近来、医学は大いに進歩したといひ、取り分け手術の進歩を誇称してゐるが、私から見れば之程の間違ひはあるまい。考へる迄もなく、手術が進歩したといふ事は、実は医学が進歩しないといふ事になる。といふと不思議に思ふであらうが、手術とは言う迄もなく、病に冒された機能を除去する手段であって、病其ものを除去する手段ではない。判り易く言えば、病気と其機能とは密接な関係はあるが本質は異ってゐる。従って真の医術とは病だけを除って、機能は元の儘でなくてはならない筈である。処が医学が如何に進歩したといっても、病のみを除り去る事が不可能であるから、止むを得ず二義的手段として、機能をも併せて除去して了ふのであるから、此事を考へただけでも、手術の進歩とは、医学の無力を表白する以外の何物でもない事が分るであらう。斯んな分り切った理屈でさへ気がつかないとしたら、今日迄の医学者は驚くべき迷蒙に陥ってゐたのである。従って何としても大いに覚醒して、初めから行り直すより外あるまい。即ち医学の再出発である。処が今日迄其意味を発見した者がなかったが為、盲目的に邪道を驀進して来たのであるから、何年経っても人類は、病気の苦痛から解放されないにみて明かであらう。
以上の意味に於て考へてみる時、手術の進歩とは、医術の進歩ではなく、技術の進歩でしかない事が分るであらう。そうして尚深く考へて貰ひたい事は、造物主即ち神が造られた万物中最高傑作品としての人間であるとしたら、仮にも神として人体を創造する場合、五臓六腑も、胃も、筋肉も、皮膚も、何も彼も無駄なものは一つも造られてゐない筈である。之は常識で考へても分るであらう。処が驚くべし、二十世紀に入るや、人間の形はしてゐるが、神以上の生物が現はれた。其生物は曰く、人体内には種々な不要物がある。盲腸も、片方の腎臓も、卵巣も、扁桃腺もそうであるから、そんな物は切って除って了ふ方がいい。そうすればそれに関した病気は無くなるから安心ではないか、と言って得々として、メスを振っては切り除って了ふのである。何と素晴しい超人的、否超神的存在ではなからうか。処が不思議なる哉、此大胆極まる暴力に対し、現代人は無批判処か、随喜の涙を雫してゐる。而も、人民は疎か、各国の政府迄も有難がって、之こそ文化の偉大なる進歩であると心酔し、援助し奨励迄してゐるのであるから、其無智蒙昧さは何と言っていいか言葉はないのである。としたら此現実を見らるる流石の造物主も、呆れて唖然とされ給ふと察せらるるのである。そうして右の超神的生物こそ、誰あらう近代医学者といふ人間である。としたら全く彼等の人間を見る眼が強度の近視眼にかかってをり、近くの唯物科学だけが見へて、其先にある黄金の宝物が見えないのであらう。
然し私は、唯物科学を敢へて非難する者ではない。人類は之によって、如何に大なる恩恵を蒙り、今後と雖も蒙るかは、最大級の讃辞を捧げても足りない位である。といって何も彼もそう考へる事が早計であって、唯物科学にも自ら分野があり、越えてはならない境界線がある。ではそれは何かといふと、有機物も無機物も同一視する単純な考へ方では、駄目であるといふ事である。つまり唯物科学は、生物である人間も他の動物も、無生物である鉱物や植物と混同してゐる錯覚である。といふのは本来動物なるものは無生物ではないから、唯物科学の分野に入れてはならないに拘はらず、どう間違へたものか、入れて了った事である。之が根本的誤謬で、それによって進歩して来た医学であってみれば、手術といふ人体を無生物扱ひにする行り方も当然であらう。又斯ういふ点も見逃す事が出来ない。それは唯物科学の進歩が、余りに素晴しかった為、何も彼も之によって解決出来るものと信じて了った科学至上主義である。処が実際上動物はそうはゆかない。成程医学によって、一時的には効果はあるやうだが、根本が誤ってゐる以上、真の効果が挙らないにも拘はらず、それに気付かず、相変らず邪道を進みつつあるのである。そうして右の如く私は生物と無生物の関係を大体かいて来たが、今一層掘下げてみれば生物の中でも人間と他の動物とを同一視してはならない事である。といっても之は根本的ではないが、相当の異ひさがある。例へば人間に対って、結核といえば直に神経を起し、悪化したり、死を早めるが、牛の結核を牛に言っても、何等の影響もないのである。従ってモルモットや二十日鼠を研究して、人間に応用しても、決して良い結果は得られないのである。
