浄化作用と人体

元来薬というものは、地球上只の一つもないのであって、悉く毒物であり、毒だから効くのである。それはどういう意味かというと、薬という毒の作用によって病気症状が減るから治るように見えるので、実は治るのではないのである。では薬が何故毒物であるかというと、抑々人間が口へ入れるものとしては、造物主が人間を造ると同時に生を営むべく用意されたのが食物である。そうして食物にも人間が食うべきものと、食うべからざるものとは自ら別けられている。即ち食うべきものには味を含ませ、人間には味覚を与えられているのであるから、人間は食いたいものを楽しんで食えば、それで栄養は充分摂れるので、これだけを考えても造物主の周到なるは分る筈である。この意味に於て生きんが為に食物を摂るというよりも、食物を摂る事によって生きてゆけるので、丁度生殖と同様、子を得る目的で男女が営むのではなく、別の目的の営みで偶然子は授かるのであるから、神秘極まるものである。としたら人間は定められた食物以外の異物は、体内に入れてはならないに決っている。即ち味のない物、若しくは苦い物などは食うべからざる物として其物自体が示している。それを知らない為、昔から『良薬は口に苦し』などと謂ったのは、誤りも甚だしいと言わねばならない。

右の如く人間の体内機能は、食物として定められた物以外の異物は、完全に処理出来ないようになっているので、薬は異物である以上、含まれている栄養分だけは吸収されるが他は体内に残ってしまう。これが薬毒であって、しかも厄介な事にはこれが各局部に集溜し、時の経つにつれて固結してしまう。その集溜個所としては神経を使う処に限られている。神経を使う処といえば、勿論上半身特に首から上で、頭脳を中心とし眼、耳、鼻、口等であるから、其処を目掛けて毒素は集中せんとし、一旦頸の周りに固結する。如何なる人でも頸の周り、肩の辺に必ず固結をみるであろう。これが凝りであって、或程度に達するや自然排泄作用即ち浄化作用が発生する。その場合発熱によって毒結は溶けて液体となり、咳、痰、鼻汁、汗、下痢、熱尿等になって排除されようとする。これを名附けて感冒というのである。

寒冒毒素は自然生理作用が発生し、外部へ排泄されようとする。これを吾等の方では浄化作用と言う。そして毒素は、最初一旦人体の各局部に集溜する。其場合神経を使う処程多く集まる。人間が最も神経を使うのは上半身特に頭脳に近い程そうである。人間が目が醒めている間、手足は休む事はあっても、頭脳を始め、目、耳、鼻、口等は一瞬の休みもない。としたら毒素集溜の場合もそうであって、肩、頸、淋巴腺、延髄、耳下腺附近は固より、頭脳が主となっている。此様に各部に集溜した毒素は時日を経るに従って、漸次固結する。それが或限度に達するや、排除作用が発生する。ここに自然の恩恵を見るのである。何となれば、固結の為、血行が悪くなり、肩や頚が凝り、頭痛、頭重、視力減退、耳の鈍聴、鼻詰まり、嗅覚の鈍化、歯槽膿漏、歯牙の劣弱、息切れ、手足の弛緩、腰痛、浮腫等々により、活動力が減殺されるからで、それが為人間本来の使命が行われない事になる。それで造物主は病気という、結構な浄化作用を作られたのである。右の如く、毒素排除作用の苦痛が病気であるとしたら、病気こそ浄化作用であり、健康上最も必要なもので、神の恩恵中最大なものというべきである。故に若し人類から、病気を取除いたとしたら、人間は漸次弱って、遂には滅亡に到るかも知れないのである。

処が私は、病なき世界を造るというのであるから矛盾するように思うであろうが、これは根本的に異っている。というのは人間が無毒になれば、浄化作用の必要がなくなるから、共に病気もなくなるのは判り切った話である。此意味に於て私は、之から出来るだけ解り易く徹底的に説いてみよう。話は戻るが、固結毒素の排除作用を、私は浄化作用と名付けたが、先づ初め寒冒に罹るや発熱が先駆となる。自然は固結毒素の排除を容易ならしめんが為、熱で溶解させ液体化すのである。此液毒は速かに肺に浸入するが、此作用は実に神秘であって、例えば吾等が浄霊(之は療病法の名称)によって、固結毒素を溶解するや、間髪を入れず肺臓内に浸入する。其場合筋肉でも骨でも透過して了うのである。何しろ身体各局所にある固結毒素(以下毒結と称す)が、普通一、二個所位なら軽い症状で済むが、局所を増す毎に重くなる。最初軽いと思った寒冒が漸次重くなるのは、そういう訳である。

右の如く、液毒は迅速に肺臓内に浸入し、稀薄な場合は痰となって即事排泄されるが、濃度の場合は一時停滞し、咳というポンプ作用を待って、間もなく気管を通じて外部へ排泄される。咳の後には必ず痰が出るにみても明かであり、嚔の後に鼻汁が出るのも同様の理である。又頭痛、咽喉の痛み、中耳炎、淋巴腺炎、手足の関節や、鼠蹊腺等の痛みは何れも其部にあった毒結が溶解し、出口を求めようとして動き始める。それが神経を刺戟するからである。そうして液毒は濃い薄いが出来る。濃いのは喀痰、鼻汁、下痢等になるが、極く薄いのは水様となり、盗汗や尿によって排泄される。此様に浄化作用なるものは、最も自然に合理的に行われるもので、造物主の神技に感嘆せざるを得ないのである。一体造物主即ち神は、人間を造っておき乍ら、病気などという人間を苦しめ、活動を阻害するようなものを与えられる筈はなく、常に健康であらねばならないに拘わらず、人間が誤った考えで毒素を作り、貯溜させるので、止むなく排除の必要が発る。それが病気であるとすれば、寒冒の場合も何等の療法もせず、自然に放任しておけば完全に浄化が行われるから順調に治り、健康は増すのである。

此理によって人間は出来るだけ風邪を引くようにすべきで、そうすれば結核などという忌しい病は跡を絶つのである。処がどうした事か、何時の頃からか不思議にも、右の清浄作用を逆解して了った。そこで発病するや極力浄化を停めようとする。何しろ浄化の苦痛を悪化の苦痛と間違えたのだから堪らない。其為熱を恐れて下げようとする。解熱すれば毒結の溶解が停止されるから、咳痰を初め凡ゆる症状が軽減する。恰度病気が治るように見えるのである。判り易く言えば、折角溶け始めた毒結を元通り固めようとする。其固め方法が医療なのである。氷冷、湿布、薬剤、注射等すべてはそれであって、全部固まると同時に症状が消失するので、之で治ったと思って喜ぶが、何ぞ知らん、実は折角掃除をしようとする其手を抑えつけるようなもので、之は事実が證明している。よく風邪が拗れるというが、之は人体の方は浄化しようとする、それを止めようとするので、つまり浄化と非浄化との摩擦となるから長引くのである。又一旦風邪が治っても、暫くすると必ず再発するのを見ても分るであろう。故に結果から言えば、医療とは病気を治す方法ではなく、治さないで延期させる方法である。従而本当に治るという事は、毒素を外部へ排泄し、体内が清浄となって、病気の原因が皆無となる事である。だから真の医術とは浄化が発った際、固結毒素をより速く溶解させ、より多く体外へ排泄させる事で、それ以外真の療法はないのである。

そうしてこの浄化作用なるものは、人体の活力が旺盛であればあれ程起り易いので、これを停めるには人体の活力を弱らせるに限る。そこで薬と称する毒を用いたのである。昔から草根木皮、鉱物、動物の臓器等から探り出し、煎じたり、粉末にしたり、抽出したりして水薬、丸薬、塗布薬、注射薬等色々な形にして、浄化停止に応用したのである。それには毒が強いと生命に関わるから、微弱にして少しずつのませる。この為一日何回などと分量を決めたので、よく効く薬とは中毒を起さない程度に毒を強めたものである。この様に薬毒を以て溶解排除せんとする毒素を固めて来たので、今日の人間が如何に有毒者であり、病気が起り易くなっているかは、近来予防衛生などと喧しく言ったり、感冒を恐れるのもその為である。又人間の寿命にしても六十余歳となったといって喜んでいるが、これも大変な誤りである。というのは人間病さえなければ百歳以上は楽に生きられるのに、百歳以下で死ぬのは病による不自然死の為で、無病となれば自然死となる以上、長生するのは当然である。右の如く医療とは病を治すものではなく、一時的苦痛緩和手段で、その為絶対安静、湿布、塗布薬、氷冷、電気、光線療法等々、凡ての療法は固め手段ならざるはないのである。その中に一、二異うのは灸点と温熱方法であるが、これも一時的熱の刺戟によって、その個所へ毒素を誘導させるので楽にはなるが、時間が経てば元通りになるから何にもならないし、又ラジウム放射で癌を破壊する方法もあるが、これも癌だけの破壊なら結構だが、実は組織をも破壊してしまうから、差引プラスよりマイナスの方が多い訳である。

以上の如く現在迄の療法という療法は、徹頭徹尾固め方法であって、治す方法とは毒素を溶かして排除させる以外決してないのである。何よりも医師は“治す”とは言わない。“固める”というにみて明らかである。しかも固め方法の内最も有効なものが薬であり、その薬が病原を作るのであるから、医療を受ける程余病が発り易く、悪化するのは当然である。その結果遂に生命の危険に迄及ぶのである。それについてこういう事がある。治そうとして熱心に高貴薬など用いる患者程成績が悪く、その反対にどうでもいいと思う患者程治りがいいという話は、医師からよく聞く処である。又衛生に注意する者程弱く、無頓著の者程健康である事や、医師の家族や病院の看護婦などが多病であるのもよく聞く処である。面白い事には稀な健康者、長寿者に訊いてみると、「自分は病気した事がないから、医者や薬の厄介になった事はない」などというが、吾々からみればそれだから健康であり、健康だからそうであるので、この点大いに味わうべきである。

