の考えを持ってゐると、生存する事の出来ない程の時期が来てゐる。そうならなければ世界は本当にならない。物質文化の方は世界は恒久の平和になってゐるが、人間の精神の方は後れてゐる。之を神様は急がれてゐるんであります。
個人をみて私は、その方の口の利き方挙動によってもよく判る事がある。その場、その時に合ってる事をいふ人は、よほど研(ミガ)けた人で、その場に外れてる事をいふ人がある。観音行に外れてゐて浄ってゐない。
斯ういふ風に、士農工商の凡ゆる階級、親子兄弟から社長、技師、労働的の仕事をする人達等、各々自己の階級職業等により、丁度合ってる社会が出来る。そういふ世の中が出来れば、悪魔の目的は大変齟齬(ソゴ)するんで、之をさせまいとする。その最も強力なのが共産主義で、上のものを下へ、下のものを上へ行かせ、社会を混乱させ破壊に導かふとする。
之が彼等の目的で、今日の学校教育なども破壊し狂はせる事を教へる。学校へ行った子は、親に背くなどは、その思想にやられる。こういふ事に対して観音運動は、狂はせないやうにする。宗教そのものも狂はそうとしてゐる。
大本信者は喧嘩好きで、到る所で喧嘩する。そのくせ一方では人類愛善運動などしてゐる。之は自分達が神の選民と思はせる。そして社会の一般人よりは一等上だといふのですから、社会の人間は眼下に見下す。平民をみるような態度で、社会から特殊扱ひにされると偉がる。又そういふ人は団体中でも、信仰が進んでる等といはれて威張る。
第一、教祖は三千世界の大狂人、教主は大化物と、両方がそうですから、大いに狂人と化物にならなければならぬといふので、殆んど狂人じみないと信仰が進んだといへない。そして当り前な事をすると、あれは未だ駄目だといふのです。それで、その団体が気違ひじみる。大本のみでなく他の各団体にもこういふ団体は沢山あります。
之は悪魔が各宗教を通じて物を狂はせやうとするので、その働きこそ実に恐るべきものであって、そういふやうな宗教と、後は全然無力な宗教との二種ですが、無力宗教の方は売薬の如うなもので看過してもいいですから、今迄の宗教は、真理だと有難がった中にも、人心を狂はせやうとする働きが沢山あります。
親鸞が言った「善人尚往生を遂ぐ、况んや悪人に於てをや」といふやうに、悪を栄えさせるやうな事、あゝいふ様な事が各宗教に沢山あって、生長の家でいふ「物体は心の影なり」といふのは、狂はせやうとする大きなものであります。之も物を狂はせんとする一つの錯覚運動の極端な物質否定で、あの奥には或悪魔がゐる。ですからお気の毒だが滅びるんであります。
もし皆の人があゝいふ思想になれば、折角発達した世界がどうなるか知れない。当然の事、当然の物が本当のものなんであります。
森羅万象一切に狂ふものはない。草木の育つのも、太陽が出るのも、ちっとも狂はぬ。天地自然の運行は狂はぬ。
悪魔は破壊しやうとして、その為に人間を狂はさうとするのです。
神様は之を救はれる訳であります。
御講話 (昭和十年五月一日)
只今竹村会長がお話になりました如く、私は昨年の今日、麹町平河町へ病気治しに依って、大きな経綸を始めたんであります。そして、今年の一月元旦から観音会を創立しまして、丁度四ケ月経た訳であります。それで、その僅か四ケ月間に日に月にと申し上げたいのですが、実は日に日に発展して参りつつあるのであります。
それで、八年前から観音様が種々な仕組をなされたんでありますが、それが皆五月一日から始まってゐるんであります。それで、今年も五月から必ずや一大転換するものと期待してゐた所が、つい一週間ばかり前迄は、ある点は非常に変らんとしつつあるが、目に見える何物もなかったんであります。
すると、ひょっと清水さんが来た時、家を探して貰ひ度いと頼んだんであります。今迄家を探す時は必ず清水さんを働かした。そうすると必ずあるんであります。之は又妙な因縁で、家の事も去年から他の人に頼んだがないのです。
所が、今度は清水さんに頼んだ所、清水さんは、「待ってゐました、いつかそういふお言葉があらうかと思ってゐた、いよいよ之で目っかるんだ」といふ訳で、早速探したんです。所が私の希望するやうな家があったんであります。一寸みた丈であったんで、そんな家が貸家として一寸みた丈であるべき家ではないのであります。
応神堂の家を探す際には、九尺の床の間があって門構えの家で、家賃は七八十円の家を探すやうにといふ条件であったんですが、今度は、地所の高い所で堂々たる立派な家でなければ駄目だといったんで、なかなか難しい条件だったんです。