茲で前に戻って、再び手術に就て筆を進めるが、成程一時手術によって、治ったとしても、それで本当に治ったのではないから、暫くすると必ず何等かの病気が発生するが、医学は其原因に気が付かないのである。そんな訳で手術後の先には余り関心を持たないのである。然し考へても見るがいい。体内の重要機能を除去したとすれば、言はば体内的不具者となるのであるから、全然影響のない筈はない。例へば外的不具者で足一本、手一本処か、指一本、否指の頭だけ欠損しても、其不自由さは一生涯の悩みの種である。況んや内的不具者に於てをやである。而も外的不具者なら、生命に関係はないが、内的のそれは生命に至大の関係があるのは当然である。例へば盲腸の手術で、虫様突起を失ふとすればどうなるであらうか、元来盲腸なるものは、重要な役目をもってゐる。それは人間の背部一面に溜った毒素が、一旦右側背面腎臓部に溜って固結し、少しつづ盲腸部に移行固結するが、或程度に達するや急激な浄化が起り、発熱、痛み等が発生し、溶解された毒素は下痢となって排除され、それで治るのであるから、実に結構に出来てゐる。処が可笑しいのは、此際医師は手遅れになると大変だから、一刻も早く手術せよといふが、此様な事は絶対ないので、手遅れになる程反って治る可能性が多くなる。之は理屈ではない。私は何人も其様にしたが、一人の間違ひもなかったのである。寧ろ手術の為不幸になった例は時偶聞くのである。又盲腸炎潜伏を知るのは訳はない。医学でもいふ通り、臍から右側斜に一、二寸位の辺を指で押すと痛みがあるから直ぐ判る。然し原因は其奥にあるので、盲腸部だけの浄霊では全部の痛みは除れない。盲腸炎の場合、右側腎臓部を指で探ると必ず固結があり、押すと痛むからそこを浄霊するや、忽ち無痛となり全治するのである。治る迄に早ければ十数分遅くとも三、四十分位であって、間もなく下痢があり、それで済んで了ふので、再発などは決してない。としたら何と素晴しい治病法ではなからうか。処が医学では手術の苦痛も費用も、並大抵ではない。其上不具とされ、運の悪い人は手術の跡の傷が容易に治らず、数年かかる者さへある。稀には手術の為生命を失ふ者さへあるのだから、我浄霊と比較したら、其異ひさは野蛮と文明よりも甚だしいと言へよう。処が手術によって盲腸炎は治ったとしても、それだけでは済まない。前述の如く盲腸なる機能は、背部一面の毒素の排泄機関であるから、それが失くなった以上、毒素は出口がないから、大部分は腹膜に溜ると共に、腎臓部の固結も大きさを増すから、それが又腎臓を圧迫し、腹膜炎に拍車をかける事になる。之が主なる悪影響であるが、其他の個所にも溜るのみか、手術後腹力や握力が弱り、持久力や粘り強さ等も薄くなり、性欲も減退する。之等は体験者の知る処であらう。
次は腎臓剔出であるが、此手術は腎臓結核の場合であって、痛みや血尿があるので、そう決められ剔出するが、此成績も面白くない。大抵は何かしら故障が起る。その中で一番困るのは、残ってゐる一つの腎臓は二つの負担を負はされるから、病気が起り易いと共に、剔出する事も出来ず、どうしていいか判らないといふ惨めな人もよくある。といふのは誰しも保有毒素が相当あるから、残った腎臓へ溜結するのである。その外全身的には弱体化し、歩行にも困難があり、腰を捻ったり、正坐すら出来ない人もあって、先づ半分廃人である。処が最初から浄霊によれば、手も触れずして簡単に全治するのである。