元来病気なるものの原因は実は自然の生理作用で、此理は凡ゆるものに共通してゐる。例えば万有一切は物心共に必ず汚穢が溜るが、それと正比例的に清浄化する自然活動が発生するのである。実に寸毫の差もない自然原則である。これを大にしては天地の間に汚穢が堆積するから暴風雨が起り、風で吹払い雨水で洗ひ、天日で乾かすのであり、小にしては人間の家屋内に塵埃が溜ればハタキで払い、箒で掃き、ゴミ溜へ捨て、そのゴミを一個所に集めて焼却するという順序である。これと同様な事は人体にも言える。人体と雖も常に何等かの原因によって霊肉共に汚穢が堆積するので、それに対する自然浄化作用が発生する、それが病気である。何よりの證拠は浄化発生するや発熱する。それは堆積した毒素は時日の経過によって固結するから、其固結溶解の為の熱で、それによって固結は溶解し液体となり、喀痰、鼻汁、発汗、尿、下痢等によって体外へ排泄されるのである。然るに此浄化過程は苦痛が伴ふので、この苦痛を称して病気と名づけたのである。従而これによって体内は清浄化し健康は増すのであるから、病気とは健康増進の為の自然生理作用で、これ程結構なものはない訳である、全く神の恩恵の最大なるものといふべきである。

そうして人間は体と霊との密合一致によって成立っているものであって、言う迄もなく体とは眼に見ゆる物質で誰にも判るが、霊は眼には見えないが、立派に存在している一種のエーテルの如きものであって、人体が空気界の存在である如く、人霊は勿論霊界の存在である。科学的に言えば非常に密度が高く超稀薄なものであって、現在進歩した原子顕微鏡でも、到底見る事は出来ない程の超々極微粒子であるにも拘わらず、之こそ前記の如く人間の本体であるから、全く想像もつかない程の神秘幽幻なものである。霊界とは曩にもかいた如く、空気よりも稀薄な透明体であって、無と同様であるが、実は此世界こそ無処ではなく、絶対無限の力の発生源であって、其本質は太陽の精と、月の精と、土の精との融合による、想像もつかない程の霊妙幽幻な世界である。之を仮に宇宙力と言っておこう。此宇宙力によって万物は生成化育されるが、それと共に汚穢が溜るので、それに対する浄化が行われる。恰度人体に垢が溜り、入浴が必要となるようなものである。即ち地上霊界に汚濁が溜るや、それが一定の局所に集中され、低気圧という浄化作用が発生して清掃される。雷火も人的火災もそれである。言う迄もなく、人間もそれと同様、汚穢が溜れば、霊を主として浄化作用が発生する。之等を詳しくかいてみよう。右の如く、人霊に溜った汚穢即ち曇りであるが、之は透明体である人霊に、不透明体の部分が発生する。此理によって病原の最初は此霊の全部又は一部に曇りが発生する。そうして此原因には二種類ある。一は霊自体に発生する曇りと、二は体から移写される曇りである。

先づ前者から説いてみるが、人霊の内奥は求心的三重になっている。之を中心から逆に遠心的に説いてみれば、中心は所謂魂である。魂とは人間が此世に生れる場合、最初男性を通じて女性の腹へ宿る丶である。処が魂を包んでいるものが心であり、心を包んでいるものが霊であるから、魂の如何は其儘心を通じて霊に反映すると共に、霊の如何は心を通じて魂に反映する。此様に魂と心と霊とは相互関係で三位一体である。勿論如何なる人間と雖も、生きている間善も行えば悪も行う。その場合善よりも悪が多ければ、差引多いだけが罪となり、それが魂へ反映して曇りとなる。為に心が曇り、霊が曇るという順序である。すると浄化作用発生によって曇りの排除が行われる。其過程として一旦曇りの容積は縮小され、濃度化し、体内の何れかの局所に集結する。面白い事には罪によって固結場所が異う。例えば目の罪は目に、頭の罪は頭に、胸の罪は胸というように相応するのである。

此曇りの溜積が或程度に達するや、茲に浄化作用が発生する。之が病気、災害、又は法による刑罰であって、之に洩れた分が神の律法によって霊的刑罰を受けるのである。然し此刑罰を如何に巧妙に免れ得たとしても、神のそれは絶対である以上、体に移写して大きな苦悩となる。勿論此際の病気は悪性で、多くは生命に迄及ぶのである。そうして悪の刑罰は、早ければ早い程軽く済むもので、恰度借金と同様、返えさずにおくと利子が溜るようなものである。然し悪人によっては、人と神との両刑罰を巧く免れる者も稀にはあるが、それらは死と共に霊界に往くや、罪の重荷によって地獄のドン底に堕ちて了うので、如何なる悪人も悔悟せざるを得ない事になる。即ち此処は仏教で唱える無間地獄、神道でいう根底の国、西洋では彼のダンテの地獄篇にある煉獄である。何しろ光なく熱なく、暗黒無明の世界で、何一つ見えず、凍結状態のまゝ何百年でも続くのであるから、如何なる極悪人でも往生せざるを得ないのである。斯んな事を記くと現代人は容易に信じ難いだろうが、私は霊界研究の折、多くの霊から直接聞いた話で、一点の間違いはないから、絶対信じて貰いたいのである。

話は戻るが、悪の結果として自責の念が起るが、此心の苦痛こそ軽い浄化であって、此時悔い改めればいゝが、中々そうはゆかないもので、多くは罪を重ねる事になる。勿論曇りといっても罪の大小により、其量も相応するが、それとは別に他動的の場合もある。それは人を苦しめると、苦しみを受けた人間は怒ったり怨んだりするから、其想念が霊線といって、無線電波式に加害者の霊身に伝達し、それが曇りとなる。之に反し人を喜ばせ、善を行うと、相手の感謝の念が光となって伝達されるから、それだけ曇りが減るのである。然し之とても陰徳的に本人に知れないようにする程、神の恩賞は大きくなるもので、之こそ厳たる天則であるからどうしようもないのである。以上が霊界の在り方であって絶対の真理である以上、人間は之を信じ、之に従うより外はない。右の通り曇りの浄化作用が病気其他の災いの因としたら、人間幸福を得たければ悪を廃め、善を行い、霊を曇らせないようにする事である。

次に後者を解いてみるが、之は前者は反対で、体から霊に映るので、其場合最初血液に濁りが生じ、其通り霊が曇る。元来人体は霊の物質化したものが血液であり、其反対に血液の霊化が霊であるから、つまり霊体は一致している。従而、濃度化した曇りが体に映ると濁血となり、それが一層濃度化したものが固結であり、此固結が溶解され液体となって、身体各所から排除されようとする。其苦痛が病気である。そうして体からの移写とは、勿論濁血のそれである。然らば何故濁血が出来るかというと、此原因こそ実に意外である。というのは医療の王座を占めている薬剤そのものである。即ち薬とは全部毒であるから、薬を体内に入れるだけは濁血が作られるという訳で、何よりも事実がよく證明している。それは病気が医療を受け乍ら、長引いたり、悪化したり、余病が発るというのは其為で、別に不思議はないのである。そうして体にある濁血が、霊へ映って曇りとなり、之が病原となるとしたら、実は病気を治す方法自体が、病気を作る方法という事になる。処が万有の法則は霊が主で、体が従であるから、病気は霊の曇りを解消しない限り、全治しないのは当然である。処が我医術は此原理の応用であるから、霊を浄める事によって、病気は根本的に治る。それで浄霊というのである。

其理を知らない医学は、霊を無視し、体のみを治そうとするのである。したがって、何程進歩したと言っても、一時的治癒でしかない。何よりも事実をみればよく判る如く、医療は根治が出来ない。一旦治っても殆んど再発する。例えば盲腸炎の場合、患部を剔出するので、盲腸炎は起らないとしても盲腸に近接している腹膜炎や、腎臓病が起り易くなる。之は全く霊の曇りがそのまま残っているからで、再び濁血が作られ、位置を変えて集溜するからである。そうして濁血の変化であるが、濁血が不断の浄化によって、一層濃度化するや、血粒は漸次白色化する。之が膿である。よく血膿と言って膿と血液とが混合しているものは変化の中途である。尚進むと全部膿化する。よく結核の喀痰が血液の混っているものと、そうでないものとがあるのは、右によって判るであろう。又医学に於ける赤血球と白血球というのもそれであって、それを食菌作用と医学は言うのである。

右に述べた如く、病気の本体は霊の曇りであり、此曇りから黴菌は発生するという、其順序を詳しくかいてみるが、初め透明体である人霊に曇りが発生するか、又は濁血の移写によって曇りが出来る訳は、既にかいた通りであるが、然らば曇りから何故病菌が発生するかというと、曇りの濃度化が或程度に達するや、自然に超微粒子が発生する。即ち霊の曇りと雖も超極微粒子から成立っている。即ち不断の浄化作用によって濃度化し、個体化した霊に植物性超微粒子が発生するのである。之は何が為かというと、元来曇りとは水素の集合である以上、植物発生には都合がいいからである。そうして之が漸次成育し、遂に有機化して了う。即ち之が黴菌の卵子であって、此卵子が成育して最初の黴菌となるが、此程度では勿論顕微鏡では視る事は出来ない。然し最早生物となった黴菌は、食物が必要となり、互に食い合いを始める。即ち弱肉強食的生物の自然原則である。言うまでもなく生存競争である。勿論黴菌群中にも強者が現われ、弱者は淘汰され、強者は益々太るという訳で、此強者こそ顕微鏡で捕捉される迄になった黴菌であって、此点人間社会と酷似している。此理を知ったなら彼のヴィールスも分るであろう。即ちヴィールスとは右の如くまだ親にならない黴菌の子供であるから、顕微鏡では見えないが、確かに育って親となり病原となるので、之は学問でも認めている。これを最も分り易い譬えとして、彼の塵溜に湧く蛆である。医学は蛆だけを殺そうとして、塵の方に気が附かないと同じである。右の如くであるから、病原とは全く最初に発生した霊の曇りであるとすれば、此曇りを解消する以外、根本的治病の方法はあり得ないのである。

