総論

私は之迄病気に対し、詳細に直接的解説を与へて来たから、病気なるものの真原因と、既成医学が如何に誤ってゐるかが判ったであらうが、まだ知らなければならない点が種々あるから、之から凡ゆる角度から医学の実体を検討し、解剖してみようと思ふのである。

(文明の創造 昭和二十七年)

結論

今迄説いた処によって、読者は大体の概念は得られたであらう。之を最も大乗的にいへば、今迄の医学は人智から生まれた医学であり、本医学は神智から生まれた医学であるといったらよく判るであらう。即ち前者は病原を固める方法であり、後者は溶かす方法であり、前者は病原である毒素を出さないのを目的とし、後者は出すのを目的とする。前者は逆理であり、後者は正理であり、前者は野蛮的方法であり、後者は文明的である事は充分頷けたであらう。処が右は単なる理論であって、之に事実が伴ってこそ真理の具現である。というのは即ち医学では治らない、浄霊では治る、只それだけである。

以上の如く此厳然たる事実によってみても、現代医学は当然滅亡の運命に近寄りつつあるのは否定出来ないのである。何となれば長い間の医学の過誤が、私によって茲に明らかにされたからである。恰度暗夜に光明が輝き初めたと同様であって、此意味に於て医学の革命などといふ大事業は、私の意志から発したものではない。私は只神の命のまま病気の根本を教へ、治す事であって、之が私の使命である以上、現在全身全霊を打込んで活躍しつつあるのである。

之によって已に医学は革命される運命となってゐるのである。即ち偽は到底長く続くものではない。或時期に至れば滅亡すると共に、真は或期間は埋もれてゐても、時来れば必ず世に輝くのは不滅の真理であり、到底人力の及ぶ処ではない。此意味に於て私は医学に携はる人々も救はなければならないのは、滅ぶべき決定的運命に措かれてゐながら、それに気付かない哀れな人々をも救はなければならないからで、取敢ず此著によって先づ最初の警鐘を発するのである。

(医学革命の書 昭和二十八年)

人間の寿命

病気とは体内保有毒素の自然排除作用の苦痛であり、言はば体内の掃除であり、浄血作用である事は分ったであらうが、此理を知ってその通りを守れば益々健康となり、百歳以上の長寿も敢えて不可能ではないのである。といふのは言う迄もなく、百歳以下の死は病の為であり、不自然死である。それが自然死なら、神から与えられた天寿を全うし得るのは当然であるから、人間之以上の幸福はあるまい。その理を知らない今日迄の人間は、誤謬医学によって多額の金を費ひ、病苦の種を購ひ、生命を縮めてゐるので、而も之を文化の進歩と思ってゐるのであるから、その無智なるいふべき言葉を知らないのである。従って此医学だけにみても、今日の文明は真の文明ではない事が分るであらう。成程文化の進歩は一面人類の幸福に役立ってはゐるが、他の半面医学によって不幸を作ってゐるのであるから、公平に見て功罪相半ばしてゐるといふのが適当であらう。

そうして今迄説いた如く、現在迄の人間は先天性毒素と後天性毒素とを、驚く程多量に保有してをり、之が凡ゆる病原となるのであるから、此理が分ってその通り実行するとしても、早急には間に合はない。何となればあるだけの毒素は何等かの形によって幾度となく、浄化作用によって排除されなければならないからである。然しその都度放ってをけば必ず治るから、何の心配も必要はないと共に、苦痛が強ければ強い程、急速に多量に毒素は減るから、寧ろ喜んでいい。又苦痛と雖も峠があるから、それを越すまでの辛抱である。右は浄霊を抜きにしての事であるが、浄霊すれば驚く程促進されるから、そうする事を勧める。

そうして昔は四百四病といったが、今日は千数百にも上っていると曰はれるが、医学が進歩すれば減る筈だが、反って増えるのはどうしたものか不思議である。之に対し医学者は斯ういふ。医学の進歩は今迄未発見であった病気が、発見されたので、それが増えたやうに見えるのである。だが之は詭弁か、そうでなければ誤解である。本当をいえば薬の種類が増えたからだと、吾々の方ではみてゐる。といふのは薬毒が多い為、排除の個所が増えたからである。之に就て医学の解釈は、病気の種類は夫々異ってゐると思ふのは、療法が夫々異ってゐるにみてそう思はれる。処が吾々の見解は、病原は一つだが、発病の個所が異ふのを、医学は誤ったのである。その證拠には浄霊の場合、如何なる病気でも同一方法でよくなるにみて明らかである。

