人の生死の状態
人の死する時、善人の死する有様は頭から霊が抜けて霊界に行くのであるが、此の時自分の体(なきがら)が下に寝ている有様、又親戚や親兄弟達がなきがらに取付いて泣いているのを見る事があるが、是を知らしてやりたくても幽冥処を異にしている為知らせることが出来ず、其の儘霊界へ行くのである。
之に反して悪人の死は足の方から霊がぬけて逆様に地獄へ落ちるのであるが、是等の霊は死すると一度は必ず三途の川へ行く。川には水があると言う霊と蛇がたくさんいるのだと言う霊とある。川の巾は広いので長い橋がかけてあるが其の橋を渡る時衣類の色が変るのである。悪人は黒くなる。此の川端に奪衣婆(ダツエバ)がいて衣類を剥ぐのである。此の橋を渡ると閻魔の庁の調べがあるが、今迄の善事も悪事も判っているので簡単である。
又浄玻璃の鏡にて写すと如何に隠すとも明かとなり隠し切れない。此処で改心した霊は八衢へ行く(六道の辻)精霊界、此処で僧侶が説教している。之により改心した霊は天国へ行くのであるが、今後追々仏界がなくなり神界になるのである。
此の八衢で修行していても、神界は目映ゆくて行けぬ者もあり、又霊魂相応で暗い処がすきで自ら地獄へ行くのもあるが、これ等は乞食に金殿玉楼で立派な料理を頂戴すると、水っぽくて甘(ウマ)くなく窮屈でたまらん様なもので、それより塩からい煮しめものでもたべた方が余程よいと云う様なものである。
観音会は最奥天国に相応する教である。人の為に働く等はつまらん等という者は最奥天国でないのであって、此の様な人は又それ相当の信仰を求めて行くのである。 観音会は世界人類の為に働くのであって、自己の栄達等は問題外であるが、自己栄達を問題外にして世界人類の為に働くことにより、結局自己の道が拓けてくるのである。
之に反して世界人類の為なんて馬鹿々々しい等と、自己栄達のみに心を傾ける人こそは逆に落されるのである。世界人類の為に働く事の如何に大きな御用であるかは、神様御経綸の直接の御用であるからである。
地獄界は下へ行く程暗く冷いのである。神は熱と光であるからそれに遠ざかる。それだけ暗く冷たくなるのである。八衢の明るさは現界と同様位であって、第三天国は現界の三倍、第二天国は五倍、第一天国は七倍位である。
最奥天国は光の世界である。
この地獄道は現界で人々が行っていた通りの道へ行くのである。色欲道で情死したものによく抱合情死があるが、この人の罪により体が喰付き合って離れる事が出来ぬために、歩く事すら困難を感ずる様な事になる。霊界に行って楽に暮せるものと思うと大変な違いで、霊界で反って苦しまねばならんのである。
特に主人の妻と姦通しての情死などした時は、一人は立ち一人は逆に体が喰付き歩く事すら出来ぬ事になる。又死んだら苦痛はなくなると思うと間違いで、是は霊界は現界の延長であるからである。病苦が霊に其のまゝ続くのである。三原山で死んだのは焦熱地獄へ行くのであるが、之は焼死ぬからである。その焼死ぬ時そのまゝの状態が続くからなのである。自殺は皆地獄行きである。
水死は極寒地獄である。これは水に漬り通しであるからである。お産で死んだのは血の池地獄である。
病死すれば病気は無くなると思うと大違いである。決して治ってはいない。寧ろ苦痛が酷くなっている。それは何故かと言うと霊は感じが強いから、それだけ痛み苦しみが強いのである。
餓鬼道には供養されない霊が行くのである。又強欲非道の霊もこの道である。これは強欲の為に人を苦しめ悩ますからである。供養の事に就いては、色々の霊は喰うのであるが、本当の神様は食物は召上がらんで、反って神饌物に霊気を入れて下さる。大神様は森羅万象皆自分のものであるから人の上げるものなぞ召上らんでも良いのである。召し上りたければ何んでも召し上がれる。それも決して盗み喰いするのではない。是に反し餓鬼は店に並べてある食物等やたらに喰う。この為に店に列べてあるものは不味くなるのである。今迄の神様は人間の上げるものを食するだけの神様であったのであると言う事がよく判るのである。