以上の理によって根本的に病気を治すとしたら、右の如き黴菌の発生源である霊の曇りを解消する以外に、真の治病法のない事は明らかである。それに就ての曇りの解消とは一体どういう意味かを説明してみると斯うである。不純水素というのは水素中に不純分子が含有されており、勿論顕微鏡でも見得ない程の超微粒子であって、この微粒子を消滅させるのが浄霊法である。即ち施術者は患者の患部に対って掌を翳すや、施術者の掌から一種の光波が放射されるのである。これによれば右の毒微粒子のみが焼尽され、純粋水素は残り病原は全く解消されるのである。そうしてこの施術こそ人間の掌から放射される不可視光線であって、この光線の本質は火素である。分り易く言えば之は太陽の精であって、私は之を火素と名附けた。即ち空気の本質は水素であるに対し、霊気の本質は火素であるからで、勿論火素といえば火には違いないが、人間が現在目で見、熱く感じるそれは火素の体であって、右の火素とはつまり火霊である。即ち火の体は熱であるが、火の霊は熱くはないが、体以上の素晴しい強力さである。此火霊が人霊の曇りに向って放射されるや、曇りの中の不純分子だけ焼燼され、其灰に相応する分子が排泄物となって体外へ排除され、純粋分子は漿液中に混入されて了い、茲に曇り即ち病原は解消されるのである。

では右の火素が何故掌から放射されるかというと、この浄化力こそ、神エホバが火素の本源ともいうべき霊光の玉を私に与えられたのであって(これは腹部の中央に直径六糎位で肉眼で見る人もある)この玉から無限に光波が放射され、その伝達方法として二分の一メートル位の紙片に、墨と筆で光の文字を書いたものを畳んで懐へ入れさせる。すると私から出る光波は、霊線を通じて施術者に伝わり、その人の掌から放射される。これが浄霊法である。丁度ラジオの放送局と、アンテナと受信機のようなもので、実例報告中にある御守というのがこれである。此御守というのは私が書いた文字で、光、光明、大光明の三種あるが、之こそ主の神(エホバ)の神霊が、私の霊体を中継として御守に伝達され、御守から信者の掌を透して放射されるのである。では何故神はそういう方法を私に授けられたかというと、これこそ彼のキリストが「天国は近づけり」と予言された処の紀元的時機が来たからである。その根本としては第一に人類から病を追放する事で、神は病気滅消の方法を私に教え給うたのである。

茲で薬毒に就ての原理を実地経験によってかいてみるが、浄霊によって一旦治癒した患者でも、暫くすると再発する事がある。之を吾々の方では再浄化というが、此理由は初めの浄霊は、浄化発生している分だけの毒素が解消されるので一旦は快くなるが、業務に就き仕事にかゝるや、此時は相当活力も出て来たので、活溌な浄化作用が発生する。つまり浄化によって健康になり、健康になるから浄化が発るという訳で、それを繰返しつゝ健康は漸次快復するのである。というように再浄化の場合は割合強烈な為、高熱や激しい咳嗽が発る。之は固まった古い痰が出る為で、濃厚なのと薬の臭いでよく分るが、勿論食欲不振、衰弱等も加わり、稀には不帰の客となる事もないではない。其率は今日迄の統計によると、浄霊で全快した者百人に対し、七人の割合であるから、後の九十三人は完全健康者となって、現在皆活動している。右の如き驚異的治病成績に対し、一層驚くべきは、吾々に来る患者の殆んどは医療、民間療法、信仰療法等、凡ゆる方法で治らず、死の一歩手前に迄追い詰められた重症患者のみであるに対し、右の如き素晴しい成果を挙げるとしたら、到底信じ得られないであろう。処で右七人の不成績者と雖も、其原因の悉くは薬毒多量の為であるから、浄霊法とはつまり薬毒除去の方法であって、何よりも薬毒が減るだけは、快方に向うに見て明らかである。としたら無結核国日本にするには、敢て難しい事ではない。薬剤を全廃する事と、感冒を奨励する此二つで、充分目的を達し得らるゝのである。

黴菌の発生(結核信仰療法 昭和二十七年十二月一日)
病気とは何ぞや(結核の革命的療法 昭和二十六年八月十五日)
霊主体従(結核の革命的療法 昭和二十六年八月十五日)
無機から有機へ(結核の革命的療法 昭和二十六年八月十五日)
医学の誤謬(自観叢書十 昭和二十五年四月二十日)
結核(アメリカを救う 昭和二十八年一月一日)
毒素の解剖(結核信仰療法 昭和二十七年十二月一日)
病気とは何ぞや(アメリカを救う 昭和二十八年一月一日)

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本教は病気の事を浄化というが、之程いい言葉はあるまいと思う。それも嘘ではなく本当でもあるからである。第一此言葉から受ける感じは、頗る気持がいいが、之に反し病とか病気とかいう言葉位気持の悪いものはあるまい。併しよく考えてみると、此言葉も満更間違ってはいないと思う。というのは病は結構なものである事を知らないから、余計な心配する。つまり気を病むものだからであろう。夫に就てよく信者同志の話合ってるのを聴くと、『お蔭でやっと浄化が起りました』とか『浄化の御蔭で近頃は、大分身体の工合がよくなりました』とか『浄化は有難いものですね』なども、実に快い言葉である。

今一つは病院という名称である。之も私は非常に悪いと思うが、実際からいえば、此名前も満更間違ってはいないと思う。何故なれば治らないで病み続ける処であるからであろう。若し吾々の方でそういうものを造って名を付ければ、浄院というのが合っていよう。併し人間が薬を用いなくなると、自宅で簡単に治る軽い病気ばかりになるから、そんなものを造る必要もなくなる訳である。

浄化の言葉(栄光百五十七号 昭和二十七年五月二十一日)

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人間が生れながらにして保有する天然痘毒素は、天然痘発病によって排泄せられるのである。種痘によって、天然痘が免疫になるといふ事は、天然痘毒素(以下然毒と略す)が消滅したのではなく、発病の勢を挫(クジ)かれたまでである。即ち陽性であるべき毒素が陰性化されたまでであって、実は此残存陰化然毒が、結核を初め凡ゆる種類の病原となるのである。そうして陰化然毒は、人体不断の浄化作用によって各局部に集溜固結するので、その局所は主として背面腎臓部である。これが為その固結の圧迫によって腎臓は萎縮し、尿の排泄に支障を来すので、その結果として余剰尿毒が背部、肩部、首、頭脳、淋巴腺を初め、全身各部に集溜するのである。勿論神経を使ふ所程、集溜固結するものである。その集溜固結の過程を、私は第一浄化作用といふ。次で右固結を解消排除すべき第二浄化作用が発生するので、その先駆として先づ発熱がある。それによって右の固結は溶解し、液体化し喀痰、汗、下痢、嘔吐、鼻汁等になって排泄さるるのである。

急激なる欧化主義の結果、肉食と牛乳飲用に由る血液の汚濁に気が付かない事である。又、薬剤の服用及び注射は副作用に依って血液を汚濁させる事である。即ち、或病気を治癒する以上に健康上不利な薬毒の害を残すのである。元来日本人は西洋人に比して、肉体の浄化力は非常に旺盛である事である。それは西洋人より天賦的に優秀であるからである。西洋人が獣肉多食をしても害が少いといふ事は浄化力が少い為である。西洋人は肩が凝らないといふのもそれが為である。

医学に於ては薬毒は自然排泄消滅するものとしてゐるが、之は甚だしい謬りであって、人間は人間の食物として定められたる以外の総ては異物であるから、決して消滅はせず体内に残存する事は、私の幾多の経験によって明かである。右の理によって、病気の原因である毒素なるものは大体陰化然毒、尿毒、薬毒の三種である事を知るであらう。そうして病気に際し最も苦痛を現はすものは薬毒で、次が尿毒、次は然毒であるが、然毒は殆んど痛苦はなくただ痒みだけである。又特に注意すべきは、発熱の原因が殆んど薬毒である事である。故に発熱が主である結果と雖も、その根本原因が薬毒である事は疑ないのである。何となれば私が多数の患者を取扱った経験上、生来、薬剤を使用した事のないといふものも偶々(タマタマ)あるが、そういふ人に限って発熱がなく、従而、病気も軽く、大抵一二回で治癒するのである。

結核撲滅の大方策と健康日本の建設(大日本健康協会一号 昭和十一年六月十五日)
結核と薬毒(結核の正体 昭和十八年十一月二十三日)

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現在、生きてゐる人間は、自分一個の存在でなくて、祖先の繋りで、祖先の延長である事を知らなくてはならない。又言ひ換えれば、無数の祖先の綜合が、個体たる自分である。無数の祖先の霊線が、自分一個の霊と繋ぎ合ってゐる。丁度、紙風船の糸の形を想像すれば判る。故に、祖先が負ふてゐる、諸々の罪穢なるものは、霊界に於ける、その天律的浄化作用によって、その残渣(ザンサ)たる霊汚素(レイオソ)が、絶えず現在の人間の精霊へ、流れて来る、それが人間の精霊を曇らせる原因である。その曇りが或程度を越ゆる時、それが病気となって、肉体へ現はれるのである。

観音は救主であられる。罪を赦す御方である。祖先の罪穢による、精霊の曇りを払拭するといふ事は、その罪穢を赦す事である。是が根本的の治病法であるから、再発の憂ひが無いのである。否益々健康になってゆくのは少しも不思議ではないのである。斯の様に精霊の曇りが浄められるといふ事は、遡れば、祖先の罪が赦されるといふ事になるから、地獄界に苦しんでゐた祖霊達が向上して、天国へ救はれる事になるので、その信仰の徳は予測出来ない程の洪大無辺なものである。

大光明世界の建設 病気の原因と其解消(観音運動 昭和十年九月十五日)

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元来浄化発生といふ事は人間が健康であるからで、弱体であれば浄化力発生はないのである。例えば、人家に塵芥が溜るとする、家人が健康であれば掃除が出来るが病人ばかりでは掃除が出来ないのと同様である。勿論浄化作用は苦痛が伴ふので、それを間違って解釈し大病の発端のように恐怖し、一刻も速く止めようとする。それには浄化力を微弱にする事で、それには弱体化しなくてはならない。即ち先づ薬剤を用ひる。元来薬なるものは一つもない。全部毒である。之は薬物学者はよく知ってゐる。即ち先づ毒によって衰弱させやうとする。故に一言にしていえば、医療とは病気を治さない方法で、医学進歩とは治さない方法の進歩である。故に医家は病気を治すとはいはない、固めるといふにみて明かである。勿論固める為には前述の如く衰弱法を行ふ。それが無理をしない事、風邪を引かない事、大切にする事、睡眠を充分にとる事、薬剤を成可用ふる事等々である。之が消極的健康で浄化微弱の結果、病気発生が少なくなるので、之を健康法と誤認したのが今日の予防医学である。