所が二三日経って言って来た。そういふ家がそう早くある訳はないのですが、二三日前行ってみました処思ったよりはいゝ。先づ申分のないといふ家なんであります。所がそれを先方のいふ儘にすると、先方で五月一日に契約したいと言ふのです。丁度五月の一日から大変した事になります。先刻契約が済んだ所で、之もなかなかそういふ風に家を貸すのは非常に偉い。容易に貸すわけはないのであります。
無論竹村さんの御尽力もありましたでせうが、兎に角非常にスラスラと思ったよりは楽に巧く行った訳なんであります。
それで、一日に契約して引越すのは何時かと思っておりますと、昨夕観音様からお示しがあって、五月五日に越すやうに、との事でして判ったのです。成程五月五日に越さす為に、わざわざどんづまりまで延したんだ。もしか早くすると五月一日に越す処なんですから、観音様の方で間際に決めさせたので、壁も損じ、変梃な西洋間があって、畳を入れたり方々修繕したりして、丁度五日に越すとよいのです。
又、五月五日といふ事は大変観音様にとって意味があり、私が前に神界即ち神様の方の世界の経綸にかかった時、桃太郎として初めて仕事の為出た日もやはり五月五日でありました。今度の五月五日も矢張り桃太郎の仕事をする事になります。五月五日の鯉幟は今度の観音会の事の謎であったんであります。
鯉といふものは出世魚と言って一番出世するものの意であります。鯉は魚の観音様で、真鯉は鱗が三十三枚あるんで、三十三枚ないのは真鯉ではない。先に勘定してみた事がありますが、慥かに三十三枚あります。
よく巧く行く事を登龍門をくぐるとか、又は登龍門を登るとかいひます。
之は、支那のある川を鯉が昇り、段々昇って行くと上流の方に登龍門といふのがあってそこまで鯉が登るといふ事であります。
鯉は出世魚といふ事から、五月五日に鯉幟を祝ふのであります。
「江戸っ子は五月の鯉の吹流し口先斗りで腸はなし」
といふ事がありますが、これも神秘のある事で、私は江戸っ子ですから、口先ばかりで腸は無いと言ふ方であります。五月の鯉幟の口--
観音様がやっておられるとすると、いゝ方からいへばそれになるから結構であります。
観音様は一番位の高い所から一番低い位へ落ちて、それから一番高い位へのぼられるのであります。
今年の五月五日から一歩出世したといふ事になります。之は自分自身で出世したといふのではなく、惟神で観音様がそうするんであります。
そういふ訳で五月といふ事は大変な意味があるのでありますから、今月から非常に模様が変ってくるんであります。
観音会は一層急速に高く変ってくる。又、広く信者が出来ると共に、又高い所へ出来て来る訳で、それに就て不思議な事があります。
今日東光社で、今新聞売ってる人が三人ありますが、先にはもっと沢山おったんですが、方々へ散らした為に丁度三人丈残ってゐるんであります。それが、今日の売れ方が一人が五十一、一人が六十一、一人が七十一で丁度五六七となり、みな一部宛余計に売れてゐるんであります。一部宛余計に売れたといふ事は、一は初まりであります。いつもいふ五六七はミロクですから、今日がミロクの始まりといふ事になるんであります。
も一つ不思議な事は、一月から先月まで四ケ月間に、御神体を奉斎した方が三百六十一人あるのでありまして、之も五六七の始まりといふ事になります。斯の如く実に神秘であります。
今迄、新聞を長い間売っておりまして、前には大抵愛善新聞売ったんですが、長い人は三年も売っております。所がその事はすべて、今日東方の光を売る稽古になっております。今日のように三人行って、五六七と言ふ不思議な数字が出た事は未だ嘗てない事であります。
何故観音様は、そういふ不思議をなさるかといふと、それは観音力は斯様に自由自在である事をお見せになるんであります--でありますから、どんな事でも訳ないといふ事を随分私は今迄見せられたのであります。
その結果、私が観音力の絶対を信じた、病貧争のない世界、或は世界統一位も何でもなく出来るといふ確信を得られたんであります。
で、之から第二段の経綸の初めになりますから、抱負として其経綸の一端をお話する訳であります。梯子段なら今迄一段上ったんで、今日から又一段昇るのであります。
此前、応神堂が出来てから応神堂に対し本部が出来ました。所が今度の家は応神堂よりはずっと立派ですから、それに相応して本部が出来るんであります。出来るかどうかじゃない、必ず出来るんであります。