(医学革命の書 昭和二十八年)

健康の自由主義

病気とは体内浄化作用であり、それに伴う苦痛をいうのであるが、之を逆の意味に解し、浄化停止を以て治病の方法としたのが医学の考へ方であった。そうして此停止手段としては、身体を弱らすに限るから、薬と称する毒を用ひたのである。従って毒の強い程よく効く訳で、近来医学の進歩によって、死の一歩手前に迄毒を強める事に成功したので、決して治病の進歩ではない事を知らねばならない。その結果死亡率が減ったのであるから、つまり逆進歩である。以下此意味をかいてみよう。

誰でも病気発生するや、之は自然の浄化作用であるから、苦痛は割合強く共、その儘放っておけば順調に浄化は行はれ、速く治るのである。処がその理に盲目である為早速医師に診て貰うが、医師も勿論同様盲目であるから、専心浄化を停めやうとするので、茲に自然治癒との衝突が起る。即ち浄化とその停止との摩擦である。その為浄化は頓挫し、一進一退の経過を辿る事になり、衰弱死に至るのである。それが従来死亡率の高かった原因であるが、近頃は前記の如く生命を保ちつつ、浄化を圧へる事が出来るやうになった。というのは前記の如く強い薬が使へるやうになったからで、或期間寿命を延ばせるのである。然し無論全治ではないから、時が経てば復び発病する。此様にして人間は漸次弱って来たのである。故に医学の進歩とは治病の進歩ではなく、一時的苦痛緩和と若干生命延長の進歩である。此最もいい例としては借金である。元利合計請求された場合、一時に払はうとすれば破産するから、月賦にして気長に払う事にする。そうすれば第一楽であり、暫くでも破産を免れられると同様の意味である。

右の如く医学の進歩とは、借金返済ではない、借金延期法の進歩でしかないのである。然し之で一時なりとも寿命は延びるが、病の方はそのまま固って了ひ、真の健康とはならない以上、溌刺たる元気などはない。此際医師は斯う言うのである。何しろ貴方の躰はヒビが入ったやうなものだから、余程大切にしないといけない、軽はずみをすると元通りになると注意されるので、患者はビクビクもので、その日を送る事になる。私は此種の人を消極的健康人というが、今日斯ういふ人は益々増えるばかりである。此例として高度の文明国程そうであるのは、彼の英仏などを見ても分る通り、近来此両国民の元気のない事甚だしく、我国とは反対に人口増加率低下に弱ってゐるのみか、国民は安易を求めるに一生懸命で、国家の前途などは二の次にしてゐる。斯んな訳で両国の国威はガタ落ちで、植民地の維持すら困難となり、兎もすれば離れやうとする現状である。又国際的正義感にしても麻痺状態で、彼の中共の中国、南鮮侵略に対しても、只指を喰えて観てゐるばかりか、英国などは逸早く承認を与へ、アメリカを吃驚させた位である。その後も御義理的にアメリカに追随してゐるにすぎない有様である。而も同国が戦勝国であり乍ら、戦敗国日本よりも食料不足に悩んでゐるのもその現はれで、全く気の毒なものである。仏蘭西にしても御同様人民の闘志などは全然なく、アメリカが如何に気を揉んでも何等の手応えなく、只その日その日を無事安穏に過ごす事と、享楽に耽る事のみ考えてゐるやうだ。以上によってみても、昔英国が七つの海を支配し、仏国がナポレオン当時のアノ華やかさに比べたら、洵に感慨無量というべきである。此原因こそ全く恐るべき医学の進歩にある以上、日本も殷鑑(インカン)遠からず油断は出来ない。