以上の如く消極的健康者を吾等は擬健康といひ、今日の青白いインテリや、腺病質の小児など此種の代表的人間である。何よりも今日の医学衛生を忠実に守る者程此種の擬健康者が多い事である。斯ういふ擬健康者に一度黴菌が侵入するや、必ず発病し、生命の危険に及ぼすのである。之が今日黴菌を極端に恐れる原因でもある。

真の健康と擬健康(自観叢書十昭和二十五年四月二十日)

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人口増加率逓減と死亡率減少と並行するといふ事は如何なる訳かを説明する。先ず欧洲文明国に於て、近年伝染病や肺結核が著減したといふ事を以て社会衛生の進歩に因るものと一般は信じてゐるがそれは一部の理由とはなるが、真の理由ではない。勿論衛生施設の完備が或程度の効果はあるが、それよりも大きな原因は体力低下の為である。体力低下が伝染病減少の原因になるとは読者は不思議に想ふであらうが、真相は次の如きものである。元来、伝染病や結核等は体力旺盛による強力浄化の為であるから、体力低下の民族は浄化不発生又は微弱であるのは当然である。劣等民族に伝染病が多いといふ事は、衛生に無関心である事よりも体力強盛に因る事の方が有力な原因である。

右の理論を判り易くする為人間の健康を三種に分けてみよう。即ち第一種の人は完全健康体で無毒であるから、浄化作用即ち罹病する事はないが、斯ういふ人は極稀である。次に第二種の人は有毒者にして体力強盛なるが為浄化作用が起り易く、小患又は大患に時折罹る。先づ此種の人が大多数である。次に第三種の人で有毒者でありながら、体力劣弱なる為浄化作用が発(オコ)り得ない。起っても微弱である。ただ此種の人は運動等によって体力が多少強盛になった場合起るのである。故に斯ういふ人の場合は早速薬を用ひて安静にすれば還元するから一時恢復する。故に之等の人は過労を避けようと努めるのである。

然るに今日の医学は、第二種の人を第三種にする事を治療道と考へ努力する。その例として都会児童や医師の子女即ち最も医師に触れる機会の多い者及び今日の医学衛生の理論を忠実に守る人程虚弱者であるといふ事実がそれを物語ってゐる。然し乍ら第二種の人を第一種に改善しようとしても、現代医学では到底不可能である。そうして死とは如何なる理由によるのであるかといふと、世人は病気の為と思ってゐるが、実は病気に因る死は極稀であって、その大部分は衰弱の為である。それは病気即浄化作用を抑圧するからである。何となれば曩に説いた如く医学は浄化停止を行ふに対し、肉体は浄化を反撥するといふ訳で相剋的に苦痛が増加する。それが為衰弱は加増し、終に死の転機に及ぶのである。

医学によって体位低下せる文化民族は浄化微弱によって強烈なる浄化が起り得ない理由によって大患が少なく、それが死の機会を延期する。即ち弱体乍らに漸く生命を保ちつつ生存するといふ訳である。然るに今日の文化民族が未だ体力旺盛であった時代は、強烈なる浄化即ち大患に罹り易い。医療はそれを強圧する為摩擦する-衰弱する-死ぬ-といふ訳である。その證左として死亡率の高い時代ほど人口増加も亦高いといふ統計が表はれるのであって、之が人口問題第二の謎の解説である。

病気の真因(天国の福音 昭和二十二年二月五日)

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中村氏、真山氏との御対談(一) 世の中に薬はあるか

真山氏 併し、薬などは体質に合うとか合わないとか言いますが……。

明主様 大体薬という物は世の中には一つもないのです。薬と称している物はみんな毒なのです。というのは、私は病気というものは浄化作用と言ってます。それは体の中にあってはならない物を排除する作用です。排除するための痛みとか熱で、熱というのは溶かす作用です。その苦痛を病気と称するのです。ですから、病気というのは体の一つの掃除の作用で結構なものなのです。だから私は病気に感謝しなければいけないと言ってます。

真山氏 病気になれというわけですね。偶には……。

明主様 たまにはではない。大いになった方がよいのです。ですから、風邪をなる丈引けと言うのです。ですから、私の方の信者はおかげでやっと風邪を引きましたと言うのです。それで風邪を引きさえすれば結核などは起りゃしないです。風邪を引かないように止めるから結核になるのです。そうでしょう。風邪というのは毒の掃除ですから、掃除の起った場合に、むしろ余計掃除をした方が余計毒は取れます。掃除ができます。今はその掃除を止めて固めるのです。ですから医者は治るということは言わないので、固めると言います。

中村氏 今話がありましたが、原爆の放射能を受けた人は……。

明主様 原爆は、何もしなくても放っておけば治ります。

真山氏 治りますか。

明主様 治ります。医学の方で色んなことをやる、それによって死ぬのです。ですから医学というのは有害無益な存在です。

真山氏 そうすると、救世教は医学排斥論というわけですね。

明主様 ではなく、もっと強い絶対廃止論です。医学が無くなったら、人間はどの位幸福になるか分らないです。

中村氏 内臓疾患はそうとしまして、外科疾患の場合は如何でしょうか。

明主様 と言っても、因はその人に霊的曇りがあるからです。又外傷した処で直ぐに治ります。それは私の方で発行している新聞を読めば分ります。これを説明するにはなかなか骨なのです。というのは、あなた方が普通の頭ならよいですが、科学迷信、医学迷信に固まっているからです。

真山氏 いや………しかし……。

明主様 それなら、私が言う説を直ぐ受入れられますか。そうはゆかないでしょう。併し受入れても疑問が起って、不思議で変におもえてしようがないでしょう。

中村氏、真山氏との御対談(一) 世の中に薬はあるか(昭和二十九年七月二十一日)

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「一昨晩或るお医者と怒りつこなしで議論しましたが、向うの言い分で御参考になりますかと思い御報告させて戴きます。彼等も病気が治るという事は、薬で治るのでなく人間には自然良能力があると言う事を言つて居り、薬というのは一時的に病気の進行を止(ト)めるものだと言つて居ります。その苦痛を止めて、あとは自然良能力で治るのだからメシヤ教と同じだと申して居りました」

一寸違いますがね。

「薬毒という事では、動物実験をし、種々に分解し人体に悪作用を来さないで、体内で消化され残つた物が無力化した物なら良いとして売出しているのだからと、薬毒という事は信じられないと言つて居りました」

医者はそうなのです。

「然し今悩んでいる事があるそうで、薬というのは元々毒ですから、毒をもつて毒を制するというが、斯う効かなくなるとすると、黴菌の抵抗力が増したのか或いは肉体が抵抗力が出て来たのか、兎に角有効期間が短くなつて来たと――」 

それが霊界の浄化作用が強くなつて来たという事です。

「そうすると、薬で病気を治すという事は無力になる。何かの革命を起さなければならない。その意味からあなたの言う事は解ると言つて居りました」

その点は良いです。

「それから既往症を当てるという事で病院に参りまして、首から上部に手術をして穴があいてました病人がありましたので、此人はいづれ肋間神経をするかも知れないと言つた処、其人は此間から肋間神経で困つていたと言うのです。前に明主様の御論文で、肋間神経になるのは、きつと首から上に手術してあるというので――。『どうです。当つたでしよう。それが薬毒ですよ』と言つて、又来月会いましようと別れました」

面白いね。

「ヒドラジットが七月九日から売出され、二十万人分が数日で売れましたが、二回目三回目になると売行が止まつたそうで、神戸の或る新聞に『副作用でトンコロリ、元も子もない』という記事が出て居りました」

つまり非常に良く効くという事は非常に毒が強いという事だから、その強い毒にはあてられる訳です。私が先から言つている通り、医者自身が医学に対して愛想を尽かして入つて来るという、その第一歩になつた訳です。それは非常に面白いものです。

「名古屋の横地という博士は十二年来の結核ですが、私が存命しているのは注射や薬をしないからだ。と言い、家族には注射や薬は絶対にやらないそうです。又患者が来て、一時抑えて呉れという者には射ちますが、治して呉れという者には射ちませんそうで御座います」

それも面白いです。成程、少し解つている訳です。

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「御浄霊は病気が治る許りでなく、心が浄まるに従つて、貧争もなくなると解釈してますが、それで宜敷いでしようか」

良いでしよう。

「その時自分の意識を働かしてはいけないが、治してやらうと言うのは――貧を無くする場合は、貧を無くすると言う想念で――」

結構です。そう言う執着は結構な執着です。処がね。病気が治れば貧も争も無くなる。メシヤ教で病気を治すと言う事は――貧乏も貧苦でしよう。だから、そういつた浄化すべき曇りが無くなるから、貧の苦しみも争いの苦しみもなくなる。広く解釈すれば良い。根本は浄霊ですから、霊を浄めるんです。霊を浄めれば、貧も無くなる。だから私は何時も、人間許りじやない。国の病気、世界の病気だと言うんです。  日本が病気なんです。貧乏しているんです。又世界の病気なんです。共産主義の苦しみと言うのは、結核みたいなものですからね。

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「上田と言う女の信者で、熱心に信仰して居り、子供がリツトル氏病で、小児麻痺様になり、目も見えず、口もきけず、亡くなる一月程前に、先祖の霊と言うのが沢山出て参り『もう一月すると、救う為に霊界に引取る。それで夫婦も良くなる』と言い、次に十七才の長男がお守戴いて居りますが、キリスト教の教会に讃美歌をうたいに行くのが好きで行つて居りましたが、八月に奥さんの霊が憑り、『この子は霊界で御用があるから、涜罪と言う意味ではないが、引取る』と言い、それより長男が寝つきました。審神(サニワ)させて戴きましたが、恭しく出て参り『八大龍王三女神の部下の神で、何うしても霊界で人類救済の御用をさせなければいけない事になつている。主人はそれによつて分つて、入信する事になる。その主人も、何うしても分つて、現界で使う事になる。浄化ではなく、霊界に引取り、直ぐに主人も分る様になる』『一体亡くなる時期は何時ですか』と言うと『今日だ』と言うんです。明主様にお伺いして帰りましても間に合わない様で御座います。之は本当で御座いましようか」

