霊界の構成は、天国、中有、地獄の三階段が三分されて九段階となっており、一段は又二十に分れ、一段階二三ンが六十段となり、三六十八即ち総計百八十段となる。私は名づけて霊層界という。その上宇宙の主宰者たる主神が坐すのである。主神の主の字は一二三本の横線を縦の棒一本を通し、上にヽが載っている事は面白いと思う。そうしてこの霊層に対し、人間は如何なる関係があるかを順次説いてみよう。
霊界というものを一層詳しくかいてみるが、霊界は現界よりも厳正公平な階級制度になっている。そもそも霊界は百八十段階の層になっており、これがまた上中下六十段ずつに分けられている。勿論下段は地獄界、中段は中有界、上段は天国界となっており、右の六十段が又上中下二十段宛に分れており、その又二十段中でも上中下があるのである。という訳で単に地獄といっても、下段に行く程最も苦悩が甚だしくなるのは勿論で、最低地獄に至っては難病、飢餓、闘争等が極度になっている世界である。これを神道では根底の国といい、仏教では暗黒無明、極寒地獄といい、ダンテは煉獄と曰っている。しかしこれが漸次上段に昇るに従い段々緩和され、中有界に至って初めて普通の社会状態になる。つまりこの処は苦も中位、楽も中位というその名称通りである。ところがそこを上方に突破するや、茲に天国界に入るのであって、この処こそ仏語にある極楽浄土であるから、病なく貧なく、飲食豊かに和気藹々とした幸福に充ちた世界である。右の如くであって、一般人の大部分は中有界に籍が置かれているのである。処が其処は決して安心は出来ない、というのはその人の心と行い次第で上にも下にも行けるからである。だが多くは下に落ちるので現界もその通りである。
そうして人間と霊の関係を詳しく説明してみるが、人間の肉体そのままの形体である精霊があり、その中心に心があり、心の中心に魂があるという具合に、大中小の三段否三重となっているが、その魂こそ神から与えられたるもので、これが良心そのものである。また人間は肉体と霊体とが密着したものであるが、その霊体なるものは、実は一個体ではなく、今一つの或物との繋がりがあるので、その或物を名付けて幽体という。幽体とは、霊の霊であるともいえるので、霊体が肉体を、支配する如く幽体は霊体を支配しているのである。この意味に於て、人間の生命の真の根源は、幽体そのものであるといってもいいのである。そうして幽体とは、霊界の生活者であるから、人間死するや、霊体は直ちに幽体に引かれて幽体と密着する事になる。それは生前、霊体と肉体と密着していたのと同様の意味である。又幽体は、霊界に於ける百八十段層の何れかの層に属している事は勿論である。然し乍ら、幽体の居点は常に一定する事なく、その層の段階を常に上下しているが、普通時は或範囲内に限られているのである。稀には、その範囲外へ出づる事がある。それが肉体的に表はれる場合、運命の急転となるのである。人間の運命即ち幸不幸は、幽体の居点である霊層の階級によるので、それは実に決定的である。
そうして霊界に於ても主宰神があり、八百万の神が分担管掌していて、幽体に対し、断えずそれぞれの命令が下るのである。したがって、その受命者の任務遂行が霊体に反映し、肉体に反映し、肉体がその如く動くのである。如何なる人間と雖も、自己が計画し企図する事が、常に実際に於て意の如くならない事の多いのは誰もが経験する所であらう。したがって予想外な運命や、意外な結果に逢着するという事は、実は現世の人間の予想や思念は、幽体の運命に左右されなければならない法則であるからである。又自分自身に対し、眼に見えない或大きな力が常に支配しつつあるやうな感想が大抵の人は有るものである。この支配者とは即ち幽界に於ける支配者即ち神であって、この神の意に反する場合何程努力すると雖も、努力すればする程逆効果になるものであるから、人間は常に自己の考えが神意に合致するや否やを深く省察しなければならない。然し乍らこの場合私欲邪念があるとすれば、それは神意の伝達を妨害する事になるから、一時は良いように見えても、終には必ず失敗するものである。この理によって何等かの計画を立てる場合、よくよく自己を省み、その目的が善であるか、社会人類に役立つべきものなるや否やを深く検討しなければならない。茲で面白い事は、邪念の為神意に添はず為に失敗苦境に陥る場合、その苦難によって、邪念の原因である罪穢が滅減する事になるから、其為魂が磨かれる結果となり、今度は神意と合致するようになり、成功する事になる。世間よく一度失敗し其後成功する例がよくある事や、特に失敗の度数の多い程大成功者となる例があるが、右の理に由るのである。
そうして霊層界に在る幽魂はそれ自体の階級によって、使命も運命も差別がある。即ち上位の階級に在る幽魂ほど、神命も大きく高級で然も幸運であり、下位に降る程漸次右と反対で薄幸となり、最下段は最も不幸者となるのである。何となれば上位は天国に相応し、病なく争なく物資饒(ユタ)かに歓喜の世界であるに反し、下位に降る程それと反対に病気、争闘、貧窮に充ちたる苦悩の世界であるからである。この意味に於て人間が真の幸福者たらんとするには、先づ霊層界に於ける幽魂をして向上せしめなくてはならない。右の理によって、現世に於ける幸不幸は、幽体の住する界層の階級によって定まるものである。したがって、人間が人為的に如何に幸福を求め、実現しようと努力しても意の如くならないのは、右の理に由るからである。然し、現世に於て斯ういう例もある。それは富裕者であり乍ら足るを知らず、吝嗇(ケチの意)なる事貧困者と異ならない人があるが、之等は人為的に苦心努力の結果、一時的富裕者となったまでで実は幽体は下層にあるから、斯様な人が死後霊界に往くや、幽体相応の貧困者となるので大いに後悔するものである。