人間のやる事ですと、出来るかしらといふ事がありませうが、観音様のやられる事ですから、必ず出来るんであります。それが出来ると、今度は借りないでも思った通りなものが出来るんで、段々大きく拡がって行く。之は実に判で押すよりも間違なく行くのであります。
いつもお話する、大光明世界建設、病貧争のない世界といふ事は、一体どういふ風にすれば出来るかといふ事になりますが、之に就てはその根本があります。
何でも物事には根本があります。根本さへ出来れば、枝は放ってをいても出来て了ふのであります。
然らば根本は何かといひますと、この世界は人間でなっておりますから、根本は人間であります。
人間が立派に完全になればいゝ。その根本が立派になればいい。で、人間は霊と体、精神と身体とで成ってゐる。それが本当に立直ればそれでいゝんであります。 すると、その根本は人間の精神と肉体、それを健全なものにする事であって、それをどうすればいゝかが問題であります。
☆
人間といふものは、健康で働かしむべきものに神様から拵えてある。決して病気などすべきものではない。病気するのはよくよく天理に外れた事、間違った事をしてるに違ひない。
それで現代は病気の人ばかりで、健康な人といふものは珍らしい。たっしゃで健康ならば結構といふ。元来病気はあるべきものではない。
病気が治らねば、世の中は直らぬ。
よく医学をわるく言ひますが、医学がわるいのではない。有の儘言ふと医学ではなかなか病気が治らぬ。治らぬ為に種々の方法をとって、機械とか薬が要るのであって、今日の医学の病名とか機械とか、薬の名を皆覚えるのは不可能の事と思ひます。 本当に治るものならば、たった一つでいゝと思ふ。何となれば、病気の原因は一つですから、その病気の原因といふのは罪穢であります。
それで、その罪穢を取る機械が出来れば、病気はみんな治るのであります。治す方法は一つなのであります。その人の弱い所へ罪穢が溜り病気になるのですから、その罪穢をとる薬なり、機械が出来ればよいのであります。
それは、薬や器械ではとれぬ。そういふものを作ったら治るかといふと、ロボットならば科学で作ったもので治りますが、もっともっと人間といふものは、想像もつかぬ霊妙なものでありますから、どうしても、人間の肉体の問題は科学より深い神秘的なもので解決せねばならぬのであります。
所が、その器械が出来た。それを観音会で発表したんであります。即ち罪穢を除る器械であります。それは人間を使はねば出来ない。
人間は神が生された。神の代りが出来るものなんであります。人間を使って人間の罪穢をとるのであります。今度、本部で指圧療法を始めるといふ事は、罪穢を許す、罪穢吸収機関を発売するわけで、指圧療法の習い度い方はどなたでもお教へする。 教へる部分もあり、頭がわるいとか、目がわるいとか、肩が凝るとかいふのを直す急所を教へるんであります。
今仮りに肺のわるい人があるとすると、医者は肺病とみます。所がその肺の元があります。
役者が舞台で踊るにも、楽屋で化粧し、創作家の脚本によって動くのであります。それ故演劇は楽屋と脚本が元であります。
で、その様に肺の痰が出るにはどっかにその本があります。それが医学では判らないのであります。
私は観音様から教へられた所により、急所を教へるんであります。急所をやって行きますから病気は必ず真から治ってゆく。現はれた所を治すのは制える丈のもので、丁度、芝居をみて云々するやうなもので、どうしてもその楽屋の方を治さねばなりません。それには、先づ一ケ月以上かゝります。一ケ月程で判る人もあり、人によってはそれでも難しい事もあります。
も一つは学校で教はる如く覚えたのみではなく、世の人を救ふといふ大信念がなくてはならぬ。
世界人類を救ふ、大光明世界建設の為に力を竭すといふ高い意志がなくてはならぬ。そういふ高い意志がないと間違ひが起るのであります。そういふ間違ひない意志、人格的にみて間違ないとみれば、分院の開設を許す事になるんで、だんだんそういふ人をふやして行くんであります。
そして、岡田式神霊指圧療法はとてもよく治る。料金も安く短時日で治るといふ信用を得、又非常に親切で真剣に治すといふ、凡ゆる事の信用を得なければならぬのであります。
そうすれば、観音会へ入る信者が沢山出来る。そうして、入った人は病貧争がなくなるといふ風になる。結局、各町内に一個所宛指圧療法の分院が出来るやうになり、初めて人間は薬や医者の治し方は違ふ。日本医学より他に病気を治すものはない。
どうしても、日本式健康法でなければならぬ事を社会の人が知って、それで初めて健康問題は解決するのであります。そういふ観音様の御目的であられるのであります。 でありますから、之からは指圧療法の先生の養成をする。夫(ソレ)が罪穢を除る器械になるのであります。