之は本当でしよう。

「少し前から死を知らされると言うのは、それによつて苦しみますから、浄化の為でしようか、と聞きますと『浄化ではない。信仰が厚いから、死を知らせて、その覚悟をさせるんだ』と言いました」

悲嘆に暮れる事がないからね。

「何であろうと、兎に角神様に救つて戴けば良い。有難い。それ以外は何も考えない様にする。と言つて居ります」

大変結構です。やつぱり、そこの家の因縁によつて、そうしなければならない人があるんですからね。ですからそう言うのは何うする事も出来ないですね。定まつているんですからね。それは邪神ではない、本当のものです。色々と霊的に深い意味があります。人間によつて色々あります。神様の方で選らばれた人は、普通の人とは違うんですね。神様に選らばれたそう言う人は、主人公が非常に重要な役目を持つているが、霊統に大きな罪があるという場合には、結局涜罪ではないと言うが、大きく言うと涜罪です。涜罪でなくても、主人は子供二人も亡くなつて、はじめて信仰に入る――それから、霊なんか知らない三千年も前の罪を消さなければ本当の御用が出来ない。と言う場合に、そう言う事になるんです。罪穢れと言つても、三代前とかと言う罪もあるが、そうでなくて三千年前の罪だつてありますからね。それを綺麗にしなければならないからね。

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「信者の方で、長い間熱心に、資格も戴きやつてますが、薬で、とことん迄行つて、このお道に入りましたが、それだけの薬を飲んだ浄化を戴かない。他の人は戴いているので、それが羨しい。自分はそれ迄行かないのだろうかと言つてましたが、如何で御座いましようか」

何処かはずれている処があるでしよう。無論、飲んでいる以上は出ますが、薬に依つて強いのと弱いのとあるから、一概にはいかない。その人が熱心にやつたから良いと言うのではなく、線にはずれていては余り良くない。線に合つていると言う事は、何処かと言うと、信者を多勢救うとか、支部をつくると言う事です。その褒美が神様から来る訳です。そうなると、智慧と言う事も必要になる。一生懸命にやると言つても――結果ですよ。一生懸命も結構ですが、唯、結果が現われなければね。何彼に言うより、結果ですよ。そう言う事は、怠けている様でも、あんまり感心しなくても、確かに信者が出来るなら、それが救いですからね。それが一番です。

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「文明の創造に、悪の想念、悪の行為は魂を曇らせ、濁血となるとありますが、痛みの強弱は罪の強弱で御座いましようか」

  そうじやない。浄化の強い弱いです。

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「今度の結核の御本を一般人、医学関係者に読んでもらい、忌憚のない批評を聞いておりますが、こういう質問がございました。あの御本や又他の御神書によって、病気の原因が薬毒であり魂の曇りである、それは体的に言えば血が濁っている、血というのは霊の物質化したものだ。又霊の曇りは不純水素である、それで仮りに浄霊すると不純分が浄化されて、その残渣が体外に出る、それが漿液の中にはいるという事はあるが、その血液と漿液の関係、何故漿液の中にはいるかという事は、外に御説明がないが、どう考えるか、という質問がありました」 

あれは説明の仕方がまだ半分なのです。あんまり細(コマ)かくなってややこしくなるから、あのくらいでよいと思ったのです。血液と漿液は半分々々なのです。それで血液の不純分子が漿液の中にはいると、それは膿になるのです。赤と白がありますが、血液の中の不純分子は赤です。その不純分子がだんだん時がたつに従って変化して膿になるのです。それが漿液の中にはいるのです。ですから血液の不純分子をとると、漿液の中にはいって膿となるべき物をそれで済んでしまうという事になります。あれは書き足りなかったわけです。血膿と言いますが、血と膿が両方混じっているのです。血液と漿液と両方ですが、漿液の方は膿です。血液の方は赤い不純分子で、漿液の方は白いのです。それは共通しているのです。血液の不純分子は白に変化して漿液の中にはいっているのです。そこまで書かなくても、あれでよいと思ったのです。

「漿液と不純分子の関係はどういうようになりましょうか」

漿液は水です。それで漿液と血液は密着しているものです。血液でも水分ですから液体ですから、血液の液体の分だけが漿液になるのです。だから医学の方で白血球が増えるという事を言いますが、あれは血液の不純分子が変化して膿になったのです。膿というのは白いのです。ですからこの間の、子供の白血球が多いという病気はそういうわけです。そうしてそれが又固まりますから、白い物が固まった物が本当の毒素になるわけです。切って膿が出るというものです。ところが固まらないで、白いままで相当濃厚なのがありますが、それは白血球過多症というのです。つまり変化という事を、医学の方ではまだ頭にはいってないのです。だからこう(御浄霊)やっているうちにも僅かずつは不純分子という物は白血球になりつつあるわけです。ちょうど人間の白髪(シラガ)と同じようなもので、年限がたつうちに赤いのが白くなるというわけです。

「そう致しますと、御浄霊によって純粋の物が血液に混入するというのは、御浄霊で浄くなるという説明で宜しいわけでございますか」

それでよいです。私は試した事がありますが、中耳炎のなおりかけで、穴があいて中の方から膿が出て、毎日浄霊しているうちに薄くなって、しまいには水晶の水のようになったのです。いわゆる白血球がとれてしまって、浄い水になるのです。それで白いというのは、赤い不純分子のものでしょう。

「もう一カ所は“空気は水なり”という御言葉がありますが」

水ばかりではないのです。ただ水の方が多いのです。空気は水が主で霊が従なのです。ところが霊気の方は霊が主で水が従になるのです。

「今の白血球のお話の場合に、原爆にやられると白血球が急激に減少して、白血球のバランスがとれなくなるという原子病というものは、膿が固まってそうなるのでございましょうか」

そうではありません。白血球が原爆の熱によって焼かれるのです。赤い血よりも白い血の方が焼けるのです。

「度合が強いのでございますか」

そうです。白いというのは活力がなくなって薄くなって白くなるのです。そこで木なら、生木よりも枯れた木の方が燃えやすいでしょう。それと同じで、白血球の方が年をとっているわけです。それで燃えやすいから、熱によって先に燃えてしまうのです。

「肉食の害が白血球過多症を起すそうですが、肉の影響があるものでございましょうか」

あります。大体肉というものは、食物としては年をとっているのです。言わば野菜の方が若いのです。というのは野菜の方が土から生えるのですから原始的なものです。それで肉というのは動物から作られるから老廃物に近いのです。ですから白い物が増えるというのは理窟に合ってます。ところで肉食は滋養があるという事は逆になるわけです。これは完成した、年をとったものですから、人間が完成すれば年寄になるのと同じです。赤ん坊は若いものですから、植物がそういう事になります。だから植物を食べていると、一時は栄養が少ないようだが、その方が粗雑なだけにまだ活力を持ってます。そこで体のためにはその方が本当に力が強いわけです。それが真理ですから、この理窟さえ分れば何事でも同じ事なのです。未完成のものがだんだん完成になるという理窟が、何にでも現われてます。そうして老廃して、それが亡びてしまって、それから又新しいものが生まれてくる。そうしてだんだん成育して、それが又老廃する。という工合に、循環して行くわけです。ちょうど冬から春が来て、だんだん夏になって、秋から冬になるというのと同じです。だから赤ん坊と言って、出来立ての方が赤いわけです。そうして年をとるに従って白くなって、白髪になると言うわけです。「⇒結核信仰療法」の本で、今言っただけでも大変なものです。

「説明に困り、まことに不勉強でありまして申し訳ありません」

そこまでは説明できないのが当り前です。なにしろ医学の方では、そこまでどころではなく、ずっと手前の方でウロウロしているのですから。

「ただああいう人達は言葉尻をつかまえて参りますので」

それから細かい事だけを言います。病気の原因は根の方にあるのに、葉の先の方の事を言っているのです。黴菌という事を言いますが、医学では徹底してやっているかというと、徹底してないのです。ですから黴菌というのは宙ぶらりんなのです。ですから黴菌というものに全然無関心でいるか、ずっと徹底的に根本までやるか、そのどっちかならよいのですが、宙ぶらりんなのです。だから医学というのは幼稚なものなのです。私は二十年くらい前に“今の医学というものは子供瞞ましだ”とまで言ったものですが、それは誰にも全然分る人はなかったのです。まあ子供瞞ましです。だから心臓の手術に成功したとか、脳の手術がどうとか言って、大変な新発見したと新聞に出てますが、子供が自分で何かオモチャでもこしらえて、出来たと言って嬉しがっているのと同じだと言うのです。普通なら「⇒結核信仰療法」を見れば、医者の方で何か苦情を言わなければならないのです。それが何とも言って来ないのです。それはまあ子供が大人の事を何だ彼んだ言うようなものですから、何にも言えないのでしょう。

「毒素の解消という項目で、毒素は雲のようなものだ、鱗雲なら結構だが、という所がございますが、鱗雲でも何でも雲はみんな悪いのだと解釈しなければならないだろう、とつっ込んで参りました」

それはこういう解釈をしたらよいです。善でも、善ばかりではいけないので、悪も混じらなければならない。又悪でも、悪ばかりという事はないので、善が混じっているのです。雲でも良い働きをするものがある。ですから絶対の善もなければ絶対の悪もないのです。善の中にも悪があるのです。救世教でいろいろな救いをやっているが、医学の方の間違いを徹底すると、医者の方でメシが食えなくなるのが出る、そうすればそれは悪です。だから全体の雲でもそういう事があるのです。前に人殺しという事で、三宅雪嶺の説を読んだ事がありますが、うまい事を言ってます。“殺人という事もなくてはならないというのです。若しそれがなければ、如何に人を苦しめるか分らない。しかし殺人というものがあるために、人を苦しめるという事が或る程度でくいとめられる”という事を書いてましたが、これは真理です。あんまり酷い事をすると、若しかすると彼は自分を殺しやしないかという事があるから、或る程度で弱まるわけです。ですからそういった殺人というのは善の働きもあるわけです。

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“大浄化が迫るにつれて、神様の「裁き」の御働きの方が「救ひ」の御働きより強くなるのでせうか。或は両方共に同じ様に強まる――と考へさせて頂いて宜しいでせうか。