故に、幸福者たらんとするには、幽体を上層に住する事より外に道はないのである。世間よく家相方位などに関心を持つ者があるが、霊層界の上位に在る者は、移転や建築等をなす場合、自然良方位、良家相に移住する事になり、反対に霊層界の下位にある者は如何に努力すると雖も、悪方位悪家相に移住する事になるのである。又結婚の場合、良縁も悪縁も右と同様の理によるのであって、之は霊体一致の原則による以上、この絶対力は如何なる人間と雖も抗する事は不可能である。以上現界と霊界との関係をザットかいたのであるが、いつもいう如く万有の法則は霊主体従で、人間と雖もそうである以上、霊界に於ける霊の地位如何によって幸不幸が決まるのである。だから人間は霊身が下段にある間は、どんなに智慧を振い、骨を折っても駄目である。というのは之が神の天則であって霊主体従の法則も厳として冒す事が出来ないからである。これが真理であるから、この事を知ってよく守りさえすれば、幸福者になるのも敢て難しい事ではない。という訳で現在如何に幸福と自分も思い、人に思われても霊界に於て天国に籍がなければ、その幸福は一時的で早晩在籍通りの地位に転落すると同様、現在如何に不幸であっても、其人が正しい信仰によって徳を施し、人を救うというように善事を行えば相応の地位に向上し、幸福者となるのである。
そうしてこの根本原因であるが、それは霊が下段に堕ちるのは霊に曇りが溜り、霊が重くなるからである。従って曇りが減る程軽くなり上昇するから、それに伴って幸福も増すのである。つまり人間の幸不幸は霊の曇りの多少によるのであるから、この原理を知っただけで、その人は最早幸福者の仲間に入った事になるのである。これこそ霊界に於ける千古不滅の鉄則であるから信ずる外はない。では曇りとは何かというと、昔から宗教では罪穢としているが、これは言うまでもなく自己愛による不正、虚偽の手段を以て人を苦しめ世を毒するという悪の行為によって発生し堆積するものであるが、それは表面だけの事であって、その奥の深い処に大きな原因があるのでこれが曇りの本元である。それは何かというと、これこそ世人が最も結構なものとして、昔から現在迄も旺んに使用している彼の薬剤である。といったら何人も仰天するであろうが、私は神示によって知り得たのであるから、絶対信じて貰いたい。即ち薬を体内に入れればその毒によって血液が濁る。血液が濁れば霊体一致の法則によって霊が曇るのである。故に薬程恐るべきものはないのである。つまり薬で霊を曇らし、重くなって、霊界に於ける地位が段々下降し地獄界に堕ちる。そこで相応の理によって醜悪な行いをする人間が増える結果、病貧争氾濫の苦の娑婆となったのである。以上の如く人間を不幸にする根本こそ薬剤であるとしたら、平和幸福の世界たらしむるには、何よりも先ず世の中から薬剤を廃止する事で、茲に根本を開示して警告するのである。
人間が現世に生れるという事は神の命によるのである。人間は神の命によって、運命は疎(オロ)か生死までも決定するのであるから、人間の生命の命の字は命令の命の字である。故に死とは神よりの命令解除である。それは世の中に害毒を与えたり生存の価値なき為であるから、人間は命令を解除されぬよう神に愛され社会有用なる人間にならなければ、長寿と幸福は得られる筈がないのである。誰しも思う事は、人間は何が故に生れたかという事である。斯事を真に把握せざる限り正しい行動も安心立命も得られないのみか、空虚な酔生夢死的人生に畢(オワ)る惧れがある。然らば神の意図とは何ぞやといえば、この地上をして理想世界、言ひ換えれば地上天国を建設する事である。とはいえどそれは恐らく、その規模に於て、其構想に於て、壮麗雄大なる言語に絶するものがあらう事は想像に難からない。何となれば無限に進歩しつつある文化は、極る処がないからである。この意味に於て現在までの世界歴史は、基礎的工作に過ぎなかったのである。そうして神は一人一人それぞれの使命を与え、特長を持たせ、生き更り死に替り、理想目的に向って前進せしめつつあるのである。したがって善も悪も、戦争も平和も、破壊も創造も進化に必要なる一過程に過ぎない事を知るのである。そうして今は私の唱える夜昼転換期のそれであり、全世界は今正に新時代に向って一大飛躍せんとしつつあり、今人類は野蛮の衣をカナグリ捨て、高度の文化人たる域に達せんとしつつある事である。茲にはじめて戦争も病気も貧乏も終焉を告げるのである。勿論本医術の出現はその為の先駆であり、核心的のものである。
本教浄霊は病気を治すのが目的のようになっているが、本当からいうとそれだけではないので、もっと大きな意味がある、一言にしていえば浄霊とは幸福を生む方法である。というのは単に病気といっても勿論浄化であり、其因は霊の曇りの解消作用であるのは、今更言う迄もないが、そればかりではなく、人間一切の苦悩の無くなる作用である。従って貧乏も争いも浄化の表われで、私の曰う病貧争悉くがそれである。処が一切の浄化作用の中で最も重要なのが病気であって、之は生命に関するものであるからで従って病気さえ解決出来れば、貧乏も争いも自然に解決されるのは当然である。勿論そうなる事が幸福の根本であるから、不幸の原因は全く霊の曇りであるのは、余りにも明かである。それを簡単にして確実な方法こそ、霊の曇りの解消法としての浄霊であるから、浄霊は独(ヒト)り病気のみではない事である。故に幸福になるにはどうしても霊を浄めて軽くし、少しでも上位になるよう心掛くべきで、それ以外に方法は絶対にないので、茲に浄霊の大いなる意義があるのである。