次は胃癌の手術であるが、之も仲々厄介である。之に就て遺憾に思ふ事は、切開してみると、癌が見当らないといふ過失をよく聞くが、患者は全く災難である。幸ひ予定通り切り除っても、大抵は時日が経つと僅かでも残った癌が広がってゆき、再度の手術をするやうになるが、三度目になると不可能で、最早致命的である。そうして手術が成功しても、縮小した胃と腸と繋ぎ合すので、食物も少しづつ何回も摂らねばならず、而も医学の統計によれば、手術後の寿命は平均二年半とされてゐる。それに就て医学は斯ういふのである。どうせ半年か一年で死ぬべきものを、手術によって一年でも二年でも延びるとしたら、それだけ有利ではないかと。成程其通りにゆけばいいが、事実は放って置けば三年も五年も生きられるものを、手術の為に縮められる例を、私は幾人となく経験したのである。又医学は癌の治療にラヂュームの放射をするが、之は反って悪化する。といふのはラヂュームは癌を破壊すると共に、組織迄も破壊して了ふからである。右の解説は真症胃癌に就てであるが、実は真症は少なく、大部分は擬似胃癌であり、擬似は勿論薬毒が原因である。それは薬の性質にもよるが、一旦吸収された薬は、時を経て毒に変化し胃へ還元し固まる。それが癌とされるのであるから、之は浄霊によれば非常に衰弱してゐない限り、必ず治るのである。
右の外卵巣除去、乳癌の手術、中耳炎、瘍疔、眼科、肋膜炎の穿孔、痔疾、横痃、睾丸炎、疽(ヒョウソ)、脱疽、整形外科手術等々種々あるが、之等も大同小異であるから略すが、茲に二、三の書き残しをかいてみよう。それは各種の腫物であるが、之は手術をせず放っておけば、腫れるだけ腫れて自然に穴が穿き、そこから血膿が出て完全に治って了ふものである。処が患者は痛みに堪へ兼ねるので、医療は早く治そうとして手術するが、之が大変な誤りである。といふのは手術にも時期がある。充分腫れてからなら左程の事もないが、そうならない内に行ふと、今迄一ケ所に集中してゐた膿は、其運動を止めて了ひ、他の近接部へ腫れ出すのである。之は手術処か、一寸針で穴を穿けた位でも、ヤハリ集溜が停止されるので、之は知っておくべき重要事である。之に就て斯ういう例があった。以前私は頼まれて某外科病院へ行った事がある。患者は四十歳位の男子で、よく訊いてみると、初め頸部淋巴腺に鶉(ウズラ)の卵位の腫物が出来た。早速医者へ往って穴を穿け、膿を出して貰ふと、間もなくお隣へ同じやうな腫物が出来た、それを切ると又お隣へ出来る、という具合で、遂には反対側の方にも出来、それも次々切ったり出たりする内、遂には腫物の数珠繋ぎとなって、私を招んだのである。そんな訳で外部には腫れる場所がなくなったので、今度は内側へ腫れ出した。恰度其時であったので、私と雖もどうする事も出来ず、断って辞したが、其後数日を経て、咽喉が腫れ塞がり、窒息死んだとの知らせがあった。之等は全く手術の為の犠牲者である。といふのは最初腫物が出来た時、放っておけば段々腫れて、恐らく赤子の頭位に大きくなったであらうが、それでも放っておけば、終には真ッ赤にブヨブヨになって穴が穿き、多量の血膿が出て、完全に治って了ひ、痕跡も残らないのである。
次は、近来一部の医師で、脳の手術をするが、之等は勿論癲癇とか、脳疾患等の場合行ふのであるが、之は何等の効果もない。何故なれば頭脳の機質性病患でなく、精神的のものであるからで、つまり霊的原因である。之に就ては霊の項目に詳記するから、茲では略す事とする。
次は近頃流行の結核に関する手術療法で、之は肋骨を切り除ったり、空洞のある患者には、合成樹脂の玉を入れたり、横隔膜を手術したりするが、之等は一時的効果で、反って後は悪いのである。要するに再三言う通り、手術なるものは、如何に有害無益なものであるかは、医学が一層進歩すれば分る筈であるから、最初に述べた如く手術の如き、野蛮的方法は、是非全廃して貰ひたいのである。