“之は同じ事ですよ。どっちも平均して来るもんですよ。浄化が救ひですからね。病気だとか苦しみだとかいろんな事がありますがね、それが救ひなんですよ。要するに苦しみってのは救はれる事ですよ。一つの浄化作用ですからね。だから、苦しみは早い方がいゝって言ふんです。今、毒が固まってゝ病気にならないと、あとで一ぺんになりますからね。体が救はれないで霊だけ救はれるって事になるんです。――浄化の力が強くなるって事は救ひの力が強くなるって事ですよ。

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“輸血といふものは大体生命が危急の場合使用し、或程度効果がある様に言はれますが、矢張り罪になるものでせうか。

“罪にはなりませんが一時的なもんですよ。何れ治ってから浄化作用を起しますよ。輸血した血は決してその人の血とはまじりませんからね、やがて痔の出血だとか、喀血だとかして排除されますよ。――この御浄霊といふのは霊的輸血ですよ。これが本当の輸血ですよ。血液の霊化したものがこれ(御浄霊)ですからね。だから五分位御浄霊すれば、二百瓦輸血するよりも血が多くなりますよ。出血が多いと霊が稀薄になるんですが、御浄霊で霊を足すと血が出来るんですよ。だから息の絶えたのが、御浄霊で生き返るって事がよくあるんですよ。あの輸血っていふのは管で血をとるんですからね、あんまり文化的ではありませんね。手術だって、悪い所を切ってとる、それだけですからね、外にはなんにもないんですから。手術すれば痛いし、そこに欠陥がどうしたって生じますからね。たゞ文化人は器用でね、細工がうまいんですよ。だから「医学の進歩」といはれるのは「技術の進歩」ですよ。それを本当に「進歩」だと思ってゐる文化人の頭は情ない頭ですね。だからね、御浄霊で病気が治るってのは、実に素晴らしい文化ですよ。で、私は、之は二十一世紀か二十二世紀の文化だって言ふんですよ。それ位先に進んだ文化だから、二十世紀の人間にはあんまり程度が高すぎて迷信だとか邪教だとか言はれるんですよ。あの解剖や手術なんかは残虐なもんですよ。少しでも人間性のある者には見られませんよ。その結果、生体解剖なんかゞ起る様な事になってしまふんです。今、アメリカで一番心配してゐるのはソ聯が細菌爆弾を持ってゐて、それでやられやしないかって事ですがね、あんなの一寸も心配要りませんよ。今にアメリカにもこの道を宣伝する積りですがね。黴菌が入ったってそれが繁殖しない様な体にすりゃあいゝんぢゃないですか。建築なら燃えない様な建築にすればよい。それでいゝんですよ。我々の方ではその不燃性家屋が出来るんですからね。(笑声)この間もアメリカ人が来たんで、伝染病なんか一寸も怖くないって話したんですよ。お望みとあれば細菌を飲んでみせるって言ったんですよ。私は精神で何だからと言はれるんなら、私の家族でも、誰でも飲ませるから何時でも実験して下さい、と言ったんですが、ビックリしてましたよ。

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“流行性感冒が流行してゐる様ですが、之は黴菌によって誘発されるのでせうか。

“黴菌ではありませんね。医者の方では濾過性の黴菌と言ってますが、濾過性とは見えない黴菌といふ事なんですが之は滑稽ですよ。所が先方では神様の御力は見えないといふ。だから同じ事ですよ、どっちも見えないものを信じてゐるんだから。(爆笑)顕微鏡で見える黴菌と雖も生物であるからには食物を喰ってる。その食物は動物の体内の毒血の中の更に小さい黴菌です。――だから、顕微鏡で見えるのは黴菌の中のデカブツですよ。(笑声)で、小さいのは何処までもある。だからそんな小さいのはないと考へてもいゝんです。宇宙でもそうで、無限でせう。同じ事で、大も小も無限です。流感も浄化ですね。世界が余り曇ると掃除が起るんです。殊に戦争のあとは曇りが多いから浄化するんです。曇ると浄化が起る様にちゃんと出来てゐるんです。一つの原則としてそう作られてゐる。丁度人間でも腹に汚物が溜れば糞尿として出るのと同じです。

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“白血球と赤血球との関係に就て御教示を御願ひ申し上げます。

“この白血球、赤血球といふ事は医学で言ふ事ですがね、之は出鱈目です。白血球は膿で赤血球は毒血であり、毒血は浄化によって粕として白いものを分離します。之が白い膿なんです。どうかすると赤い膿が出る事があるでしょ、あれは毒血と膿と両方が混って出る場合です。こういふ訳で白血球は毒血から出た膿なんですが、之はいゝんですよ、毒血の方の浄化は非常に苦しくて、白い膿の浄化は楽ですからね。然しこの白い膿が固まった奴は又苦痛がひどいですがね。

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“注射により死亡する人が大分世間にありますが、之は注射薬の中に所謂毒素があるためでございませうか。

“然しね、薬の中に毒のある訳はないでせう。毒なんかゞ入ってゐれば当局でも許さないでしょうしね。今度の京都のヂフテリヤ事件だって大阪の「日赤」で作ったのだから毒なんかある訳はない。まさか「平沢」なんかはゐないでせうから。――そこなんですよ。大体薬といふものは、私がよく言ふ通り、ないんですよ。若しあるとすれば米が薬です。米がなければ生きられないから。杉田玄白は「薬とは毒を以て毒を制するものである」と言ってますが之は至言です。毒で体を弱らせて浄化を抑へるのが薬の効能です。――最近は霊界の浄化力が強くなって来たので注射液が体の一ケ所へ寄ってくる。そのためにいろいろ障害が起るのです。肝臓出血などはそれです。だから毒血が局部的に集ってくる、と発熱して苦しみが起るのです。浄化の弱い時代は注射薬は体全体に廻りそれから局所へ集ったのだが、今はそれが全身に廻らないうちに一部へ寄ってしまふのです。

“注射直後、体が硬直することもございますが――

“あれは血管等へ注射する場合、その場所が悪いのです。その結果異物が心臓へ行くから死ぬのです。

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「薬毒の事につきまして、昨日或る医師といろいろ話をしました。医者の方も薬毒は分っているのですが、結局最近は高血圧、癌というような症状で死ぬ人の年令が低くなって来たという事は、それだけ血が濁って来たからだ。大体腎臓で濾過してきれいにするべきであるにかかわらず、腎臓が悪くないのに死ぬという事は、腎臓の機能を越えて血を濁らす何物かがある。私はそれが薬毒だと言うのです。それで血の濁りは食物にもある、最近に至って人間の食物が変って来たに違いない。ところが変ってない。ただ薬が変って来たわけです。医学でも薬毒は認めるが、これは一定時間に排泄されるという事を主張しているわけであります。それから話は体質という事になって、お酒も一升飲んでも平気な人もあれば、二、三杯飲んでもフラフラになる者もあり、同じ薬でも強く働くのもあり、大して働かない人がある。それをどう説明するか、と言って来たのです。それも宗教面とすれば、霊の曇りという事になります。霊の曇りという事になると、人間の罪という事になりますが、これは前世の罪もあれば、祖先の罪も、自分が今生で犯して来た、その上に薬というものが働くというように考えて然るべきだ、という気がしたのでございますが」

根本的に違ってます。薬というものは、薬によっては排泄されるものがあるというそれが根本的に誤まりです。全部体外に出ないのです。残っているのです。その代り減るには減ります。それから曇りというのは、祖先の曇りというのは知れたもので、薬毒の方がずっと多いです。薬毒で霊を曇らせるというそれが殆んどです。よくお蔭話で“自分のような罪穢れの多い者は”とありますが、そういう罪穢れは幾らもないので、薬毒の方が十倍も二十倍もあります。

「それで医師が、薬毒の浄化という事は考えられる、しかしそれが人によってやはり働きが違って来る……」

なるほど体質には違いないが、体質がどうして一定でないか、それは何処に原因があるかという事です。

「過去においての薬毒が変化を与えると……」

それでよいのです。それから体質は人間はみんな同じなのです。何故同じかというと、浄霊で治す方法は同じです。そうすると浄霊で効く人と効かない人があるわけですが、そうではない。皆同じように浄霊がきくのです。ただ薬毒の多い少ないによって、長短はありますが、浄霊で治るという現われ方は誰でも同じです。こっちの痛みは浄霊で治らない、こっちの人は治るという事はありません。そうしてみると体質というのは同じなのです。人間の体は、みんな首があって手があって足があるのと同じで、みんな同じです。

「体質の遺伝ですが、弱い体質とか強い体質という事は」

あります。薬の多い者は弱いし、薬が少ないと強いのです。

「ただその薬が、親が飲んだ薬とか言うと医者の方では分らないと言うのです」

そうです。だから今では癩病でさえ遺伝しないという事になっているのです。つまり医学はごく幼稚で、そこまで分らないのです。

「残るという事が論争の頂点になってます」

もう論争はいらないので、事実です。そうすれば、若し薬毒の影響がないとか、薬が良いというものなら、薬を飲まない以前の人間が非常に弱くて、薬を飲んでから非常に強くなったというのなら、薬は良いものです。それから薬が本当に効くものなら、もう病人が無くなっているはずです。先祖代々飲んだのだから……。さもなければ、まだ薬の飲み方が足りないという事なら、病院に入ってウンと飲ませるとよいです。効くものなら……。“あなたはどのくらいやった”“三年飲み続けた”“それでは治っているはずだ”。“あなたは”“三カ月”“それではまだ飲み方が足りない”というわけになり、薬が効くものなら、とうの昔に病人は無くなっています。

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「病気を治すのは正守護神であるとの御教えをいただいておりますが、浄化を発生させるのも正守護神であるか、又浄化の発生は+の罪穢のある者から、九ある者から、という順序で発生するものであるか、又罪穢に関係なく、個々の人間の……」