私が永い間、本医術によって患者が治癒した場合、健康恢復のみではなく、性格も一変する事である。それは争を厭ひ、親和的となり、楽天的となるのである。特に講習を受け病気とそれに関する霊的事象を知るに及んで人生観が一変すると共に、不思議な現象が起り始めるのである。それは健康のみではなく必要な物資も恵まれ豊かになる事であって、而も、人為的では更になく、惟神的に思はざる所から、奇蹟的に入手するのである。斯事は受講後の誰もがいうのであるから、誤りはないのである。又、今迄不和であった人と親和し、今迄よりも人から尊敬を受け引立てられたり、希望が実現したり、仕事の能率が上り、試験にパスする等幸福的の事象が非常に多くなるという話をよく聞くのである。右は、如何なる訳かというと、病患の治癒者、特に受講せし者は、人間の健康や生命の真実を知るに及んで、盲目であった霊魂が、飜然と覚醒するのである。彼の釈尊が曰った等覚を得て仏となり、正覚を得て菩薩となり大覚を得て如来となるという意味と同一であらう。したがって、受講者は等覚を得るのであるから即心即仏となり、霊的地位が向上する訳で一躍霊層界の上級に転位する事になるので、右の如き事象に恵まるる事となるのである。
霊層界(天国の福音 昭和二十二年二月五日)
霊層界(自観叢書三 昭和二十四年八月二十五日)
霊層界と人間(明日の医術 第三篇 昭和十八年十月二十三日)
薬が不幸を作る(地上天国四十四号 昭和二十八年一月二十五日)
浄霊と幸福(地上天国三十四号 昭和二十七年三月二十五日)
幸運の秘訣(栄光二百四十六号 昭和二十九年二月三日)
御講話
御論文〔⇒幸運の秘訣〕【註 栄光二四六号】を発表された後での御講話
まだ少し書き足りないところがあるのです。今のは経だけを書いたのですが、緯の段階が肝腎なのです。その緯の段階の、つまり上から下まで何階にもなっている、其処がそのまま写るのですから、始終うまくゆかない、苦しみや災難があるという事は、そういう段階に霊が居るわけなのです。だから幾ら人間が工夫をしてうまくやろうと思って一生懸命にやっても、そうはゆかないのです。漸く金を溜めたと思ってヤレヤレと思っていると、どうしても出さなければならない事が次から次へと起こって来るのです。病気については、信者には問題にならないが、世間一般の人は大抵、やっと貯蓄ができてまず金の心配はないという事になると、必ず病気の心配が起こるのです。そうしてヤレ入院だ、手術だ、と言って、おそらく溜めた金は残らずふいになって、それでも足りないで借金するというような事は随分多いです。というのは、つまり霊層界の地位が地獄に居るから、どうしても地獄のとおりに写って来るわけです。
だからいろんな、方位が良いとか、或いは十二支で、午(ウマ)の年の午の月とか、未(ヒツジ)の月とか、そういう事を気にしたり、方位方角をやっても、決してうまくいった事はないです。むしろそういう事を始終気にしている人の方が運が悪いくらいなものです。その運が悪いというのは、そこに訳があるのです。そういう事を気にかける人は霊が弱いのです。つまり霊の力が弱いからして、あらゆるものに怯(オビ)えるのです。それで霊の強い弱いという事は、肉体の健康の強い弱いのと同じ事なのです。だから非常に臆病(オクビヨウ)な人や、物に怯えるような人は霊が弱いのです。つまりどうせ悪い事をする人は悪の方ですから、それに負けるわけです。そういうようなわけで、自分の魂を霊層界の高い所におくようにすれば、又其処は良い事ばかりが来る世界です。人間という奴は、悪い事というものは重なって来るものなのです。私なども随分経験がありますが、何か災難とか苦しみが来る時は必ず健康が悪いです。これは誰に聞いてみても大抵そうです。やっぱり健康で居る時には運勢という事も良いわけです。
だから信仰に入って浄霊を受けさえすれば、みんな運が良くなります。間(マ)が良くなります。よくお蔭話にありますが、随分金に苦しんだのが、入信してから急に思いもしない金が入って来たり、楽になるという事は、つまり霊層界が上るからです。それで、それは神様の光をいただきますから、そこで霊が浄まるから、そこで今読んだように霊が軽くなるから上に上るのです。其処は貧乏や金に苦しむ所がない世界ですから、そこのところは甚だ微妙な問題でいて、一番確実な方法です。これさえ守り、これさえ信じて居れば、運の悪くなる気づかいはないです。ただ一時は、霊の曇りを取られるために一時的苦しみはありますが、それは決して長いものではないので、それさえ済めば必ず良くなるのです。信仰の妙諦(ミヨウテイ)というものはそこにあるのです。
ところが今までの宗教はそういう事は説かなかったのです。という事は、光がなかったのです。あっても月の光で薄いから、そう著しく曇りを減らす事はできないのです。だからして運勢も、良い事があるが悪い事もあるというわけで、年中苦労しているのです。それで、月の神様という事を言いますが、月の光というものは薄いのですが、それ以外に、月というものは暗(ヤミ)という事があるのです。そこで月の光だけをいただいて、まず運が良くても、必ず暗があるから、その時にやられてしまうわけです。だから今までの世界では本当に運が良くなり、永遠に栄えるという事は絶対にできなかったわけです。それは歴史を見ても分るとおり、無論天下が長く続かず、それから又何代もうまくゆくという家は無かったです。そこでどうしても太陽の光でなければ駄目なのです。太陽の光は毎日必ず出るのですから、太陽に暗はないのだから、悪い事が幾日も続くという事はないのです。そういうようなわけで、どうしても太陽の光でなかったならば本当の幸福は得られないわけです。一時的しか得られないわけです。それから運ばかりでなく、凡てがそうです。だから今までの事はみんな一時的で、続かないのです。丁度病気を薬や医者でやると一時は良くなりますが、必ず元通り再発するわけです。何もかにもそうなっているわけです。つまり永遠性がなかったわけです。運の話はそのくらいにしておきます。