次の米国にしても、近来医学の進歩につれて、病人は益々増へる一方で、悲鳴を上げてゐる状態である。之に気付かない限り、何れは英仏の後を追うのは必然であらう。私が先頃“アメリカを救う”の書を発刊したのも此事を憂慮したに外ならないと共に、日本にもお次の番が廻って来ないと誰か言ひ得やう。そうして右は大局的に見た医学なるものの実体であるが、之を個人的に見ると猶更よく分る。周知の如く今日医学の建前を基礎として、国民保健制度を立ててゐるが、之は日本ばかりではない。世界の文明各国は大同小異はあるが、何れも同様である。今それに就てザッとかいてみるが、何しろ現代人の健康の低下と来ては洵に酷いもので、その為当局の社会衛生上の注意も、益々微に入り細に渉り、煩に堪へない位である。ヤレ無理をするな、睡眠を多く取れ、風邪を引くな、暴飲暴食するな、栄養を摂れ、防毒に注意せよ等々、全く毀れ物扱ひである。剰(アマツサ)へ病菌の感染を極度に怖れ、結核や伝染病患者には近づくべからず、ヤレ手を洗へ、含嗽をしろ、消毒をせよ、マスクを掛けろ、濁った空気を吸ふな等々、その窮屈さは生きてゐるさへ嫌になる位である。之が文明のあり方とすれば、文明こそ大いに呪ひたい位である。

それに反し吾々の方の恵まれ方はどうだ。曰く食ひたい物を、食ひたい時に、食ひたいだけ食ひ、寝たい時に寝、働きたいだけ働き、無理をしてもよく、風邪引き結構、伝染病も結核菌も屁とも思はない。といふやうに人に迷惑を掛けない限り、自己の職業に差支えない限りは、自由無碍、明朗闊達、何等不安ない日常を送ってゐる。恐らく人生之程の幸福はあるまい。之を称して私は健康の自由主義といふのである。今日荐りに唱へられてゐる自由主義などとは、比較にならない程の幸福さであらう。では右を実行した結果はどうであるかといふと、之又大したものだ。私初め信者数十万人悉くそうしてゐるが、結果は一般人よりも罹病率の少ない事は十分の一にも足りない位であるから、病気の不安など全然ないと言っていい。その根本理由こそ今日の医学衛生の考へ方は逆であるから、その又逆にすれば真の健康法となる訳である。

以上によって医学の無智が如何に人間の自由を束縛し、無益な労力と余計な金を使はせ、生産をマイナスにし、而も凡ゆる不幸の原因を作ってゐるかといふ事である。以上の如くであるとすれば、今日之程重大問題はあるまい。又宗教に就いても一言言ひたい事は、宗教本来の使命は万人の不安を除き、安心立命を得させるにある以上、それが出来ないとしたら、存在の意義はない訳である。私は之に対しても敢て考慮を求める次第である。

(医学革命の書 昭和二十八年)

私は告白する

私は之迄医学に対しては、随分思ひ切ってその欠陥を挙げたつもりだが、何しろ滔々たる今日の医学迷信を目覚めさせるには、今迄のやうなかき方では、まだまだ生温い感がするので、茲に一層赤裸々に実体を暴露してみようと思うのである。何しろ神示の鏡に照らし実際を見る時、医学の迷蒙が如何に多くの人間を犠牲にしつつあるかは、到底想像もつかない程であって、到底我慢は出来ないのみか、人類の将来を思う時、慄然として肌に粟を生ずるのである。故に之を第三者が読む時、その余りの意想外な説に唖然として分りかけが出来ないであらうが、之が永遠不滅の真理である以上、心を潜めて熟読すれば、分らない筈はないと思うのである。

そこで先づ結論からかいてみるが、即ち医学は根本から間違ってゐる事と、薬は全部毒である事との此二点であって、その証拠として若し医薬で病気が治るものなら、人間は祖先以来今日迄用いた薬の量はどの位に上るか分らない程であるから、疾の昔に病人はなくなってゐる筈である。又個人にしても罹病するや、早速医師に診て貰うのが常識となってをり、手後れなどは滅多にあらう筈はなく、而も昔からの有名な薬や、近頃のやうに次々出て来る新薬にしても、効能顕著なりと医師も推奨してゐる位だから、病気はドシドシ治り、病人は減るばかりで、医師も売薬業者も失業者となり、病院もガラ空きとなって、閉鎖の止むなきに至る筈である。