今迄凡ゆるものが皆枝葉末節に走っております。之が実に不思議であります。元を閑却して現はれた枝ばかり攻めて、それを無くそうとしてゐたんであります。
先刻お話した通り、あらゆる方法で人間にわるい事をさせぬ機関を作るといふ事は、要するに枝葉末節の方法であって、観音会はすべて根本をせめる。無くすんであります。そういふ末節の機関法律とか警察を無くすんであります。
それは個人の心を治すんで、悪い事をしない心の人間を造ればよいのであります。それでこそ初めて人類が人間としての価値がありと思ふのです。打っちゃらかしておいても悪い事しない。之が万物の霊長たるものゝ所以であります。
基督教では、人は神に似せて作られたといふ事がありますが、神に似せて作ってあっても行ふ事が獣であってはいけない。少くとも四足の境涯を抜け出た人でなくてはならない。
西洋文明の方は、人間が悪い事しない様な道具は実に発展しております。獣を入れる檻は実に巧く作ってあると言っていゝのであります。
日本の大和魂は檻も何にも無くても、決して悪い事をしない。そういふ高等な人間を作る。それが観音会の主なる目的であります。ほったらかしておいてもわるい事をしない。病気をしない。之丈で後のどんな問題も解決するんであります。そうすれば、食へない人間がなくなる。
人間が目につかない事で金を払ふ約束を実行しない為に、どの位円滑を欠いてゐるか判らない。人間が儻(モ)し約束を履行するやうになれば裁判所などは要らぬ。帳簿の記載なども--。
金に困る事がない。実に円滑極まる。貿易の発展は大変なものであります。賄賂をとったりなどせねば貿易が出来ぬやうでは非常に困る。賄賂をとった為どの位手数がかかるかわからぬ。その賄賂でとった金を以て病院を建てたり--
こういふ犯罪まで行かない程度のもので、人間が多くの労力を失ってるのは如何にも大きい。
こういふ無益な事が無くなりますから、生産能力は非常なものになるので-- 大光明世界が出来ると、人間は三時間働いたゞけでも食ふものに困らなくなる。今日の交通機関や、衣食住等とても善美になるんであります。庶民一般も非常に立派な着物を着る。立派な家屋に住む事になるんであります。今日の労力の少くとも半分は、軍備とか○○○とか病気の為、或は機械の為費す。
種々の監獄とか警察をつくって、わるい事させぬ種々の機関を作る。学問にしても余計な学問が半分以上あります。そういふ事の為に食って楽しむといふよりは、悪の為にする入費が多い。悪に属する苦しみ楽しみの方面の労力は、八九割位の見当と思ふのであります。
そう考へる時、人類は如何に不知不識の間に、間違った事をしているかゞ判るのであります。観音様は、そういふ間違った事を段々之からかへて行くんであります。 それでは、そんな間違った世の中を何で神が作ったか。万能の神として可笑しい理屈になる。所が元来人間は、又凡ゆるものは、霊と体とで出来ております。之を別ければ、陰と陽、火と水の如きもの-更に分ければ、善と悪になります。
霊は絶対の善、体は絶対の悪になります。といふやうに考へて行くと判りますが、絶対の善と絶対の悪と両方あるのであります。物質は全部悪で出来ております。で、悪はいかん--とは言へぬ。善悪相混じて、初めて森羅万象が出来てゐるんであります。
之を発達するのに、物質を発達させるにはどうしても悪でなくてはならぬ。善ばかりでは物質の発達は出来ぬのであります。
それで神は物質の発達の為に悪を勝たしたんであります。然し全然悪を勝たせば世界は破滅する故、悪を或程度迄勝たしたんであります。戦争とか病気とかと雖も、その為に必要だったんであります。
一言例を挙げて云へば、皆、嫌ふ黴菌でありますが、之が大変必要なものなんで、虎列剌(コレラ)とか、赤痢とか、肺病とか、窒扶斯(チフス)とか、黴菌とかゞ絶対必要であります。若し之がなかったならば、人類は滅亡してゐるんであります。
それは変だといふやうにとれますが、あれは何だかといふと人間の汚物を掃除すべき役で、之を媒介する蠅は大変な役割をしてるんであります。之は大変衛生に逆らふ様ですが、凡ゆるものは、不必要なものは存在を許されぬのであります。
万能力、絶対力は不可なる物は一瞬にして殺すんであります。たゞ人間の目でそれをわるいと勝手に決める丈のもので、神の方では必要なものであります。 黴菌は何の為にあるかといふと、人間は汚いものが溜るんで、それを掃除しなければ早死するんであります。