御論文〔⇒薬が不幸を作る〕【註 地上天国四十四号】を発表された後での御講話
今読んだ様にあらゆる不幸とか悩みというものの原因は薬なのです。ですから薬というものを無くすればミロクの世が出来るのです。だから薬を無くす事は、つまり一般人が本当の事を分らなければならないのですが、これが大変なのです。こういう様な本を読ませるべくだんだん世界的に運動するわけですが、その結果若し分って来たら、分るに従って大問題になるだろうと思います。これはおそらく見物(ミモノ)だと思います。仮に日本としても、“なるほど医学はとんでもない代物だ。これは絶対禁止しなければならない。薬というものは大変な毒だから、これも無くさなければならない”という事になると、それに関係した人は失業しなければならない。そうかと言って分った以上はそれを擁護する事はできない。ではどうすればいいかという事になる。つまり岡田の説を用いなければならないという事になる。それでおまけにこれからだんだん浄化が強くなるに従って一般人に浄化が起ってきて、それはあっちもこっちも病人だらけで、片っぱしから人が死ぬという時代になったら、それもなんとかしなければならないというので、ここで政府が非常な問題にぶつかると思います。
そればかりでなく、今年からだんだんアメリカの方にもそういう宣伝をしますが、しかしその点はアメリカ人の方が分りが早いですから、アメリカの方でも大問題になるだろうと思います。そうするとヨーロッパの方にも響いて行くという事になります。ですから将来は世界的に医学や薬を廃止する、全然無くするというところまで行くに決まってます。おそらく今までに例のない問題ですから、大変な時代になるだろうと思ってます。しかしどうしてもそうしなければ人類を救うという事は出来ないし、又神様は百も承知でやられているのですから、いずれはこっちが勝つに決まってますが、それまでのいろいろな事は見物(ミモノ)だろうと思います。それもそう長くはないだろうと思います。神様はちゃんとそういう様に分らせる事と、又分らなければならない様な情勢にしますから、どんな大きな問題になってもべつに驚く事はありませんが、ただ一寸想像も付かないほどの事態になると思います。
今ここに書いている外の事は、悪の発生ですが、これはキリスト教の方などでは、旧約聖書の創世期にある“エデンの園におけるアダムとイブが禁断の木の実を食べた。それで禁断の木の実を食べると悪が発生する”と書いてありますが、禁断の木の実というのは薬の事なのです。それでその時分は薬をのまなかったために世の中はエデンの園の様な楽園だったのです。それで禁断の木の実によって悪を発生させて地獄の世にされたのです。それによって今日の様な物質文化が発達したので、これは神様の経綸であって、それは必要だったのです。それで薬のない時代のエデンの園というと、ミロクの世と同じ様なもので、まあミロクの世です。その時分は文化というものは全然なかった原始的なミロクの世だったのです。しかし今度は悪の発生によってこれだけの文化をつくって、そうしてもうこれだけになれば、あとは必要ない、むしろあとは邪魔になるから、悪を無くすという事については、薬を無くすという事です。そこで薬を無くすれば病人が無くなり悪も無くなりますから、そこで今度は絢爛たる文化によるミロクの世が出来るのです。つまりエデンの園が出来るのです。そういう様に考えるとよく分ります。
それでこれは難かしい理窟ではなく、薬で血を濁しますから、血が濁れば霊が曇りますから、霊が曇れば副守護神の力が増すからして、副守護神という奴は悪い事をするのが本来ですから、それで悪い事をさせるというわけです。難かしい事はないので、簡単に分ります。面白い事は、私が前に浄霊していた時に狐などが出て来てこういう事を言うのです。「せっかくオレが医者にかけて、これだけに悪くしたのに、横から出て来てとうとう助けてしまった。随分薬をのまして、やっとこれまでに悪くして、もう一息で命を取るまでになったのを、横から出て来て助けた」と怒るのです。ですから彼等は薬で悪くして結局命を取るという事をよく知っているのです。それは人間はとてもかないません。むしろ人間以上です。私はむしろ狐から薬毒を教えられたくらいです。自分自身でも分りましたが、医学を狐が利用しているという事が分ったわけです。そうしてみると狐がその人間を殺そうとする場合にはやはり彼等恨みの霊というものが、何か仇を討つという場合に、狐がその人の副守護神に命令されたり、又はそこの祖先が稲荷を信仰したとか、又その人が稲荷を信仰したいという意思を知って、その狐が相手に働きかけるのです。そうするとその場合に医者にかけるのです。できるだけいい医者にかかって、できるだけいい薬をのむのです。むしろかえって大きな病院やいい薬を、という事に狐は働くのです。その方が悪くするには効果的なのです。大病院というのはやり方が大胆で思いきってやりますから、悪くするのも思いきって悪くします。それで町にいる薮医者というのはオッカナビックリしながらやります。手術でも、あんまりひどい手術はしないというのですから被害は少ないのです。ですから大病院でなおらなくて、町医者でなおったという事を聞きますが、つまり薮ほど間違いないというわけです。それで又薬をのませると霊が曇るからして、奴さんは余計働きよくなるのです。つまり医学を利用しているのは、そういう動物霊というわけです。