畜生道へ落ちる霊は餓鬼道の霊が犬猫の食物を喰っているのを横から取って食べる様なのがあるが、それが獣と霊がくるみ合って終い、畜生道に落ちるのである。犬や猫の中によく人間の用をするのがあるが、是等の霊が生れ更って来たもので人の用をして罪を赦されて次には人間に生れ更るのである。其の霊は人間に祀られるから自然それと同様に霊がくるみ合っている為、同様に祀られてこの次に生れる時人間に生れてくるのであって是を転生という。
人が人に生れることを再生と言い、天から下るを降誕と云う。高貴の人の生れるのを生誕と言い、普通の人の生れるのを誕生と言う。又出生ともいう。神様等のお生れを降誕と言うているのは良く判る。
地獄で一番長く苦しんでいる霊は六千年であって、それからは最底の地獄の霊でも許されるのである。底の国とは海底である。
又死ぬ時に想念で一人々々が余程違うのである。生の執着の多少にて非常に違う。早く死んで極楽に行き度いと思って死ぬ人は早く生れ変ってこない。何故ならば、自分の思った所へ行けた為、再び人として生れ変って来よう等と思わないからである。
これに反して生の執着の強い人は早く生れ変ってくる。脳溢血等にて急に死んだ人は特に供養しなければならん。生の執着の為に身寄りに懸って病気をさしたり等するのは此の様な霊に多い。
又親が赤坊の死を嘆くと此の為に早く生れ変って来るのが多いが、余り早く生れ変って来た児は良くない。これは未だ赤坊の霊が浄化していないからである。この赤坊が浄化して後ならば立派な児に生れ代って来る。
(昭和十年八月十五日)
龍神界
龍神界は霊界にあるのである。龍神は主として天然現象を司っているものである。あの気象台の何百何十ミリの低気圧とか、不連続線等と言うのは皆龍神の役である。龍神界は霊界的活動である。
是が最高の龍神である。金龍が地中へ潜む時(潜龍)光を隠して黄龍(蛟龍)となる。金龍及銀龍は天龍を守護しているのである。
地球踏み固めの時は国常立尊、豊雲野尊がたくさんの龍神を生んで踏み固められたのである。谷又は谷川は龍神がくねって歩いた痕が出来たそれなのである。是等は皆大きな龍神であった事は、色々の龍神の通った痕等でよく判るのである。この龍神が死んで霊体となり色々の御用をしているのである。天地の浄化作用をするのは龍神である。
白龍-雨を降らし又水を清める。
青龍-人間は大抵この青龍(青大将)となるのである。
山龍-風及雲を起す。高山に雲の多いのは山龍が製造しているのだ。風も高い山から起きる事が多い。
木龍-木に宿り居る龍神で松と柳が多い。鱗の様になり居る。
火龍-雷を起し大きな火事で焼き払う、大火事の時又は飛火は火龍が持って行くのである。
地龍-地震を起すのはこの龍神である。
赤龍-サタンである。
黒龍-強悪最も甚だしい悪龍である。
海龍-龍宮の乙姫の事である。
九頭龍-この龍神が私によく懸って来たことがあったが、この龍神が追々人間化して話をする様になり、富士山に居る久須志宮であると言った。富士山に立派にある。この九頭龍は八大龍王の頭である。九大龍王というのが本当であるが、伊都能売金龍を匿したのである。乙姫の乙の字にノの字を加えれば九となるので、乙姫より上の龍神である事も判る。又龍の一番上の龍神であるのだ。
女龍は水の働きをした。水を配ったのは女龍である。今地下から水の出るのは此の龍神の歩いた道であって、此の為この道も曲りくねっているのである。又太いのと細いのとあるが、龍神の大小によるのである。
