三度目のブタ箱入り

前項に述べた如く、復活した私は一年有余の空白を埋めようとして一生懸命治療に励んだ。すると三年目の昭和十五年十一月又々玉川警察へ召喚された。其時は物々しく警官二名が附添ひ自動車で警察へ送り込まれた。私は何事かと思ったが、署へ入るや主任らしい者がイキナリ、「君は医師法違反をやったね。」といふので、私は面喰ひ乍ら、「ソンな事はあるはずがない、違反になっては大変だから、充分注意してゐる。」--といふ言訳を聞く処ではなく、彼は私を抱えるようにして留置場へ打ち込んだ。

私は何が何だか判らない、すると三日目であった。主任は私を一室へ呼び訊問を始めたが、その時彼が言ふには、「君は或病人に対し、医者へ行かなくても自分の方で治ると言った覚えがあるだらう。」私は「それは確かに言ひました、嘘ではない、事実だからです。」といふと、彼「ソノ言葉が立派に医師法違反ではないか。」と言ふので、私は唖然とした。そこで私は「ソノ位の事は療術業者は誰も言ひますよ。」といふと、彼は、「ソレは小規模でやってゐる者は大目に見るが、君のように堂々たる門戸を構えてやってゐる以上、社会に害を及ぼす事は大きいと見るから、看過する訳にはゆかない。」といふので、私はどうも彼の態度から見て、「キット営業禁止迄もってゆくに違ひない。」と推察したので、
「ヨシ先手を打ってやらう。」と、私は、「そんな事で医療妨害の罪に問はれるとしたら、到底持続してやる事は出来ないから今日限り廃業します。」と言ひ放ったので、今度は彼の方が唖然としたようであった。それが十一月三十日である。

処が彼は先手を打たれ、よほど口惜しかったと見えて、それから数日経た或日私を呼出し、「誓約書をかけ。」と言ふので、私は「何の誓約書だ。」と訊くと、「君は療術行為は如何なる事情があっても一生涯やらない事を誓ふといふ事を書いて出せ。」といふので、「実に御念の入った事だ。」と驚きながら、言ふがままの誓約書を入れたのである。

処が、之に就て面白い事が起った、といふのは翌年であった。それは某大臣、某将軍、某大実業家等が私の治療を乞ひに来るので、私は、「今は廃業して治療は出来ない事になってゐるから、是非治療して貰ひたければ、警視庁の許可を得なさい、そうすれば何時でもやって上げる。」といったので、それ等の人は、警視庁へ許可を受けにゆくので、同庁でも当惑し私に向って、「療術行為の届出」をして貰ひたいと要望するので、私も仇を討てたような気がしてその通り届出をし、それからやむを得ない人だけ治療をしてやる事にしたのである。それが終戦迄の経路であった。

(自観叢書九 昭和二十四年十二月三十日)