そこで悪の世界というものは薬がつくったものです。無論今読んだのは、薬が不幸をつくるというのですが、不幸というのは悪のためですから、人間界から悪をとれば不幸というものは無くなってしまいます。だから病気で苦しむために不幸になるというので、その病気をつくるのは薬ですから、薬というものはそのくらい恐ろしいのです。ところがその薬をいい物の様に人間は長い間教育されているので、一寸やそっとではなかなか分らないのです。救世教信者になれば信じられますが、普通の人に言ってもなかなか信じられないので、そこに骨が折れる点があるのです。ですから結局薬の害を知らせる事が根本なのです。結局いろんな面から書きますが、元はと言えば薬毒の害になるのですから、それを分らせるという事です。
私は昨日から歯が痛くて少し腫れてますが、これは歯の肉に固まりがあって、それが溶けて来たのです。この歯の薬の固まりですが、この薬が今年で三十七年になります。三十七年たっても、今もって無くならないというのは、固まってしまうのです。ですから新しい信者の人などがかなり浄化して出たので、もう薬毒は無くなっただろうと思うと、あに計らんやこれからです。二十年も三十年も前にのんだ薬などはもう無くなっているだろうと思うと、どうしてどうしてなかなかです。固まっているからですが、それが順に溶けていくのです。ですから一生涯無くなるという事はないでしょう。私は三十七年前のを毎日浄霊してます。それから横腹と背中の間に固まりがありますが、これは肋膜の時の水が残っていたのが固まっているのです。それに薬毒もありますが、これは丁度五十年前のがまだあるのです。それは固まってしまうからです。それで何時までたっても取れないのです。それで誰でも浄霊によって、やっと溶け始めて出るのですから、大変なものです。
御垂示録
明主様宗教御専念になる迄の経緯、画家御志望を御断念、観音様御付きを霊視、(明治、大正天皇求救)、神意と天職、(職業掛りの神)
【御垂示】人間の考えと御神意は違ふもので、その人の天職使命は霊層界で決められる。本人はそれが判らぬので、周囲の事情などで計画するが、うまくゆかず、失敗したりなどして、外の職業に就く。斯ういう風に、霊層界で決った職業をさせられるようになるものである。
私は斯んな仕事など予想もせず、観音信仰などまるでするつもりはなかった。先に麹町で、『私は観音様は信仰しない。観音様の方で私を使っているんだ』と言った事がある。だが、前から観音様は好きだった。いつか地図を描く男(野口秀昌)に大本時代、大本教の話をした所「大本の神様は観音様仏ですね」と言ふ。『如何してか?』と言ふと、「大先生の側に観音様が見える。お座りになっている。便所へ行くと、後へ付いて行かれる。今、側にお座りになっている。どうも、目をつぶっておられる」といふ。『これは何か訳がある』と思ったが、その中いろんな奇蹟があった。そして、私と観音様の因縁や、私の使命など、伊都能売神様が知らされた。金龍も憑った。明治天皇や大正天皇も救ってくれと言って憑った。明治天皇は神武天皇の生まれ代りで、英雄のような、非常に大きいタイプだった。こうして、昭和元年暮から二年の春(二月)まで続いた。その頃会社を経営していたが、三年二月四日、商売と手を切り、宗教に専念した。財産も何もなかったが、あまり心配にならなかった。そして先づ病気治しを始めた。病気は先ず、霊を治すべき事を知ったのである。
斯様に、人間の凡ゆる事は、神様の方でその掛り掛りがあって決めてゆく。職業などうまくゆかぬのは、他に天職があるのである。そういふ事は、何かの感じで神様が知らされる。最初は画かきにならうとして目を悪くした。未だ執着があったら、指を怪我した。その為今でも小さい字はきれいに書けない。これで断念したのである。今は観音様は描けるが、他の画はどうしても駄目である。
【お伺】霊界は天国、八衢(ヤチマタ)、地獄の三段階に分れ、その各々が六十段に分れ、合計百八十段になって居り、之を霊層界といふ――と御著書に拝見致しますが、之を現界にあてはめ、現界的、物質的に表現致しますとどの様になりませうか。
【御垂示】之は、現界もそういふ事になってるけど、霊界程きっちり行かないんですね。それでも終戦前は割合はっきりしてゐたんだけれども、終戦後は民主的になったので余程違って来てますがね。まあ、今、食糧不足だとか、就職難だとか、病気だとかで困ってゐるのは地獄に相応しますね。それから、どうやらやってるけれども大して仕合せでもないっていふのが八衢ですね。そして、こんな時勢でも却って物質も豊かで健康で、なんてのは天国ですね。その中でもまたいろいろ段階がありますが、まあそんな風に解釈すれば大体合ってますね。私らは天国の大分上の方ですね。思ふ事が何でもその通りに行きますからね。
【お伺】現界は天国的世界と地獄的世界と入り乱れて居りますが、霊界では之が整然としてゐるのでせうか。
【御垂示】えゝ、霊界はきっちりしてますよ。それでもこゝ何千年の間矢張り乱れてゐたんで、今、整理を始めた所ですがね。そうは言っても現界とは全然違ひますよ。大体整ってゐるんですね。
【お伺】徳を積むとか、徳のある人とか申しますが、この「徳」とは何でせうか。又陰徳を積むとは何の事でせうか。