信仰に入ったのは何時ですか。

「昭和二十四年です」

それでまだ分らないのですか。全然見当違いです。あなたは御神書を読んでますか。

「拝読しております」

病気は薬毒の浄化作用という事を書いてあるでしょう。それでよいのです。

「しかし最近……」

最近も何もない。病気は浄化作用で、掃除をするのだという事で、それでよいのです。

「この前の特別御面会で、病気は浄化作用であり、且つ正守護神が治すのであるという事でございましたが」

手伝うという事はあります。例えば霊的の場合には、その霊を追い出すために正守護神がいろいろやるという事はあります。しかし根本的なものではありません。そういった悪霊が憑るという事は曇りがあるからで、曇りというのは薬毒だから、結局根本は薬毒です。だから総て病気は薬の毒なのです。

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「特に最近は御浄化が強くなりましたが、自分の体は他の人より良いと思っておりましたが、あっちからもこっちからも出てまいりまして驚きます」

そうなのです。疥癬を何べんもやったとか、下痢とかオデキをやって、自分はあらかた毒が無くなったと思いますが、とんでもない事で、それはほんの何分の一というわけで、まだ幾らでもあるのです。ほとんど無限なくらいです。

「数年ならずして浄化が非常に旺盛になります事と思いますが、その時の世の様というのは大変なものと思われます」

それは大変なものです。おまけにアメリカなどは実に薬をのむのです。それでパンなどにもビタミンAとかBというのを入れて売っているのです。それから水は水で晒粉(サラシコ)を入れますが、それを良いと思っているのですからしようがありません。だからこの浄化が起ったら大変なものです。そこでアメリカなどで出来る薬はだんだん毒を強めているのです。

「大阪の伝染病院にて、一月から二月中旬にかけてのジフテリヤの患者は昨年の四倍だそうでございます。それで重症患者になると、カルテを書いている最中に呼吸困難になり大騒ぎをするそうでございます。この重症患者を調べてみますと、ジフテリヤの予防注射をした者ばかりだというので、どうしてかと聞いたところが、従来予防注射は後で副作用があり、京都で沢山死んだ事がありますが結局原因不明になっております。そこで最近アメリカから新しい処方をもらってやったために、副作用はないかわりに、すぐに再発するとか、予防注射をした者が重く、しない者が軽いという事になって、何故だろうという事になっておりますそうでございます」

それはあべこべの考えですから分らないわけです。副作用が起ったという事は浄化が起ったのです。それは幾らか出やすくしてあったのです。それが起らなくなったという事は、一層固まる様にしたので、それは毒が強いからです。ですからその浄化が起ったら忽ち駄目になるというわけです。つまり毒を強めただけです。本当の事は何でもなく分るのですが、逆の頭だから分らないのです。

「まるでこちらの代弁をしている様な事が随分出ております」

そうです。それでそれをごまかすために、ヤレ心臓の手術が成功したとかデカデカと書いてますが、それは邪神が医学を信じさせ様というために出しているのです。この前も子供の白血病をなおすために輸血をしましたが、それはやり損(ソコナ)って死にました。

「その輸血料が十万円だそうでございます」

勿体ない話です。しかし実に馬鹿ばかり揃ってしまったので、神様のお手数ばかりかけてます。

「今は平気で笑って居れます私共も、最初は笑われる方にはいっておりましたのでございますから」

そうです。それで何でも怖がって、黴菌というと、兄弟でも口をきかなかったくらいです。

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それから、五六七の世に就いて、「文明の創造」の天国篇を書始めたですが、天国篇の最初の――大体基礎的の意味ですね。そう言う事を書いたんですが、今読ませます。

(御論文「⇒天国篇」)  【註  栄光  第一三七号】

之から、色々――経済、教育、芸術、社会機構ですね。そう言うものも、私が書いていく積りです。人類世界と言うのは、こうなるべきものだ。こうすべきものだ。こうすれば、戦争とか病気とか貧乏とか言う――色んなそう言う苦しい事はなくなると言う説明書ですね。で、之を、出来上つたら、英文に訳して世界中の主な識者ですね。そう言う方面に読ませるんです。要するに、新しい文明ですね。新しい文明の教育ですね。それをして、そうして成る程こう言うやり方は本当だと言う――昔から――西洋の学者の言う――つまりユートピヤ的な理想や、色々書いたのがあるにはある様ですが、つまり徹底しなかつたものを――今後は、はつきりと、こうだ。と言う様に書いていくんですね。私はあんまり見ないけれども、そう言う風に思われるんです。そうして、つまり、やる事が――設計書と言うのが、之が天国の福音なんです。聖書にある「天国の福音を普く述べ伝えらるべし」と言うのは、之なんですね。「然る後末期到る」と言うんですね。そうして、浄化力が強くなる。浄化力が強くなつて、一番現われるのは病気ですね。人類が、病気が起つて、どんどん死んじやうんです。そうすると、医学で治そうとして、一寸触ると、ころつと死んじやうと言うんです。注射したら、即座に死ぬ。つまり浄化力が強いから、固まつている時間がないから、医学じや駄目です。で、メシヤ教が言つたあれに違いないと言うので、わーつと来て、頭を下げるんです。そう単純に――直ぐにはいかないですが、結局そこにいくんです。そうして五六七の世が出来るんです。今読んだのは、世の中の――世界の組織ですね。その根本ですね――そう言うものを書いたんですがね。「文明の創造」と言う本は、天国の福音と――その「天国の福音を普く述べ伝えらるべし」と言つた処で、之は世界人類に知らせなければならない。それを信じないで亡びるのは、自業自得なんですからね。神様の方は、ちやんとやる丈の事はやつて、世界中に沢山、掴まる様に綱を出している。掴まらないのは、掴まらない者が悪いんだから、亡びるよりしようがないですね。そう言う根本は、意味があるんです。段々メシヤ教の動きと、世界的に浄化が段々強くなると言う事や何かも、それから色んな事がありますけれども、結局段々そこにいくと、大体解る訳ですね。

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天照皇大御神

天照皇大御神を無視しているのである。天照皇大御神様を無視する事は我皇室を恐れ乍ら無視していると言われても致し方ない訳である。

町内の会合は産土神社で行えば良い。如何にしても今後此通りになるのであるからそれをやれば良いのだ。産土神社の前で協議すれば利権や賄賂の問題なぞは起きない。今の諸々の会合は殆んど料理屋や待合で芸者上げて巫山戯(フザケ)ながら行っている。此の様なことで何が立派なことが出来様か。そんな事で気の入った政治或は会議は絶対に出来ない。

それのみならず余分の金がかゝる。其金とても稼がねばならん。役所の会議ならば此の費用は細民の汗を滴して出来る金を無理矢理に取り上げた様な金も混っているのである。此の様な濁った処ですれば濁った想念になるから正しい結論は得べくもない筈である。上流濁れば下流濁るのは当りまえである。反対に下流濁る事ある共其の上流に及ぼす事はないのである。誠に上流にある者は心すべきである。

上流社会が悪いから教育家等も悪くなる。そんな教育家が正成や清麿や二宮金次郎のお話をしたとて駄目なのは当り前である。先生の心正しければ生徒が心正しく真似るものである。先生の心悪しければ生徒も又之に似るのは当り前である。

現在この西洋式学校で西洋式学問を詰込んでも駄目だ。何故駄目か。目に見える物より外教え無い。(空気以外)神様さえも無い事に心に定めておるからである。神様を拝んだことさえない教員が伊勢神宮、明治神宮等には児童を参拝につれて行くのさえ彼等には矛盾している事である。

天皇機関説も確かに悪い事であるが三十年間打っちゃっているんだから寧ろ政府初め学者政治家の方が不思議な事である。今頃になって人から騒ぎ出されて致し方なしにやっているのである。全部取消す必要はない。悪いところを除ればよいのだ。

次の問題は何か。それは日本の国家は外国とは違うということである。外国とは何処が違うか。天皇陛下は外国の皇帝と違うということである。外国の皇帝は力でなったものである。我日本の天皇は万世一系で天照皇大神の御霊統である事となるならば日本の天皇陛下の古代に遡(サカノボ)って行くと神様ということになる。

神様がなければ外国と同じになるが日本は天照皇大神様の御系統である。神を認めなければ日本の国は成立しないのである。一有って二つとない日本の天皇である。現在まで厳然と生通しである神様である。主神様が絶対に有ると認めなければ此説は成立しない。

日本の学問は全部改革しなければ駄目である。日本の神様が有る事を絶対に認めねば日本の学問は駄目である。日本の学校も新たにしなければ駄目だ。西洋学校其のまゝでは駄目だ。此の点をハッキリせねば日本の医学は判らんのだ。

観音力と言っても、そんなものは有るかと言って終えば判らんのである。活気凛々として日本の神様は昔より今も尚生きておられる事が判らねばならんのだ。病気の根本はこれでなければ駄目である。

今後は神を主として仕事は従でなければ駄目である。霊が従などは間違いだ。本末顛倒も甚だしい。西洋医学は体主霊零だから絶対病気は治らんのである事が明かに判るのである。

病気の初めは霊に曇りが寄って来る。此の曇りが出来る為に血が濁る。此の血は霊の物質化したものである。人が死ぬと血が非常に減ってしまうのだが、医学は血は凝結して終うのだと言っているが、只単に凝結するが為にあれ程減少するのでは決してない。血の中から何か減るから凝結して少し、ホンの少しばかりになってしまうのである。此の沢山ある、此の血液を多量にしているのは霊が物質化しているからなのである。死亡すると此の霊が抜け出すから自然何時とはなしに減少して来るのである。

此の濁った血が益々多くなり、それが浄化作用を起すと浄化された粕が白い物になる。この白い粕は白色原素となり、濁った血のところから放出されているのである。人体には漿液があるが、この漿液の中へ白色原素が溜るとそれが膿となる。水膿とはこの淡いものであります。それが段々膿液となるのである。この膿液が段々濃くなり、多くなるに従い病気が発生するのである。

故に霊体の曇りが病気の原因であり肉体へ出たのは結果なのである。支配階級の人が原因を出しておきながら下級の赤化を直そうとしても是は絶対に直らんのも此の病気と同様の意味である。

一例を申せば、二ケ月もかゝって瘍(ヨウ)を手術した。瘍は癒ったが霊の曇りが除れんから又隣へ出る。又一ケ月もかゝって切って癒ったが又出来た。医者には千円も支払ったのである。処が又出来た。今度は私が一週間で金八円で癒したのである。