(昭和十年八月十五日
天狗界(中界)
この天狗界は現界活動である。天狗は男ばかりである。天界、中界、下界とある。中で天狗界は中界であって、山岳地帯にあるのである。絵で見る彼の鼻の高い顔の赤い彼である。天狗の総大将が猿田彦命である。鞍馬山に居るのである。牛若丸は鞍馬山に於て猿田彦命から色々教えられたのである。牛若丸は非常に神様に因縁のある人である。
天狗中に人天、鳥天の二種がある。人天狗は神官、僧侶、学者等がなるのである。是等は良くも悪くもなくて天国へ登れず、地獄へも行かなかった連中の為の中界で、天狗界に入ったのである。
鳥天狗は此の中に又烏天狗と木葉天狗との二種がある。烏天狗は烏がなるのであって、烏は天照大神の御使であると言われる位で、神様に因縁のある鳥である。木葉天狗とは烏以外の他の鳥が死ぬと皆木葉天狗となるのである。猿田彦命は元は第二天国の神様であったが、悪い事をしてその罪により天狗界に落され、天狗界の総大将となったのである。
道了権現、秋葉、半僧坊等は皆天狗である。道了権現は鷲である。天狗界は非常に問答が好きであるところから問答や議論が職業である。問答をして勝った処に位が上って行くのである。又其間に碁や将棋をやる。兎に角勝負好きである。天狗の言葉はサシスセソである。
天狗は翔ける事と、字を書くことが好きである。とても上手な字を書く。天狗は皆高い山に居る。霊力があるから此方の山から向うの山へ人間をやる等造作なく出来る。子供等十里位僅かの時間に運ぶのである。
今迄の霊術者等というのは皆此類である。大霊道の田中守平、隠田の神様、飯野吉三郎等は是である。是の天狗の懸った時は非常に威張るのである。是等も良いことをすれば救われるが、直に威張ったり、悪い事をしたり、女を自由にしたりする為に、神様から天狗の霊を引上げられるので、何も出来なくなるのである。飯野吉三郎が霊が効かなくなったのも此の通りで悪い事をして霊を引ぬかれたのである。
天狗と仙人とは良く似ている。同じ様なものである。仙人とは人間が仙術を覚えるのである。朝鮮には仙人が多いのである。
仙人の中に天仙人、山仙人、地仙人と三種ある。仙人の修行をするには蕎麦粉に、松葉等を入れ、団子(ダンゴ)にして一日五六ケ宛喰い、順次に少くして、終いには一ケ位で充分となり、非常に身軽くなり、山を飛越す等しても少しも怖い事を知らぬのである。この仙人は終には食物無しでも生きて行けるのである。
今でも相当仙人は居るらしい。霞を吸って生きている等という事も事実修行すれば出来るのである。この仙人となるには何処かに大先生がある。弟子は二人か三人より取らぬが、この大先生について皆習うのである。
平田篤胤の書いた話で寅吉物語は、仙人の話であるが確実性がある。これは寅吉から直接聞いた話であるが随分変った話がある。
天狗は山を穢されん様に守護しているのである。山で死んだり、迷ったりするのは山を穢したので天狗にやられたのである。山に登るには敬虔なる気持で、山の霊気にふれさせて頂くと言う気持で行かなければいけないのである。天狗は東京-大阪間を三分位で行くと言うから驚く。武芸者の飛切術は天狗がやらしたのである。
(昭和十年八月十五日)
善悪の真諦と光明世界の建設
霊界に於て現界に相応するのは八衢であるのがよく現われている。天国は上に行く程奇麗になり立派になって行く。
第三天国の建物は色々の材料を混ぜて使っている。第二天国の建物は石造りになっている。第一天国は皆木で造られている。檜のお宮は第一天国に相当するのである。天理教等は第二天国である。最奥天国は金銀又は宝石を使用して至極壮麗なもので、大体黄金を主にしているのである。
