宗教なるものは今更言う迄もないが、人を救う事であり、救いとは不幸な人間を幸福にする事であって、それ以外には何もないといっていいのである。処が可笑しな事には、現当利益を与える宗教は低級なりといふ処か、真の宗教ではないといふ説を唱える人が往々あるが、斯んな馬鹿々々しい理屈はあるまい。仮に現当利益がないのが本当としたら、一体宗教の存在理由は何であるかといふ事であるが、之に名答を与える事は出来まい。
そこで考えてみると、斯ういふ人達は黴の生えた御説教や、言ひ古された理屈で人が救へると思ってゐるのであらうが、そんな事で人が救へると思うその考え方がどうかしてゐる。そんな生易い事で人が救へるのなら、此娑婆に病人や犯罪者や不道徳な人間が、之程あり余る程である訳はない筈である。此娑婆を見たら今迄の宗教が無力であった事がよく分るのである。
例えば病人が苦しんで、ウンウン唸ってゐるのに、御説教や理屈をいった処で楽にはならない。只幾分慰めるだけの話である。又急病や大怪我で命が危険な場合、話をしてゐる暇がないではないか。グズグズしてゐれば死んで了うのは分り切った話である。その場合素早く無言で治して了う事こそ、本当の宗教ではないか。之こそ現当利益である。
尤も宗教によっては、病人の枕元でクドクドしい御説教をして、反って反感を抱かれるといふ話もよく聞くが、之などもその宗教の無力を表白してゐるやうなものである。とはいふものの宗教とは読んで字の如く宗祖の教であるから御説教が本当かも知れないが、それでは本当の救ひではない事は言う迄もない。 従って宗教では最早人を救へないといふのが本当であらう。
つまり宗教以上の救ひの力を有ったものでなくては、意味がない筈である。換言すれば、人間の経験にない程の現当利益を現はす力を有った超宗教でなくては、価値はない訳である。
そこへゆくと我救世教は現当利益を建前としてゐる。之を人は奇蹟といふが、今迄の眼で見たら奇蹟に違ひないのである。斯うみてくると此超宗教が今後の世界に対し、どうなるであらうか。之は人類の批判に委すとしておくのである。