で、止むを得ず黴菌が作られたもので、窒扶斯だの肺炎だのある為に人間は長生してるんであります。私も三十位の時腸窒扶斯をやったんで寿命がのびたんであります。
つまり汚い物が溜るのを、黴菌が附いて毒素をとるのであります。腸チフスだの赤痢だのいふのは、掃除する工作の為病人を起す。
でありますから人間に汚物が溜らなくなれば、黴菌はなくなるのであります。 ですから、大光明世界が建設されれば、伝染病などは無くなるんであります。それは沢山溜る事がなくなるから必要はなくなるのであります。
で悪の必要があって、神は悪を許されたんであります。
もしか悪がなければ戦争とか、争闘がなく種々な発明などが無かったのに違ひない。
若し欧洲大戦がなかったならば、飛行機とか無線科学は今日迄に発達しなかったでせう。その為に、人間は如何に苦しんだ事か知れません。それで不知不識文化が発達したんであります。
之迄発達すれば、大光明世界が出来る条件が備わった。もうこゝいらでよさうといふのが神様の思召しなんであります。実に有難い時期になったものであります。物質文明の発達は逆でなければならぬ。それで悪を上にし善を下にしたんであります。之をさす為に、猶太(ユダヤ)人を使って悪で発達せしめたんであります。
で悪の役をしたのが猶太人で、猶太人の本体は素盞嗚尊で素盞嗚尊の本体は伊邪冊尊であります。 今迄の人類は病気をし、悪い事をしたがる人間にしてあったのは、そういふ為にしてあったので、之はよく云ふ事も悪く言ふ事も出来ないのであります。止むを得ずの事であります。で何時迄も之を真理としてゐてはならぬ。目醒めなければならぬ。それで、今度はどうなるかといへば、善悪一致になる。
それは善の世界であります。善の世界でありますから、善にはあらず悪には非ず、善であり、悪であり、善にはならず悪にもならぬ。といふのは善が上に位する。善を上にするから人間を苦しめない。今日の発達した文化を非常によく発達さす。それを今後観音会が中心となって実行する。見本を見せるのであります。観音会の人、観音会の家庭が、その見本になって行くんであります。
その観音会の人は観音行をすればいゝ。つまり、当りまへの事をしておれば家は富み栄え、今迄の社会の人が羨む家庭が出来る。段々進んで行くに従ひ立別けがついて行くんであります。
益々はっきりする。観音信仰の人は益々よくなる。出世をする。大きくなる。そして、観音会員の家庭は目立ってよくなってくる。
もうそういふ時期になると、宣伝の必要がない位になる。嘘のやうな時機が来るんであります。今迄始終云って来た事が、順々に出て来つつあるのであります。でありますからいよいよ進展の時期となり、今月から一層顕著になって来るんでありますから、そういふお考へをもってやられるやう。
そうなれば、今迄より判る人が多くなってくる。病気の治し度い方はどしどし開放的に授けますから、申込んで下さい。
いづれ大きな本部も出来、日本医学の病院もつくりますが、その時は西洋医学も、漢方医学も、いくらか取入れるかも知れません。そして日本医学をつくり、如何によく治るかといふ事が判りますから、逆輸出する積りであります。医学は今以て大輸入超過になってをります。之を段々、日本医学を造って輸出する考へであります。でありますから、大変国益になると思ひます。
指圧療法をするにはいゝと許可を与へればお守を上げます。それへ字をかき懐へ入れると観音力が出るんです。そういふものを一つ百円で売ります。百円は現金でも月賦でもよいので、たゞお守りを懐へ入れてやれば、飯が食って行けるんですから楽なものであります。そういふお守りを大いに輸出しやうと思ふのです。西洋の薬のように種々つくらなくても、一つで何千人何百人と出来るんですから。
実際言ふと凡ゆるものは、日本でいゝものが出来る。そうすると、初めて世界を統一する事になる。又お守をかければ、わるい事が出来なくなるお守りも出来るから、悪人をなくすも訳はない。又貧乏にならないお守りも出来るんであります。ですから之は実際に出来るんであります。
ですから嘘のやうな本当の事が実現するんですから、人類社会の組織はすべて大転換をする。自然にするんで、それが観音力なんで人間が苦しんでしない。楽にやってゐて大変な事が出来る。骨を折らない程観音力であります。じーっとして私は家にゐればよい。みな観音力で出来るんだと、観音様は言はれるんであります。たゞ座ってをれば必要なもの又必要な人が集って来るんであります。それは、私が引張るんでなくて、先方から来るんであります。