今日の社会全般を見ると、何でも彼んでも科学の二字を附けないと、誰も信用しないらしい。といふやうに、よくも之程科学は人間の心を占領したものだ。全く科学の奴隷である。
処が驚くべき事は、今日学者が宗教を批判してゐる事である。言う迄もなく今日宗教を論ずる学者は、哲学者か社会科学者、思想研究者等であって、之等は何れも形而下的の学者である。処が宗教は形而上的のもので、学問よりも上位の存在であるに拘はらず、言論機関などをみると、学者が宗教を批判してゐるのが殆んどである。之が通例となってゐて、怪しむ者は一人もあるまい。遠慮なくいえば一種のナンセンス以外の何物でもない。
それでゐて不可解な事には、今日の宗教家で、哲学、科学等を批判する者は、先づ一人もないといってよからう。といふ訳で寧ろ宗教の方で学者から、裏付けられるやうな説を乞ひ希ってゐる位だから、霊界に於ける各教祖も、涙を流して居られると思ふのである。それに就いて滑稽なのは、アメリカのクリスチャン・サイエンス、日本に於ける仏教哲学等であらうが、之こそ主客転倒である処か、宗教の方で学問の力を借りなければ、信用されないからであらう。
此様に宗教の方で科学を上位扱ひにしてゐるのだから、大衆は科学を信ずると共に、科学者の方は鼻高々として宗教を軽蔑し、一般もそれに雷同するのである。勿論新聞雑誌なども大衆に迎合するのが本位となってゐる以上、学者の説を重視し、宗教の方を軽視するといふかき方をするのである。
此結果人々は神を信ぜず、科学万能主義となって了ったのであるが、それで世の中がよくなるとしたら、何をか曰はんやであるが、事実は御覧の通りの苦悩不安の世界であるのは、全く科学迷信に捉はれ、肝腎な宗教を無視したからであるのは勿論である。
処が私は宗教上から哲学でも、科学でも、思想でも遠慮なく批判してゐる。特に医学と農業に就いては、益々突っ込んで誤謬の点を赤裸々に明示してゐるが、今日迄誰も詰問も抗議もいって来た学者はない。それもその筈で、科学より以上である宗教を通しての批判としたら、一言も云えないのは当然であるからである。
之に就いて文明の進歩を乞ひ希ふとしたら、宗教者と科学者に於ても、胸襟を開いて論議し、真理の発見をするのが本当であると思うが、そうでないのは洵に張合ひがないのである。