(文明の創造 昭和二十七年)
手術に就て
近来医学に於ては、手術の進歩を大いに誇称してゐるが、実は之程間違った話はない。寧ろ其反対で手術の進歩とは、医術の不進歩を表白する事は私は常に唱へている。従って真の医術とは、患部の機能は其儘にしてをいて、只病気だけを除って了ふ事で、之が真の医術である。それは殆んどの病気は機能の近接部に毒素が集溜固結し、器能の活動を圧迫阻害するからであって、機能自体には関係がないのである。従って治病とは右の毒素だけを除去して了へば、それで完全に治るのである。処が医学ではそのやうな巧妙な事が出来ない為、止むなく機能も共に除去して了うので、全く無力の結果に外ならないのである。従って病気を治す目的の為、患部全体を切り除るとしたら、原始人的方法であって、少なく共文化的でない事は言う迄もない。而もその手段たるや肉を切り、血を出し、骨を削るなどの残虐的行為により、患者に非常な痛苦を与へるに至っては寧ろ悲惨事である。成程手術中だけは麻酔薬を用いて痛苦を免るとしても、その後の傷口が治るまでのガーゼの取替や日数のかかる事、莫大な費用を要する等を考へたら、患者の負担は容易なものではあるまい。それでも順調にゆけばまだしもだが、中には経過が悪く再手術を要する場合もあり、切開してから誤診が分り慌てて口を閉ぐ事などもよく聞く話で、偶には手術の失敗で生命を失ふ事さへあるのだから、全く一種の冒険である。そればかりではない、外部的病気の場合手や足は勿論、指を切って不具にしたり、腫物などは醜い傷痕を残す等、一生涯の不幸の種を残す等忌憚なくいってみれば、現代医学は野蛮医学といってもよからう。
然し乍ら医師は曰うであらう。“成程それは分ってゐるが、若し手術をしなければ生命に関はる以上、不具や傷痕など云ってはをれないから、止むを得ず行うのだ”との理由もあらうが、之が大変な誤りである。というのは手術を要する程の病気なら、無論固結毒素に強烈な浄化が起ったからで、熱も痛みも相当激しいに違ひない。つまり旺んに治りつつある状態であるから、放っておけば迅速に毒は溶けて、排泄され必ず治るのであって、苦痛はそれまでの期間と思へばいい。それを手術の苦痛に比べたら何分の一で済むのであるばかりではなく、堪へられない程の苦痛であればある程短期間で済む訳で、長くとも数日位と思へばいいので、而も自然療法なら順調に治るから心配がなく、寧ろ楽しみとなる位だから我慢し易い訳である。処が世間よく何十日も痛む患者があるが、之は元の病気の外に薬毒を追加する為、其痛みが増したからである。而も自然治癒なれば不具にもならず、醜い痕も残らず、短時日で順調に治り費用もかからず、生命の危険さへないのだから、此事を知っただけでも大きな幸福を得たのである。然し之を読む医師も一般人も、今迄の考へ方との余りの異いさに、容易に信ずる事は出来まいが、之こそ絶対の真理である以上、白紙になれば簡単に分る筈である。それに就ての二、三の例をかいてみよう。
手術に就て最も多いのは、彼の盲腸炎であらうが、此病気の原因は服み薬の毒が胃壁を滲透して右側腎臓部に集溜し、それが少しづつ溶けて一旦盲腸部に移行し固結するので、健康であっても盲腸部と右側背部腎臓部を圧すと、多少の痛みがあるのはそれであって、之がある人は早晩盲腸炎が発るとみていいのである。之が或程度に進むと茲に浄化作用発生し、高熱に激痛を伴ひ、右の固結が溶け下痢になって排泄されて治るので、之が順序である。処がその際溶けた毒素は腹膜を通過するので、医師は間違へて、“之は大変だ。早く手術しないと虫様突起が破れて、腹膜炎を起すと最早手後れで助からない”と曰うが、之を吾々からみれば笑へないナンセンスである。というのは右は順調な経過であって、命に関はるなどは絶対ないからである。従って盲腸炎の場合何等手当もせず、放っておくだけで、一週間以内に必ず治るのである。而も盲腸は重要な機能である以上、それが失くなれば他に影響を及ぼすのは当然で、前記の如く腎臓部に溜った薬毒の移行する個所がなくなるから、その毒は他へ氾濫する。それが腹膜及び腎臓部である。そうなると反って盲腸炎より始末の悪い病気となり、容易に治り難くなるのである。此様に放っておけば簡単に治るべきものを、誤れる医療は反って将来の禍根を残すのであるから問題である。
