私は前項に述べだ如く、昭和十五年十二月一日愈よ治療をやめ、いはば一個の浪人となったのである。それは寧ろ霊的にみて、一段階上った事になるので内心は喜ばしく思ったのである。というのはそれまで治療という極限されたいはば、第一線に於る体当り的兵隊の仕事であったからでもある。その月の二十三日は私の五十九歳の誕生日であったので、信者中の重なる二三十人が日本閣という料亭へ私を招いて、誕生祝をしてくれた其時出た歌に、「キリストも釈迦も再び生れ来よ 汝と吾との力 試さん」というのがあった。それから閑のある内と思ひ関東方面各地に旅行する事となったが、之は経綸上重大意義のある事で、神様がそうされた事は勿論で、少からず奇蹟もあったのでその中の差支えないものだけかいてみよう。
昭和十六年五月、渋井氏以下数人の信徒を伴につれ、丹波の元伊勢神宮へ参拝に行ったのである。此事に就て興味ある一挿話をかいてみるが、今日の伊勢山田の皇大神宮は、今から約千百年以前此丹波の元伊勢から遷宮されたという事になってゐる。それに就て斯ういう説がある。遷宮の際御神霊を御輿に乗せ奉り、一里離れた所に和知川の下流で五十鈴川があり、その川を渡御せんとした際、急に御輿が重くなり、どうしても渡り得なかったので引返したというのであるから、伊勢の山田には御神霊は移らなかった訳である。それを今日実證した一つの出来事があった。それは此参拝から一ケ月余経た七月一日私は中島氏以下数人を従え、伊勢山田の皇大神宮へ参拝に行った。社前に額いて祝詞を奏上するや、社の中から神の声が聞えた。それは「デワ私はこれから故郷へ帰らしていただきますから、後は宜しく御願申します。」といふ言葉である。すると私の傍に又別の声がした。「永い間御苦労であった。」との御言葉で私はハッと思った、といふのは、逾よ、天照大御神と御留守居の神との交替である。いふまでもなく私は先日元伊勢へ参拝に行ったのは大神をお迎えしたので、今日の行事の為であった。お留守居の神とは勿論、神素盞嗚尊で朝鮮へお帰りになったのである。其時私が思はれた事は、いよいよ日本の霊界が明るくなり、正邪善悪の是正が行はれる時が来たのである。然し其頃であるから露骨にはいえないので、周囲の者へ斯ういった。「何れ日本の上層部に大変化がある。」事である。それが四年経った廿年に現はれた彼の特権階級の転落であった事は、神様の方では既に決ってゐたのである。
今一つ斯ういう事があった、十六年六月廿二日渋井氏初め十数人を従え、茨城県霞ケ浦の鹿島、香取の二神宮へ参拝した。最初香取神宮へ参拝したが、神様は御留守であった。次に鹿島神宮へ参拝した時の事である。突如無声の声がした。「貴下はいよいよ重大な御役をさるる事になった事をお祝い申す。就ては諸々の神様が御守護さるるが、私もその一人である。今日お参りに来られた事を、御礼申す。」という意味で、勿論神様は武甕槌の命である。その帰途、駅へ立寄った処、号外が貼ってあった。みるといよいよ独ソ戦が始まったという事がかいてあった。
其時の十一月、善光寺へお詣りに行ったのである。此時も渋井氏以下数人を従えた。最初軽井沢の紅葉を観、別所温泉へ立寄り、長野へ一泊、翌日草津温泉から吾妻川渓谷の関東一の紅葉を賞で帰京したのである。善光寺へ参拝の時、阿彌陀如来が出て来られた。曰く、「儂は、もう少し経つと印度へ帰るからそれまでは自分をわるく言はないようにして欲しい。」といふ言葉なので、私は、ハッと冷汗三斗の思いがした。というのは、それまで時折り、如来の行跡を非難した事もあったからである。私は陳謝したので、如来も快く挨拶され、奥の座へ入られたのである。それまで私は如来は最早印度へ帰還されたと思ってゐた処、未だ在日されてゐた事を知ったのである。私は方々のお宮へ参拝の時仲々面白い事があった。よほど以前、江の島の弁天様へ参詣した時、弁天様はお留守で、その後へ狐が蟠居しをり私を見るや、彼は大いに驚いて、三拝九拝するので、笑ひが止らぬ事があった。
(自観叢書九 昭和二十四年十二月三十日)