【御垂示】徳ってのは人の為とか、世の中の為になる事をすること――それが徳になるんです。これを沢山やる事を徳を積むって言ふんです。そして、徳を積むには御浄霊によったり、この信仰に導いたりするのが一番いゝんです。金をめぐんだり、慈善を施したりするのは一時的でね、永続性がないんですよ。だから、人を永遠に救ふ信仰に入れる程、徳を積むのにいゝ方法は他にないんですよ。徳を積むと大勢の人が感謝しますからね。その感謝の光でその人の霊が太り、霊の栄養になるんです。神道の祝詞に「御霊(ミタマ)のふゆを幸倍(サキハヘ)給へ」ってのがありますがね、「ふゆ」ってのは「殖える」で太る事なんです。太ると光りが多くなるから霊層界の上にのぼり、仕合せも、いゝ事も多くなるんです。それから陰徳ってのは人に知られないでいゝ事をする事ですよ。よく、神社の境内なんかに「金何円也」とか書いて寄附の札が貼ってありますね、あれなんかは人に知られるから陽徳ですよ。人に知られる場合はそれだけの報ひがもう来てゐるんですが、人に知られない場合は神様が御褒美を下さいますからね。同じ徳でも陰徳の方がよっぽどいゝんですよ。ところが人間ってのは顕れないと気が済まないもんでねえ……なるたけ人に知られないでいゝ事をするんですね。そうするとね、神様の方で何層倍にもして返して下さいますよ。だから陰徳を積むってのは大変なことなんです。今の人はこの事が判らないから陽徳許りですね。
【お伺】病気は浄化作用だという事は良く分らせて戴いている人はありますが、他の事になりますと悪い事があったという観念が抜けない人がある様でございます
【御垂示】それも一切が浄化作用なのですが、一寸のみ込みにくいのです。心配事も浄化作用です。だから悪い事や心配事があるという事も、やっぱり仕方がないので、その浄化によって境遇が良くなるのです。
【お伺】貧の御浄化という場合に、曇がある為に抜けられないという状態でございますが、御用を励まさせて戴きますと、その為に……
【御垂示】それは霊界の地位によるのです。貧乏しているのは、貧乏をする地位にいるのです。ここの層は貧乏の人の霊界です。そこにいるという事は、それだけのものがあるからです。そうして上に上って、ここは貧乏が大分楽な世界になるのです。ここ(更に上層)に行くと、もう豊な人の世界です。そういう様なもので霊界の地位の問題です。だからどうしても仕様がないのです。それで地位を上らなければならないのです。地位を上げるには浄まらなければならないのです。その為には自分が苦しむとか、人を助けるその手柄その働きによって早く上にあがって行くという事です。だからこの辺に行けば物質に恵まれ、良い事の世界なのです。又ここまでには時期が行ってないから、この辺(一寸下層)までは行けるのです。結局霊的状態、霊的地位が上るという事が一番です。
【お伺】よく明主様が頭が悪いという事を仰言いますが
【御垂示】それもそうです。丁度山と思えば良い。ここよりもここ(少し上)に行けば良く見えます。頭が悪いという事は、ここ(下層)に居れば一寸しか見えないからです。ここ(最上部)に行けば何でも見えるから、頭が良いというわけです。
【お伺】徳を積めば良いという事で、どうする事が一番徳を積む事になるかという事をよく聞かれますが、その一番の事は明主様の御仕事の御手助けになる事をさせて戴くという事が一番良いという事でございますから
【御垂示】それは間接な言い方ですが、直接には人を仕合わせにする事です。要するに徳を積む事です。それが明主様の御仕事の手伝いをするという事になるのです。
陰徳
【お伺】徳、又は陰徳を積むといふ意味――
【御垂示】人の為、世の中の為にする事が徳である。これを沢山する事が徳を積む事になる。金を持って慈善をするのも善い事だが、持続性がない。死んでからまでの幸せを与える永遠の幸福を与えるものではない。徳を積むと多数の感謝の霊が来て、その人の霊が太る。之を神道では恩頼(フユ)といふ。魂が太る事である。太る場合、光が多くなる。そうして霊層界が上の方になるから幸せになる。陰徳とは、人に知れない善い事をするので、神社仏閣などの掲札は陽徳である。人に知れない善い事は、神から御褒美を下さる。人間には表はれないと気持が悪い性があるが、陰徳は何倍となく神様から御褒美下さる。
霊魂の本と現体
【お伺】左の様な事を読んだ事が御座いますが、御伺ひ申し上げます。「外国の霊界に於ては人間が生きて居る間に霊界に霊体を作り、死んでから其の作り上げた霊体の中に霊魂が入り、霊体の動きに依って霊魂は左右されるものであり、霊体の出来具合は人間が生きて居る時の想念に依って出来上るものであるから、死んでからの霊魂の動きでは自由にならず、中には死んでから霊界に行って見ると霊体のない者もあり、其の者は再び現界へ逆戻りし、之等の者は不幸であるとの事」オリバー・ロッヂ死後霊界よりの通信でありますが、日本の霊界は霊魂が霊体を左右し、外国の方は右の様に霊体が霊魂を左右するのは霊主体従、体主霊従の事によるのでございませうか。
【御垂示】外国――死んだ方が幸せで、生き返ると不仕合せといふ訳で、ある。 日本の霊界でも斯ういふ意味になる。霊層界に霊魂の本があり、生きてる人の思想、行為で変る。現体が徳を積む事により、霊層界で上る。そして霊層界の霊魂の本へ帰する――と同じ意味である。外国は単純に説いたもので、善いつもりの事が案外悪い事があるので、霊界へ行って吃驚する。共産党などは生命がけでやっているが、霊界へ行くと、案外下に居る――といふ事もある。要は智慧証覚が必要である。(S24・10・24)
浄霊力と覚り
【御垂示】お浄めは霊層界の上へ行く程よく治る。それには即ち仏教でいふ覚者にならなくてはならぬ。その智が進み、高い所を知る程上へ昇り、治りよくなる。宗教となると、兎に角喋らなくてはならぬ。一般の宗教は治療の武器がない為、話より外ない。 (S23・6・24)
親子、夫婦、主従一世
【お伺】親子は一世、夫婦は二世、主従は三世と謂われて居りますが、如何なる意味で御座いましょうか。御伺い申し上げます。
