人療法と神療法

現代医学を最も端的に言えば人療法であり、吾等の療法は神療法である。即ち人療法は物質を以て物質である肉体を治癒するを目的とし、神療法は霊を以て治すので、一方は眼に見える物を以て、眼に見える体を対象とし、一方は眼に見えぬ霊を以て、眼に見えぬ霊体に体当りではない霊当りすると言う、唯それだけの話である。

従而前者は人間を物質のみとなし、全然霊を認めない、後者は人間は物質のみではない、その内面に霊が在りとする。故に前者の観方をすると人間は物質である以上、大根や牛蒡(ゴボウ)と同一であるから俎板の上で切っても差支えないと言うことになる。今矢鱈に人を切ったり、一家心中や自殺などするのは此の観念に外ならないので、物質的見方が如何に危険であるかは今更言うまでもないが、之と同様の事は医学にも言える。

何となれば現代医学も人間を物質と見る以上危険の程度は同一と言えよう。何よりも注射で皮膚に針を刺し、手術で肉を切り血を出す等の手段も大根と同一物質的扱いである以上、人間の尊さなどは認めないのである。之に対し宗教観は人間の霊を認め物質以上の尊い存在としている、処が茲に重大事がある。

右の如く宗教は人間に霊があり、其の霊が肉体を支配していると言うのである。従而人間が病気に罹る事も、思想の動向も霊次第であるから、霊が主体で肉が従と言う事になる。此理によって、病気の場合その病原は霊にあり、霊の状態そのまゝが肉体へ移写するのであるから、病気を根本的に治すには霊から治して行かなければならない。即ち病める個所は霊の方も病気に罹っている。それはその患部は霊に曇りがあるので、その曇りを払拭しなければ肉の方の病気は絶対治る筈はないのである。

之は事実が証明している。即ち肉だけの病気を除去しても、霊の曇りを消滅しない限り、必ず元通り病気は発生する。何よりも医学で治ったと安心しても、その殆んどは再発する。腫物など手術によって除去しても其のお隣りへ出来る、又除去すると復その隣りへ出来ると言う事は、医家もよく経験する所であろう。此の理によって医学が如何に進歩しても肉のみを対象とする以上、此の世界から病気を無くする事は不可能である。

右の如く万有の原則は霊主体従であり、人間の病気も前述の如くである以上、之が認識出来なければ真の医学が生れる筈がないのである。而も真の健康人が増えれば、罪悪は跡を絶つのは勿論である。何となれば此の見えざる力を知る以上、神を認めるからである。此の理によって今日の如き底知れない程の社会悪の発生やそれにつれて不幸者が続出すると言う事も、唯物思想の囚となっているからで、茲に宗教の必要がある。

次に注意しなければならない事は、単に宗教と言っても唯心の仮面を覆(カブ)っている唯物宗教が相当ある事で、其れ等は宗教の蔭に隠れて、幾多の罪悪を行っているのである。これこそ邪教であって、寧ろ単なる一般唯物主義者より、社会に害を与えるのである。何となれば、彼等の為に新宗教の信用を害し、正しい宗教を傷つけるので、其の罪は軽視すべからざるものがある。今日世人がインチキ邪教に気をつけろ、うっかり触れるなと警戒の目を向けるのは、右の如き邪宗教があるからである。

然し斯く言う邪教は遅かれ早かれ淘汰される事は必定であるが、例え一時的でも社会に害毒を与える以上声を大にして警告するのである。とは言うものの現代人が今日の如き不安極まる世相にあっては、何等かの救を求むるのは当然であるが、それかと言って既成宗教では慊らないらしい。

新宗教は、危険であるからやむを得ず無信仰者になり、唯物観念を持ち続けつゝ、不安裡に其の日、其の日を送っているのが現状である。特にインテリ層は其の観念が著しく自分が触れないばかりか、他人をも触れさせまいとしている。

以上によってみるも、本教が誤解を受けると言う有力な原因が邪教にある事もよく解るであろう。然らばこの邪教の根本は何であるかと言うと、これが右の妨害者である悪魔の仕業でなくて何であろう。