又最奥天国の天人は殆んど裸体である。よく絵等に天人が肌を出して帯の如き薄物をひらひらと掛けているが、是は空中を飛翔する時使用する物である。又最奥天国に行く程花が多いのである。
人が死ぬ時天人が迎えに来るというのは事実であって、信仰の厚いばかりでなく、多くは娘で処女で、亡くなった時の状態を見ることが多いのである。此の時は天人が紫雲に乗って音楽を奏しつゝ降って来て死んで行く霊も喜んで迎えられ、雲に乗って昇天して行くのである。
私の肉体は狐や狸の霊が見ると強い光で何だか解らん。是は東京の震災前の事であるが、私が天国で衣冠束帯で階梯(キザハシ)を昇って御簾の中へ入って行くのを見たと鎮魂された霊が話した。丁度天神様の様な冠で青い衣服に裾から赤い衣服が見えたという。それは鎮魂する時其の神様が来られて鎮魂なされて天国へお帰りになられたので、そのお帰りの状態を見せていたゞいたのであります。神様がお登りになった処が、其神様のお室となるのであります。
神様と人間との想念によりて天国になるのである。悪の想念なれば地獄となるのである。霊界は想念の世界であるから、相応の理により想念通りになるのである。此の会場でもいろいろの霊が来ています。それは自分達の祖先や友達の霊が来ているのであります。何とかして聞き度いものだという想念により其の人の生霊が来て居ります。その霊が聞いているから其の人も幾らかは何かの時に解ることがあるのは霊が聞いているからである。
この様にこの会場には何千人いるか解らぬ程いるのであります。霊は伸縮自在で針の穴の様な処でも潜り行くことが出来ます。霊はどんな戸締りのある処でも出入りが自由に出来ます。鎮魂の時に狐の霊などが出入が自由に出来ます。鎮魂の時に狐の霊が出て行くから戸を開けてくれ等といゝますが、是はインチキでありまして、戸締り等開けずとも出て行かれるのであります。
又下級の霊程小さいものである。霊でも救われた霊は人と殆んど同じ大きさなのである。八衢の霊も人間と同様位で、神格を得るに従って大きくなります。観音様の御姿はお座りになって鴨居位迄あって、私はこのお姿を見て書いたのが元本部の御神体になって居りました日の出観音様なのであります。殆んど裸で光明が非常に強くきらきらとしています。これは観音様の御姿の書き初めであったのですが、この為見当がつき書くのに非常に参考になったのであります。
ある小母さんを鎮魂の時聞かされたのであるが、「此の方は古い神である。名を言うことは出来んが彼の病人に魔が付いているから、其方に魔を払う事を教えに来たのである。艮の方へ塩を撒き、祝詞をあげる様に毎朝やれば癒る」との事でお引取りになられたのである。その小母さんが「随分喫驚しました。先生が鎮魂の時祝詞をあげられたら、急に大きな神様が木の葉の衣服を着て青、赤、紫でピカピカして綺麗で、頭の毛は後方に下げられて鉢巻をして居られた。座っていて鴨居位の大きさの神様であった」と。その通りにすると癒ったのであります。此の神様のお姿を其後大本教の出口王仁三郎先生に聞いたら、国常立尊の戦を遊ばされた時のお姿であると申されました。
その後先の小母さんは何んとなく私の宅に来にくゝって来る事が嫌で堪えられないのを無理に来られました処、鎮魂の際神様が出られて自分より他の霊の様な黒い物を殴打って出してくれた。これは小母さんが悪魔に憑かれて来る事が嫌になって来られなかったのを無理に来た為、神様が鞭で打ち追い出して下さったのであります。
神様の処へ来るのが嫌になったのは悪魔につかれて居るから悪魔が来させん様にしているのであって、信者や其他の人でも神様の所へ来るのが嫌になるのは、皆此の意味なのであります。此の様な時、何でも彼でも来れば悪魔は離れて終うのであります。此の類の霊は神様が怖くて、又光が怖ろしくて来られんのであります。