この様な事で医者は霊の曇りが何で出来るかと言う根本を研究せずに、只結果である瘍を切るから何回でも其の又隣りへ出来る訳であって、医者は細胞に曇りが出来た事が原因だと思いレントゲンを掛けたりするが、霊を知らないものには判らんのが当然であります。

膿の極く濃いものは癌であります。組織を破壊されてしまう病気である。水膿の濃くなるのが結核であるが、其の又濃いのが出ると細胞の組織を破壊されるのである。是が即ち癌である。

膿も黄色から白くなり、透明な水の如き漿液となるのである。是は霊気で浄化されるからである。横痃(梅毒の股へ出たもの)は黄色い水が出る。二週間位で癒ったが、医者にやらせると汚いどろどろの赤貝の如きものが出るが、霊的にやれば溶けて水となるのである。

曇りは何うして出るかと言うと、霊体の弱いところへ出るのであるが、その原因は祖先のと自己の罪穢であって、何故曇りが弱いところへ出るかと言うと、同じ頭を使うにしても善に使うとか悪に使うとかで差が出来るのである。悪に使えば頭が弱くなる。又善に使えば強くなるのである。発明家は強くなる。

肺病は肺が弱いのであるが、それは何うかと言えば肺は空気を吸い、心臓は霊気を吸っているのである。太陽熱を吸っているのである。肺病は熱が出て来る。

キリスト教では一人の神と言うが本当である。

天照大神の外は神が無いから「命」の字を書くのが本当である。
尊は上の神で真の神であるから、命は臣であり現界は民である。

何故肺臓が弱るかと言うと愛が不足しているからである。肺は水なり。水は火によりて動くのだ。肺は心臓の熱によりて動くのである。心臓の熱の少いのは愛が少いのであるから愛の行いをすればよいのである。総てを愛するのである。其の根本として観音様を拝む様にするのである。観音様を拝むと前には人が笑っておれば癪にさわるといって怒っていたのがお祭りしてから反って嬉しくなり楽しくなったというのである。是は実例なのである。

心臓の悪い人は理性に乏しいのであります。心臓の火の燃えている原因は水分が沢山あるから、続いて燃えているのであって水が沢山ある中はよいが水が足らんと理性に乏しいことになるのである。パーッと燃えるだけだからである。観音様は火と水との働きであるから両方を程よく下さるのである。

胃の悪いのは物質を粗末にするのが原因である。贅沢を言う人の胃の悪いのは此の原因である。何んでも不味い物でも食べる人は胃は丈夫だ。総て感謝がなければいけないのである。常に感謝の生活をして居れば胃に罪は起らんから常に胃は丈夫で病気は起らんのである。心すべき事である。

腹は地下に相応するのである。腹は地熱であるから、胃の物が腹へ下って清算される事となるので、胃へはいったものは総て腹へ下って行って清算される事となるので、丁度土も下へ穢い物を濾して水を下へ下して地下水となり、又汲み出されては使用されて、この様に、腹は悪い物は濾して粕は糞として下へ出し、水分は小便にして腎臓へ送る。又良いものは肝臓へ送るのである。肝臓とはこの意味からきたものである。この様にして是へ肉をつけ皮をつけるのである。

肺が悪いと寝汗をかくのが普通である。

心は火なり。心の字は八に﹅﹅を横に打ってあるが、八に跨がせれば火となるのである。

心臓は肺に囲まれているのである。

子供は何かと言うと親の世話になっている内は連絡している。此の親の罪が移るのである。子供の病気は何かと言うと子が親の罪を移されるのであります。親に必要な事があっても罪があって病気になる様な時、其の親を使わねばならぬ用事が出来ている為親の罪を子に負わせているのであります。親に用事がある時は其の子に移すのであるが、子の死ぬ場合があるが、是は親の代りになって行くのであります。

人体全体の曇りは何処から来るかと言うと祖先から来るのである。祖先と現在の人間との間は霊線で繋っているのである。

医学では遺伝といっているが、この遺伝も事実遺伝せぬ時もあるのであるから、遺伝学説も絶対とはならなかったが、然しこの事は絶対なものであるが、其の間に偉い人が出て徳を積むと其の徳により其の罪が除かれるから切れて終って遺伝せぬ事になるのである。この遺伝は絶えず霊界から流れて来るのである。祖先は霊界に於て審判されて浄化されるから其の審判され洗われた罪が現界人へ流れて来るのである。

祖先等が霊界から飛出して来て憑るのは生前無信仰の為霊界へ行っても所属すべき団体がないので行く処がないので致し方なく出て来て自分の子供へ憑くので病気になる。

祖先の罪穢は脊髄を中心にして来る。祖先-頭-脊髄-尾-子孫。我々は現在子孫だから尾である。男も女も皆子孫であるから此より来ているのである。この脊髄へ流れて来た罪穢は下へ降って方々へ行く。頭、目、鼻、心臓、腎臓と何処へでも行くのである。脊髄は万病の源である。

万病は自然に癒るが、それにつき痛み、熱、痰、毒血を吐く。腫物、下痢、毒血の下るのは赤痢であるから毒血が出て終えば一日位で癒る。罪穢は脊髄の三分の一位の所と尻へ出て来るのが普通である。

病気は霊の曇りから出ると前にも話したが、この曇りが毒血となるのである。是が或程度となると、解消運動が自然に人体内に於て起るのである。この解消運動が始まると、自然に浄化された粕は排出されて癒るのである。霊界に曇りの溜った時は大雷、颱風、大暴風雨となり解消するのである。此の天地の諸々の現象なき時は世界人民の間に何の様な病気が起るかも判らんのである。

神様は御慈悲の為に天地の自然現象の様にしてこの曇り穢れたる世の中の御清潔をなされ、病気の根源を掃除して下さるのである。人間に曇りが出来ると颱風や大暴風雨が体内に起りて是の解消運動が始まるのである。

曇りの濃くなったものを溶かす為に心臓が太陽熱を吸収して曇りへ送ります。曇りへ太陽熱が送られるから熱が出る。それにより腫物になって毒が出るのである。この毒の体外へ腫れ出た時充分膿ませるのである。充分膿むと図の様に外部へ突出して来る。そして自然に吹き切って膿が出て癒るのである。

この状態になった時ならば、切っても良いのであるが、充分膿んだ時切れば、全部毒が出て終うから忽ち全快するが、医者に切って貰うにも充分毒が出て来て突出た時ならば全快するのであるが、医者は直ちに切開するため、未だ奥の方に沢山膿があるのを外部だけ切り取るから、又其の隣へ毒が出て又腫物が出来るのである。又切れば又出来る。何回でも繰返すのである。充分出た時切れば一回で治るのである。観音力で治せば浄化するから痛まず癒り、膿が淡くなるから早くなるのである。

子供の疫痢も最初は胎毒(水膿)が胃へ来るのであって其の為に吐いたり熱が出るのである。それを医者は吐いたり熱が出て自然治癒工作をしているのを止めるから自然治癒の妨害をするのである。

西洋医学は治癒の妨害であるから治らんのである。氷で冷すのは最も悪いので、治すには熱が必要であるのを反対に冷すから熱の活動を止めて終う為癒らんのである。反って悪くなるのは当然である。熱が出て毒を道筋方面へ送らうとするのを冷すから道筋方面へ行けず是が肺の辺りへ寄るから肺気腫なぞになるのである。腫物の出来て腫れるのは活力があるからよいのであります。

活力がなければ腫れ出る事が出来んから膿を取る事が出来ぬ。是を永く続けて居れば死ぬより外に仕方がなくなるのは当然なのだ。腫れ物を捨てゝ置けば腫れて膿が出て終うのを医者のある国に生れ医者を保護する法律のある国に生れたのが不幸なのであります。

薬は皆逆作用を来すのである。便秘、胃病等はこれである。葡萄糖注射も悪い。便秘は下剤を飲むから反って便秘を起す事になるのである。カルシューム注射も悪い。是は水分の少い人又は体に熱のある人等が便秘する。是等は水分を多く採ればよい。それでない人は熱をとれば便秘は癒るのである。下剤をかけると薬により下るから大便を出す機関が退化して働かなくなるから益々便秘する様になるのである。薬を飲んで治そうと飲めば飲む程便秘するのである。

胃が悪いから薬を飲む。飲むから働かぬ様になる。働かぬから又飲む。鼬ごっことなり胃病となり、胃癌となり、喰えなくなるからブドー糖注射をやる。それにより又働かなくなる。此の内に死ぬより仕方なくなるので誠に気の毒な事である。

カルシューム注射をすると一時肥るが、其の内に痩せて来て駄目になるのである。蕁麻疹はカルシューム注射の中毒である。出来物に薬を塗るとおできが治らぬ様に薬で止めるから全治しない。一時治ったと思い、又治った様に見えるのは引込んだのであるから又其の内に出て来るのである。薬を飲むと胃に入り腹に入り心臓に入る。食物は良いが薬は心臓に入ると血液が濁る。血液が濁れば体が弱るのである。注射液は直接心臓に入りて血に混じるから一層悪いのである。

人間の体は常に浄化作用をしているから其の粕が肩や首に寄るのが多いのである。是は罪穢の病源とは違うのである。肩が凝り、脳溢血を起し易いが先祖の罪穢よりは軽いのである。尚又毒が下へ降って行くものもある。脊椎や腰へ注射して足へ下りて来て踝(クルブシ)や関節へ固るのは是で、これは仲々治らんものである。

注射も絶対的のものでないから絶えず研究して作るから益々色々の病気が起る事になる。的確に治るものもあるが、大抵二三日位で起る。今度は前より一層悪くなって起って来るから反って悪いのだ。之は一時的に止めるのであるから注射は反って悪い。最も恐ろしいのは赤坊に注射をする事である。赤坊に注射をすると発育が止るから実に困るのである。人間は絶対に薬を入れてはならん。

病気したならば直に観音力で治療する事である。観音力は百パーセント癒るからである。

黴菌は人間の血液浄化作用に神様が作ったのである。何も彼も必要だから神様が作られるのだ。黴菌や虫はあまり人から恐れられ怨まれて気の毒なものである。多く黴菌の為に人間が健康に導かれたり美味い酒や味噌醤油等まで皆この恩恵に与っているのである。

(昭和十年九月十五日)