【御垂示】本当からいえば全部一世である。夫婦、親子でも、霊層界が違えば、アノ世へ行けば別々になる。然し同じ位なら、同じような所へ行く。(S24・7・1)
手癖悪い子(霊層と悩)
【お伺】小供の手癖の悪いのは如何したらよろしゅう御座いましょうか。
【御垂示】動物霊が憑いてやらすのである。斯ういう事をするのは、親に罪がある。親と関連している。親自身、自分の心を省みて大いに徳を積む事にする。そして親に罪があると、霊層界の下にあり、霊層の下の下にあると、何か苦しみがある。それで子供の盗みの苦しみがなくなるとしても他の何かの苦しみがある。徳を積んで霊層界の上へ上ると、子供も親が心配するような事が出来なくなる。その事をよく知らなくてはならぬ。騙されるのもそれだけの資格がある訳である。泥棒にとられたり、いろんな事で損をする等も、その物質が汚れてる。間違った事があり、その罪をとられる為の浄化で、之は凡ゆる事にある。日本で物の足らぬのも浄化であり、偉い人が小菅へ行くのも浄化作用である。人間はどんな人も必ず悩みがある。夜の世界の間は仕方がない。動物霊が活躍するだけの余地がある。修行を励んでいる人は、それが段々小さくなる。
夫婦問題妻の不貞解決の道夫婦の高さ、信仰反対
【御垂示】妻の不貞は、霊的にいえば夫も同罪である。夫が立派で、妻は不貞の場合は、どうしても別れる事になる。一方が磨けて向上し、両者の高さが余り離れると、どうしても夫婦生活は出来なくなるものである。右の理により、自分の身魂さえ磨けてくれば、一方がそれにつられて向上すれば別れずにすむが、どうしても分らぬ場合は、病気になって死ぬか、別れなければならない事情が生ずるのである。それが一番の解決法である。夫婦で、霊層界に於てあまり離れている為、妻が反対する場合は、妻が改心して夫の信仰に入るか、でなければ死ぬかである。(S23)
離別と霊層界
【お伺】夫婦の生別れ及び子供があり離籍の場合、霊層界にあると言われて居る人間の籍は如何なる関係になるでしょうか。御教示下さい。
【御垂示】別れようが別れまいが、霊層界に関係はない。その人の霊的状態によって変る―善悪の行為で変る。 (S (*)・7・8)
愛なき再婚離別すべきか
【お伺】連れ子をして再婚した者ですが、夫に愛情がなく観音様の道も理解して呉れません。離婚した方がよいか迷って居ります。お指導願ひます。
【御垂示】お指図は出来ない。之は観音様にお任せしておくのが一番いい。決して無理をしたり、荒立てたりしてはいけない。観音様にお任せし時を待っていれば必ずうまく解決する。罪穢相応に苦しむのである。人間は霊層界に籍があるが、夫婦のうち一方が磨けて向上し、余り両者の位置が離れると、どうしても生別れ、死別れる事になる。右の理によって、どちらかが磨けた方へ接近しなければ、共白髪まで添ひ遂げる事は出来ない。
有妾夫との離別
【お伺】主人の外の女に男の子供が出来、その為非常に居づらい事ばかりです。主人と離別したらよいか、そのまま居ったのがよいでしょうか。
【御垂示】信仰雑話の「夫婦の道」を読ませるようにするといい。たゞ読みなさいというのではいけないから、主人の部屋に置いておく。そして後は神様にお任せする。夫婦は霊層界の地位があまり変らないから、主人の事を考えないで自分が徳を積むと、地位が離れてくるから段々一緒に住めないようになる。自然が本当である。(S23・11・27)
不誠意の夫(運命を作るもの)
【お伺】私は一年前より肺浸潤を患い、昨年十月腹膜炎を併発し、二月末より重態となり絶対安静を申し渡されました。病気以後より霊友会会員でありましたので、信仰に縋り或いは医者に罹ったりしましたが一向良くなりませんでした。本年四月初め或る人の勧めで観音様に御縋りし三日間で起きられる様になりました。御霊徳偉大なる御利益に驚喜、本日御礼参りに伺いました。現在母(七十二才)と私がお光を戴き本日は光明如来様を戴く様御願い致しました。家庭には尚父(八十才)と子供(六才)が居ります。一家がこんなに救われて喜んで居りますのに尚悩みは私の夫です。夫は(旧姓、木内博)私の病気中に、とても全快の見込もなく又今後親を養う事は出来ないと言って実家に帰って仕舞いました。(籍はまだそのままです)送金もしてくれません。主人は何処へ行っても仕事に余り熱意ない様に見受けられます。今後主人と一緒に居る事はどうかと日夜考えさせられます。如何致したらよろしいでしょうか。御教え下さい。
【御垂示】光明如来様にお任せする。根本はその人の霊的状態に因るのであり、妻君の曇に因る。一緒になって仕合せなら一緒になるし、不幸なら別れる事になる。夫婦は霊的にいうと大して違いない。一方の霊層界が向上すると、それがウンと離れる場合生別れか死別れする。一生懸命信仰すると別れない。故に霊的に離れると別れ、同じ位の地位のものが又一緒になる。すべて自分自身にある。自分の運命を作るものは、その人の徳に因る。考えれば簡単だが、たゞ出来難い。善い事をするようになると、神様の守護が加わる。(S24・5・17)
移転につきすべき事
【お伺】一、住居移転を本年中に西の方角へ致し度いのですが、是には何もしないで移転してもよいのでありませうか。又若し必要な事がありますなら御教へ願います。二、光明如来様の御掛軸と仏壇(阿彌陀如来)と同じ部屋を使用して差支ありませんでせうか。
【御垂示】一、何にもしなくてよい。信仰に入っていれば、悪い所へ行く筈はない。霊層界のいい所へ行く。(S24・7・6)
家相方角と霊層界(婚姻、霊層の太線細線)天職使命と最上の道、最上の幸福下層霊と抵抗力(地獄の霊籍)明主様の御移転経路、神山荘の建設畳数、吉凶占い、鬼門の重要性