次に多い病気に扁桃腺炎がある。之は液体薬を服む場合、それが口内の粘膜から浸入し、膿化し、扁桃腺部に集り固るが、それに浄化が起って熱で溶けて腫れ、破れて膿が出て治るのである。処が医療はルゴール等の塗布薬で固めるから、一旦治っても必ず再発するといふやうに癖になって了ふ。勿論其度毎に増大し、遂に手術の止むなきに至るのである。
次によくある病気にひょう疽(ヒョウソ)と脱疽があるが、此原因はひょう疽(ヒョウソ)は右なら右、左なら左の頸部淋巴腺に固結してゐる毒素が溶けて、指の先から出やうとするその為の激痛であるから、その際頸部を探れば必ず固結と発熱があるからすぐ分る。故に吾々の方ではひょう疽(ヒョウソ)でも指先に構はず、頸部だけを浄霊すれば忽ち痛みは去り、長くも数日で全快するのである。処が医診では指が腐るなどといふが、之こそ噴飯物である。此間違いは最初指先に一寸した腫物が出来ると、それが段々上の方へ拡がって行く。恰度腐れ込むやうに見へるからである。然し之は或程度拡がれば必ず停って了ふものである。又脱疽はひょう疽(ヒョウソ)と同様鼠蹊部淋巴腺に溜った固結毒素の浄化作用で、之は略すが、此両方共医療では必ず手術するから不具になるので、之も浄霊か自然治療なら必ず元通りに治るし、その他の腫物や皮膚の湿疹にしても悉く薬毒であるから、自然療法に限るのである。即ち凡ての腫物類は放っておけば、腫れるだけ腫れて最後に小さな穴が穿き、其処から血膿が排泄して全治する。而もどんな大きな腫物でも聊かも痕跡は残らないから、今後此理を心得ておれば、驚く程の膨大な腫物でも何等心配はない。而も之は非常に結構な浄化で、若し右の毒素が内攻すれば、内臓の病気になる処を外部に排泄されたので、大難が小難で済んだ訳である。又傷や火傷の場合よくその部へ膿が集るので、医師は黴菌浸入の為としてゐるがそうではない。その附近にある毒素が、刺戟の為其処へ集まり排除されるので、それだけ毒が減るから之も結構である。
茲で大いに注意すべきは消毒薬中毒である。手術とか外傷の場合消毒薬を不可欠のものとしてゐるが、何しろ何十倍に淡(ウス)めても黴菌を殺すだけの劇薬であり、直接筋肉から滲透するので、時が経てば必ず何処からか出やうとする。その場合多くは頭痛、眼(失明)、中耳炎、歯茎等であり、時には下降して肛門(痔)、陰部、手足の関節等へ迄も集溜し、腫物か湿疹となり、痛み痒みの苦痛が伴うが、只消毒薬に限って激痛であるからよく分る。その場合之はアノ時の消毒薬だなと思うと必ず肯くであらう。又近頃膝から下に腫物の出来る人が多いが、之は予防注射の薬毒が下降したもので、放っておけば膿が出て必ず治り、少しも心配はないのである。
(医学革命の書 昭和二十八年)
手術は、悪い所を除るのでありますが、結果の良い事もあり悪い事もあって、確定治療に迄は至ってゐないのであります。然し、宗教的に言ふと、神から授けられた肉体に一寸でも傷を付けるとは罪を構成するので、肉体は神からの預り物であるから、大切の上にも大切にしなくてはならぬといふのであります。灸だの手術だのは、一生涯一種の不具者になる事になる。何程美人の玉の膚でも灸の痕が著いたらもうお終ひで、植木屋が折角咲かした花弁に線香で焼痕を作る、それと同じで造物主に対し、大いなる冒涜でさへあると思ふのであります。手術をした人などは、実に二目と見られないのがありますが、治療上-止むを得ないとも言へますが、手術すべき症状も手術せずに治癒するとしたら、斯んな結構な事はない訳であります。茲に本療法の絶大な価値があるのであります。