処が事実はその反対であるとしたら、斯んな理屈に合はない話はないではないか。斯んな分り切った事でさへ気がつかず、相変らず盲蛇的に進んでゐるのであるから、何と評していいか言葉はない。之も全く医学迷信の虜となってゐるからである。それ処か当事者は反対に医学の進歩を誇称し、偶々子供騙し的手術の成功や、一寸した療法の新発見でもあると、鬼の首でもとったやうに有頂天となり、大袈裟に発表すると共に、新聞やラヂオなども特ダネ的に扱うのだから、何も知らない大衆は丸呑みにして了い、益々深みに嵌り込むのである。処が事実は皮肉にも病人は益々増へるばかりで、人々は病気の不安に脅えつつあるのが現在である。

では此様な医学の根本的盲点は何処にあるかというと、之こそ問題の核心であって、即ち医療を受けるや一時苦痛が治まるので、之で治ると思うのであるが、此考え方は大変な間違いであって、実は治ったやうにみえてもそれは一時的で、日の経つに従いその殆んどは持病か慢性か再発かの何れかになり、根治する者は先づないといってよからう。然し偶には本当に治る者もあるにはあるが、それは医薬の為ではなく、人間本来の自然良能によるのである。

それを知らない医師は、医療で治ったものと錯覚するのであるが、実は医療の妨害に対し自然良能の方が勝ったまでであるから、最初から医療を受けずに放ってをけば、自然良能は完全に発揮され、一層順調に而も速かに治るのである。そればかりか自然治癒であれば、薬毒も入れず反って減る以上、それだけ健康は増す訳である。といっても勿論根治とはならない。

何故なれば今日の人間悉くは、先天性及び後天性薬毒(生まれてから入れた薬)を驚く程多量に保有してゐるからで、全部除去するには普通人でも恐らく数十年はかかるであらう。然し自然治癒なら発病の都度軽く済むやうになるから、寧ろ喜ぶべきである。そうして之で気の付いた事は、それ程多量な薬毒があり乍ら、尚生きてゐるという人体は、如何に強靭に造られてゐるかであって、此点造物主に大いに感謝していいと思うのである。

以上によってみても、世の中に薬が無くなれば同時に病もなくなり、百歳以上生きらるる事は断言するのである。而も死の直前までピンピン働けるから不安はなく、安心立命者となるのは当然である。故に今日の如く百歳以下で死ぬのは、悉く薬毒の為であるから、薬程恐ろしいものはなく、寧ろ戦争以上といっても過言ではあるまい。従って此事を知っただけでも、一歩幸福の門に入ったのであって、之こそ人類救済の第一歩であらねばならないのである。それがどうだ、此様な医学を礼讃し信頼し、不幸を作ってゐるのであるから、その無智迷蒙驚くの外あるまい。

以上私は思うが儘をかいたので、随分極端な暴論と思うかも知れないが、之が真理である以上、やがて目覚むる時の来るのは必然であって、その時の歓喜たるや筆舌には現はせないと思う。世間よく惚れりゃ菊石(アバタ)も笑窪(エクボ)に見えるというのと同様、医学に惚れ込んで盲目になってゐる現代人としては、絶世の美人ともいうべき私の説が目に入らないのは無理もないのである。

然し浄霊によって不治といはれた難病が治り、目醒めた人々が医学迷信当時を省みて、残念がる心境はよく分るのである。従って当事者は之に目覚め、私の説を実行するに於ては、その時から病人は減り始め、遂には病なき世界実現となるのは何等疑う処はないのである。

故に若し私の説に些かでも誤りがありとすれば、怪しからん人間として、当然社会から葬り去られるべきは勿論であるから、そんな自殺的行為をする筈はないのみか、此事たるや人智や学問の産物ではなく、最高神の啓示である以上、私は胸を張り、正々堂々と天下に豪語するのであって、之が世界全般に知れ渡るとしたら、その結果人類の最大悩みである病は解消し、茲に文明は百八十度の転換となり、人類待望の光明世界実現は期して待つべきである。

(昭和二十九年二月十五日)