【御垂示】家相方位。之はこだわっていい時と、悪い時と両方ある。霊層界百八十層あり。上(天国)、中、下(地獄)と三段あり、真中は中間帯で八衢という。之は現界と同じ、娑婆と同じである。人間はこの三層のどこかに居る。そこにその人の魂の本源があり、霊線が繋がっている。そうして運勢や使命も係わっている。地獄は人間の不幸の世界で、重軽はあるが階級の昇るに従い、楽になるのである。地獄の段階に魂がいると、何時災難を受けるか判らぬ。方角や家相はあるが、魂の居る所相当の方角や家へ住み、相当の境遇になる。故に、良い家に住んでる人は、それだけの段階にいる。自分の魂が下にあれば、どんなに足掻いても駄目である。霊層界の地位は始終変化しており、罪を犯したり、善い事をする事により変化する。大体に太い線、細い(小さい)線はある。太い線は突破出来ぬが、小さい線は始終上下している。それによって変化する。悪い事はしないといっても、ただブラブラしている人などは、それがやはり罪になる。やはり「理想世界建設に役立つ事をするのが最上で、その為に、それぞれの職業を与えられている。それに全力を尽す。それによって、天職使命を行うべきである。」そして尚その上に、人を助けると罪の消えるのが大きいから、霊層界はドシドシ昇り、逆に歓喜の生活が出来る。そして思った通りの、良い家へ行けるし、神様は、褒美を下さるのである。結婚などもそうで、その人の徳によって、妻君も良い人が来る。それで人間は、自分自身の魂を磨き、天国に相応する事が肝腎で、そうすれば悪い方へ行きっこはない。故に、家相方位はあるにはあるが、霊相応であるから、先ず霊を天国に置かなくてはならぬ訳である。霊の軽いのは天国へ上るし、重いのは低い所へ行く。低い所にいると、霊の抵抗力が弱いから、邪神にやられる。邪神は人を苦しめるのをとても喜ぶのである。運よく出世をするといっても、形だけの出世ではいけない。人を幸せにする幸福、之が一番の幸せで気持もよい。良心は神の分霊であり、気が尤めるのは、神様に叱られるのである。家相は良くしなくてはいけないし、知っておかなくてはいけない。神山荘の建設などは実に不思議で、神様が用意されたものである事が判る。方角で一番良い方角は鬼門である。故に、方角の良い方へ越すには鬼門がいい。今迄は、不正や悪をやる人は、反って悪いとしたが、これから良い事をする人は、鬼門へ行くべきである。私は、浅草の橋場に生れたが、之は浅草の東で、浅草は東京の東、東京は日本の東である。それから、山谷、京橋、大森、箱根というように、段々東から西へ行かれた。斯ういうように、私の方角などは決っている。熱海でも、東山から小倉別院へ、やはり東から西へお行きになった。(中略)吉凶の卜い。家相は鬼門が土台である。鬼門は一番霊気が来るので、間違った事は出来ぬ。良い霊気とは、神霊が濃い訳である。鬼門を汚すと、良い霊気を穢すから、綺麗にしておく事である。光明如来様を祀った所、紫色の霊気が棒のように立っているのが見えた事がある。霊気の来る所は、清くしておくべきである。鬼門には松や檜が一番良い。坤は、石と水がよい。事情の許す限り、両鬼門は良くする。又、道から下る所は不可、上る所は良い。下津岩根は非常に良い。ここの家相は非常に良い。(箱根)畳数は偶数でなくてはいけない。偶数は割り切れる。滑らかにゆく。何でも奇数は割り切れぬ。閊えるからいけない。三の数は不可。男は十八畳などよい。女は三畳、六畳などよい。総数が偶数になるのがよい。方角は易者と違い、主人の寝る所を本とする。家相は出る形がよい。之が理窟に合う。又、拡がる形もよい。吉凶占いは十二支が本で、之は人間の性格の主なるものを表わしたもので、確かにある。台所は鬼門を避ければ、後はどこでもよい。
霊状態と移転、土地、姓名、結婚、夫婦土地制定の基準、方角の中心鬼門詳説、家形霊界に於る夫婦
【御垂示】土地、家相、姓名の善悪等非常にある。誰でも良を望むが、根本は―。或家に引越すのも偶然でなく、相応の理により、霊状態の良い時には善い所へ行く。霊層界の八衢以上にある場合、悪い事はない。第一、第二と霊の段階の通りの所へ住む。結婚も又、霊層界と極度に違う事はない。向上すると―霊が浄化されると上ってくる。すると前の家では相応せず、良い所へ越す事となる。霊が変ると、体が引づられる。従而、良い所へ行っても、霊が伴わなければすぐ出てゆく事になる。黙っていても霊さえよければ、良い所へゆく。夫婦の場合一方が向上し、一方がそのままの場合、どうしても一方が苦しみ、一緒に生活出来ぬか、でなければ霊界へゆく。霊界はすべて執着をとる所である。夫婦など愛し合う度の濃い程一緒におれない。抱擁しようとしても身体が硬直してしまう。その執着がなくなると一緒におれる。霊界では、神様のお許しを得て一緒に遇えるが、そうでないとなかなか遇えぬ。身魂の階級で違ってくる。土地は、附近に於て高い所がよい。故に、越す場合、その近隣の高い所がいい。坂の中途へ住んではいけない。家相も大いにある。矢釜しくいえば、畳数などもある。霊的状態が良ければ、悪い所へゆけぬ。家屋中心にみるのはいけない。主人の寝室を中心に考うべきだ。人間中心にする。寝る場所が安住の所である。鬼門が霊であるから木と火になる。木は気である。裏鬼門は体で――。艮から浄める力がくる。鬼門を汚すと霊気が曇り、妨げられ、邪神が災する。坤は物質が来る―濁るんではないが――。艮へ便所をつけたり、人の出入りをさせたりするのはいけない。乾の出入りは、日の上るのと両鬼門を避ける。広い所では、艮に庭をつける。すると病気災難を逃れる。坤は石と水をおく。すると物質が入る。家相では、この鬼門が一番大事である。家の全体の形はある。大森など鶴が羽を拡げた形であった。凹の字形の家相はいけない。