上級の霊は下へ降る事は出来るが、下級の霊は上へ行く事は出来ません。これは宮中へ下民が行くことが出来んが、天皇陛下は何処でもお出になることが出来る。人民と接触遊ばされる事が出来るのと同様である。
前に変死等した処では其後よく其処で死ぬ事が多い。之は変死した霊は此処に喰い付いて終うのであって、これを地縛の霊といって畳やレール等に喰い付いて離れることが出来ず、淋しい為自分は動く事が出来ぬ為、通行人やボンヤリしている人を引張り込むのである。此の為同じ処で事故を引起すのである。変死人のあった家は皆此の通りで、死んだ直後程霊が濃いのであって、死にたての霊の濃い為に幽霊が見えるのである。上級の霊程霊細胞が細(コマカ)いのである。又稀薄である。最上級の霊は稀薄であって光が出るのである。
癲癇は死霊が憑くのでありまして、死んだ時の有様を其儘見せて居ります。脳溢血で死んだ人のひっくり返る有様が癲癇に見る事が出来る。水死人ならば泡を吹き、水癲癇なれば水に落ちて死んだ人であり、火癲癇は火で焼死んだ人の霊が憑いているのである。
爆弾三勇士の霊は粉々となり、本人の意識が無くなり細くなってしまっているが、その中四、五日経過する内に段々と寄り集り、形が出来て来て立派に一人前になれば、此の霊は国家の為に死んだのでありますから、天国へ行けるのであります。
生きている時に天国や霊界を信じない人が死ぬと蘆花の霊などのように、言葉が幼稚園の子供位より出来ないのである。之は神仏を信ぜず霊界を知らぬ為死後の用意がないから中ぶらりんとなってしまう。無信仰の学者等は実に実に悲惨である。信仰のない人間は浮浪人となる。それが八衢で説教を聞いて各々自分の好きな団体へ行くのである。
ヨーロッパでは学者が霊の研究をしているが、日本では反対に否定したり、反対したりする。英国には神霊大学が五六個ある。ワード博士の霊界旅行は一週間一回位霊界へ呼ばれる。この間一、二時間無我の状態になり、二時間位で非常に沢山な霊界を探険することが出来るのである。今から十年位前死んだ人でロンドンタイムス社長が出る。霊の研究をする時ラッパを使用するのであるが、其のラッパが空中に上り、そのラッパから声が出て「私はロンドンタイムス社長だが主筆を呼べ」というから呼ぶと、主筆に向って色々と社の為によく色々の経営方針を教えたということであります。
神霊研究会の浅野和三郎氏の処で、霊媒亀井三郎氏により試験を行った事がある。先づ手や足は動けぬ様に椅子へ絡げ附けて置いて、霊の活動状態の試験を行って見た。先づ机上に夜光薬を塗った玩具を置き、電気を消して蓄音機を掛けて音楽を始める。暫くすると音楽により無念無想の状態に早くなるのである。レコード一枚位でポツポツ霊の活動が始まるのであって、玩具はツーッと角度のある迚も空中をよく飛行するのが夜光液の光でよく見える。ラッパがツーツーと空中を飛び乍らパッパッパーと鳴る、鳴りつゝ走る。走っているかと思うと、パッとラッパや玩具を途中から落す。そのラッパや玩具を投げるにも人に当らない様に投げる。其の内にテーブルが上にあがったりする。霊媒が椅子に縛られながら、着ている衣服の下に着ているシャツが、衣服は其儘シャツのみが脱がれて投げ出されてある。実に奇態な事である。然も霊媒たる本人は無我夢中になり居り、一寸直ぐには醒めない程に眠りこけている有様である。此の霊媒の醒めたのは十五分か二十分位かゝった。
此の霊媒に憑った霊は印度のバラモンの僧の霊が出て来て行ったのであって、此後で沢山の酒を飲まさんと明日は出来なくなるので、今夜、夜明位迄酒を飲ませねばならん、と言っていたのであるが、此の霊がやるのであるから、明るくては出て来ないのである。
(昭和十年八月二十五日)