宗教となる迄

治療をやめたのは十五年末で、それから十九年春まで、重に治療師養成に専念した。処が世の中は戦時色が段々濃厚になり、十六年十二月八日逾よ火蓋を切る事になったが、東京は無論爆撃の為焼土と化する事は、以前から判ってゐたので、前以て信者にも注意を与へてゐたのである。私もその場合の悲惨事を想像し、見聞する事の堪えられないばかりか、全然仕事も出来なくなるので、疎開すべく、予ねて心中ひそかに決めておった箱根強羅を探さした処、今の神山荘が見当った。之は元、藤山雷太氏が建てた家で、嫡子である愛一郎氏から購入する事になったのである。代価は当時の事とて十六万円であったが、私の手許には六万円しかなかった。がその少し以前、某信者数氏から十万円程の献金があったので、恰度過不足なく手に入れる事が出来たのである。

其時が十九年五月で、間もなく移転したが、それから二ケ月経た七月、熱海に好適な売物があるのでみてくれというので見に行った。処が非常に気に入った。それが東山荘である。此家は元、山下亀三郎氏の別荘であったが売価七十万円というのであまり高価の為一時は諦めたが、どうも欲しくて堪らない。すると之を聞いた某氏及信者諸氏から、漸次献金があり、右の家を手に入れる事が出来て引移ったのがその年の九月であった。

戦時中の事はあまりかく必要がないが、兎に角、奇蹟の多かった事は素晴しいものであった。戦禍による災害を蒙ったものは殆んど一人もないといってもいい位だ。雨霰と降る爆弾が其人をよけてゆき聊かの被害もなかった話や、煙に取巻かれ、進退谷った時、道案内するかのように、煙の幕の一部に人の通る位の間隙が出来た事や、飛行機から機銃掃射をされたが、弾はその人を除けて前後左右に落下した事など数限りない生命拾いの体験を、毎日のように聞かされたものである。

逾よ終戦当日廿年八月十五日の翌十六日、信者数十名が参拝に来た。殆んどの人はあまりの意外な結果に、精神喪失者のような有様であったが、其時私は斯う言った。大きな声では言えないが、此結果は、本当からいえば大いに祝はなくてはならないのであるが、今は言へないが段々に判るといったのであった。そんな訳で私は嬉しくてならなかった。というのは日本は本当の正しい国になる時機が、いよいよ来たからである。判り易くいえば、ヤクザ商売から足を洗って、堅気になったようなものだ。それ迄の日本はいはば国家的ヤクザといってもいい。暴力を揮って弱い者虐めをやり、縄張りを段々拡げて来て、終に有頂天になって了ったので、神様はアメリカの手を借りて警察権を揮い、大鉄槌を加え、ヤクザ稼業から足を洗はざるを得なくさせたからである。

戦時中面白い一挿話があった。それは特高警察官の一人が来て曰く、「君の方で病気が治るのは、観音様が治すのではない。天皇陛下の御稜威で治るのだから、治った場合、天皇陛下に御礼をいふのが本当だ。」との事であるから、私は病気の治った人は二重橋前へお礼にゆかなければならないと言った事があった。之をみても当時の空気が判るのである。

今一つ斯ういふ事もあった。私はブラックリストに載ってゐたので、行く先々の警察から、いつも警戒の眼を放されなかった。それが為私が熱海へ引移った早々、警察吏が或嫌疑で訪ねて来た時、ラヂオが二三台あったので、それを専門店へ運んで綿密な検査をさせた事があった。どういふ訳かといふと、アメリカと短波で通信してゐるといふ疑いからだと聞いて実に滑稽と思った。又東山荘の向い側の家に刑事が張込んでゐて、日々出入の多くの信者を詳細に記録したといふ事もあった。

其頃、特高主任の歎声を聞いた事がある。「岡田の奴を挙げようとして随分査べたが、何にも材料がないので困って了ふ。」といふので私は笑はずにはおれなかった。何故なれば、材料があるから挙げるので、何にもなけれは良民である。それを困ったといふのは故意に犯罪者にしようとするからである。実に解するに苦しむと言った事がある。之等によってみても当時、如何に封建的警察制度が人民を苦しめたかが窺はれるのである。

非常に大雑把ではあるが、私が通って来た経路は大体記いたつもりであるが、ただ今言う事の出来ない神秘な事だけは時期を待ってかくつもりである。ただ長い間病 気治療に従事してゐた時の興味あるものを抜出してかいてみよう。

(自観叢書九 昭和二十四年十二月三十日)