(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)
手術
西洋医学中に於て、最も効果ありとする外科手術に就て詳説してみよふ。専門家も一般世人も、手術に依る療法は、病根を芟除(サンジョ)するが故に、其効果は適確であると思ってをるのであるが、之は決して完全ではない。実に拙劣極まる療法であって、人体器能をメスを以て自由に切開し、患者に苦痛を与え、而も予後不具にも等しい痕跡を留め、尚且危険さへ伴ふといふに到っては、洵に以て野蛮極まる方法であって、之を進歩せる如く思ふとは、寔に憐むべきである。然し現在之以上の治療法が発見されないとすれば、亦止むを得ないが、何ぞ知らん、我観音力療法は、手術すべき症状も、短時日に容易に全治し、而も、手術による治癒は、往々失敗の憂と再発の危険あるも、観音力療法による全治は真の全治であって、再発の憂は決して無いのである。
一例を挙ぐれば、盲腸炎であるが、此病に対して医師は、廿四時間以内に手術をせざれば危険なりとして、手術するのであるが、之はそれ以上の良法の無い為、洵に止むを得ないのであるが、此病の手術後、往々結果の良好でない事がある。それは、傷口の容易に治癒せざる事二、三ケ月以上を要する者、稀には二、三年を経るも、尚絶えず傷口から膿の滲出する者さへあり、又、一旦治癒するも其隣接部に化膿塊を生じ、発熱痛苦を伴ふ事盲腸炎と同一の症状を呈するので、此場合医師は、再手術を奨めるのであるが、実際上再三の手術が患者の疲労を増し、遂に生命に係はるまでの危険さへあるのである。而も、斯の如き不結果なる治療に対して、数ケ月又は、数年の時日と、数百金乃至数千金に及ぶ多額の費用を要するに於て、余りに無力なる西洋医学と思ふのである。それに引代え、我観音力療法によれば、一回乃至三回にて全治し、而も再発の憂なく、費用の如きは、拾円以内にて足りるといふ、実に比較にならぬ程の違ひさである。
次に、腎孟炎に対する手術も、盲腸炎と大同小異であるから略すが、彼の医学上最も治癒困難とされる各種の癌腫も、手術療法に於ては、結果不良が多いのであるが、観音力療法によれば、凡ての癌腫の治病率が、九十パーセンテージの実績を挙げてゐるのである。子宮癌の如きは、二、三回乃至六、七回の施術によって癌腫は解溶し、下痢となって排泄し、何等痕跡を止めない程に全治するのである。
其他、扁桃腺炎、中耳炎、淋巴腺炎は二、三回乃至五、六回、痔瘻、横痃等も、一週間乃至三週間にて、重症も全治するのである。
瘍疔及び之に類する腫物に対しての手術は最も不可にして、是等は自然療法が最も安全確実である。忌憚なく言へば、是等の病にて生命を失ふに到る原因は、大方手術の為といっても過言ではないので、之は医家も気付かねばならない筈である。何となれば、一切の腫物は血液中に在る毒素が、自然浄化作用の為膿化し、其膿が体外に排泄さるる現象であるから、自然に放置すれば、熟する丈熟して、最後に破れた皮膚面から全部排膿されて、痕跡も無く治癒するのであるにも不拘、医師は未だ熟せざるに切開をするを以て、充分患部に膿が集溜してゐないから、幾日も排膿の工作を続けなければならないのである。自然療法に於ては、排膿期は、患部の内面は、既に新しい肉が形成されてゐるから、排膿するや速かに、常態に治癒するのである。故に手術するよりも、自然療法の方が、短時日に全治するのである。此見易き事実さへ不明なる西洋医学は、寔に不可解とさへ思ふのである。而も此際、唯一の方法としてゐる氷冷法は、非常な誤りである。何となれば、氷冷法を行ふや、患部への膿の集溜は停止されるから治癒は妨害され、それが為に全治は非常に遅延するのである。(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)