昔から唱へられて来た「鰯の頭も信心から」と言ふ言葉がある。其言葉を一般の人は、真理であるかの様に思ってゐるのであるが、之は大変な誤りである。
抑々人間が、信仰的信念を以て拝む場合、其本体即ち、的である処のものは、飽迄も崇高なる神格と、正しい第一義的の神霊でなくてはならないのである。それは、如何なる意味かと言ふと、崇敬し、拝跪すべき御神霊は、人間よりも、霊的段階の最上位の御神格程良いのである。何となれば、常に礼拝する御神格が高ければ高い丈、人間の霊魂はより向上すべきものなのである。
此理に由って、鰯の頭を拝めば、鰯の頭以下の霊格に墜ち、狐狸を拝めば、四ツ足以下に墜ちるのは当然である。故に斯ういふ低級信仰を続けるに於ては、不知不識、其人の心性は四ツ足以下に下劣となり、利己的となるものである。其結果、善に属する事よりも、悪に属する行為をし勝ちになり、それが又、罪を構成するから、其罪に由って何時かは不幸を招き、悲惨な境遇となるのである。
故に熱心な信仰をしながら、不幸や病気、災難などに、次々悩まされるといふ訳は、其信仰の的たる神霊が、実は、低位の神か又は邪神系統に属する神なのであるから、其点を充分注意しなければ、反って信仰すればする程、不幸な境遇に陥るのである。
真に正しい、高位の神仏を信仰、礼拝するに於ては、月日を経るに従ひ、病人は無くなり、物質は豊かになり、一家円満にして、自然に栄えてゆくものである。然し、斯ういふ信仰は洵に少いので、世の中を見渡しても、殆んど見当らない位である。
大抵の信仰は、如何程信仰しても、不幸が消えないので止むを得ず、不幸は神の試練だとか、罪障消滅の為だとか、種々苦しい言訳を作り、果は不幸を楽しむのが、真の信仰に徹底した人の如に謂ふ様になったので、実に間違ひも甚しいのである。之を以てみても、今日迄の信仰の価値は想像出来るであらふ。
然らば真に正しい、高位の御神霊は、何神で被在らるるかといふと、それは主の神の表現神で被在らるる天照皇大神様であられるのである。天照皇大神様は、最尊最貴の御神格に渉らせらるる故に、人民が自己の希望を念願し奉る如きは、寔に恐多いのである。
恐多き儀ながら、陛下に対し奉り、人民が直々に、何とも願ひ言は叶はないのと同じ意味であるのである。
此故を以て、主神は、伊都能売神を介して観世音菩薩に、救の力を与え給ふたのである。
茲に、一切衆生を救はせ給ふとしては、神の御名に於ては、其格位に対する神律上、或程度より下らせ給ふ事は、不可能であるから、止むを得ず、神界より下位である仏界に、顕現され給ふのである。而も菩薩位は仏界に於ても、低位であるから、如何なる卑しき、賤が伏屋でも、奉斎する以上、鎮まり給ひて、御守護被遊るるのである。随而、正しき事は、凡て受入れ賜ふのである。
最高の御神格に被在らるる、天照大御神様を御奉斎するには、相応の理に由って、其神床も祭壇も、荘厳にして、清浄でなくては恐多いのである。勿論一切檜造りにして、礼拝する上にも、其都度斎戒沐浴して、弥が上にも慎重な心構えを以て、なさなければならないのである。今日の如く、千余年以上、仏教弘通された為に、神を忘れてをった日本人としては、今直ちに、厳格なる式法を以て臨むのは、全く無理であらふと思ふのである。
それ故に、如何なる家、如何なる場所と雖も、それ相応に、簡略に奉斎され得て、併も如何なる願事を申しても、非礼の罪を赦させ給ふのが、観世音菩薩の大慈大悲の御心であり、又、時所位に応じ円通自在、自由無礙なる所以であり、到る処、救ひの光を恵ませ給ひ一切衆生をして一人も漏れなく、慈光に浴せしめん、有難き御本願であるのである。無礙光如来の御名こそ、洵に能く、それを表はし給ふと思ふのである。
又現今、各宗教の祭神及び本仏は、外国系統が多いのであるが、それは殆んど、世人は気が付かないのである。日本人は、最優秀の霊格であるから、それに相応しない、外国の神仏を拝むのは、大いに間違ってゐるのである。今日之程多くの宗教があり、それぞれ信仰をしてゐるに不拘、病気や不幸が多い原因としては、それ等の点も尠からずあるのである。
之を要するに、日本人としては、天照大神様を尊信し、伊都能売神又は、観世音菩薩に対し奉り、御守護と御霊徳を願ひ奉る事が、最も間違ひない信仰である事を、心得ねばならないのである。
(昭和十年)