御講話 (昭和十年十二月十一日)

今米沢さんの話中、観音信仰は真の事の願ひならば、御利益があるといふ話でしたが、どういふ訳でそうなるかを説明しますと、観音様は一番御位が高い。八百万の神仏中一番高い御位ですから、観音様を拝めば、其人の魂の位が高くなる。例へてみれば、三段ありとし今一般の人は、大抵地獄で、上等の人で中界で、大した善い事もわるい事もしない、平々凡々で生きてる方で、之でも上等の方ですが、観音様は最高の神仏ですから、拝んでると段々その魂は昇り、天国状態に入った時は、その人にはわるい事が来ない。

地獄にゐる時は、どんな工夫しやうと善い事しやうと、相応の理ですから、わるい事ばかり来る。今迄の信仰は中有界で、極上等ので天国の極く下の方ですから、それを拝んでもやっと中有界位まで昇る。中には稲荷とか天狗とか、拝む神そのものが地獄にゐるのがある。それですから、それを信仰してもわるい事ばかり起る。又中有界にゐる人でも地獄へ陥ちる。それは拝んでる神が地獄にゐる関係で、観音様を拝んでゐると、すぐにいい事が来ると思ふと、そうではない。或程度綺麗にならなければならない。

天国
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八街(中有界)
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地獄

体は霊に相応してゐるのですから、霊の汚いものは体へおデキなどとなって出て、一歩一歩清められて上へ行く。それが急に行くと間誤つくから、一歩一歩行くんであります。観音様の信仰は、人によって早く上へ行く人と、おそい人とあり、それは、その人の尽し方による。尽し方とは、観音運動の為にする手柄によるので、そうして、天国に相応すればいい事ばかりで、災難はなく苦しみもなくなってくるのであります。

次に之は話しておかなくてはならぬ事ですが、観音会は或種の宗教の如く、搾取はしない事に前からなってゐる。よく信仰によると、金を上げろ、金を上げなければ罪はとれぬ、と有る物を皆上げなければならぬといふので、結局餓死線へ行かなければならぬ事になるのがある。

観音会はそうではない。然しここに大いに問題がある。観音会が発展するに就て、本部が狭くなったので、家を造らなければならぬ。その金は、銀行が背景で沢山ある訳でもなく、政府から来る訳でもない。やはり信者の誠から出なければならぬ。で、本当ならば私の方で黙ってゐて、信者さんの方から自発的に出したいと出されるのが本当であります。

例へば、病気なら病気としても、もはや殆んど生命のない所を、観音様に戴いた人が沢山あります。又、病院へ入れば五百円千円もかかる病気でも、百分の一位の入費で、医者ならば再発といふ事もあるが、再発もなく済んだ人もあり、又、今迄医者の方の支払が、月々二三十円位宛払ってゐた人が、観音会へ入ってからは、そういふ支払もしなくてすむやうになったやうな人も随分沢山にあります。そういふ人達も医者に払ふ半分位は上げるのが当然の事なんであります。所が、実際を暴露すれば少くとも医者に支払ふ金の三分の一さへ上げる人もないのであります。

観音行はすべて当然の事をする事なので、此病気が治るには此位の費用はかかるべきものだから、此位は出すべきものだといふのは当然の事で、当然の事をすれば金は余る程入るんであります。治療代さへ払へばいいといふんだが、でも、之は吾々の手数料として支払はれるので、治ったといふ事に対し、当然の事しても、当然の半分でもよい出すべきで、仮に、御神徳を貨幣に換算するのも変ですが、その価値にしても、観音様から価値にして百円位のものを下されば、それに対し十円も上げる人は大したもので、或信仰によると、最初金を上げれば病気を治してくれる。

観音様はそうではない。最初に病気を治し、生命を助けてやらう、その後でお金を上げるなり、お礼するのは任意にしてある。で、之は最初に治して下さるんだから、搾取とは違ふ。も一つ信仰に入ると、段々商売が繁昌する。又、いろいろな御利益もあり、思はぬ金が入ったりする。そして御利益戴き、それでは之だけ上げやうといふ人は殆んどない。然し、観音様の方は強制的な事はお嫌ひですから、何とも仰有らぬ。

ですから、観音行をすれば金などは余る位になると思ふのであります。今迄の或信仰は、今迄ある財産なら財産、これを上げろといふ。観音様は今迄のものは上げる必要はない。新たに儲けさしてやるから、その儲けたものから上げろといふ訳ですから、財産の減るといふ事はないのであります。搾取的のものは非常にわるいが、観音様は銀行からいくらでも無限に出す訳ではないから、やはり金は要る。

こういった金銭上の事を言った事はありませんが、偶にははっきり言っておく必要があると思ってお話したのです。金銭について疑問に思ったり、迷ったりする人もありますし、お話するんですが、仮りに、みすみす死ぬべき人が助かったなら、一生涯尽すといふのが本当なんであります。

世の中の人の心はそうなってゐる。観音行は当然の事をするんで、当然の事を世の中の人がすればいいのであります。当然の事をする人が少いとすれば--

観音様に救はれ、或程度観音様に上げないと罪になる。そうして、それが折角向上しやうとする妨げになる。それではいけないから止むを得ず幾分でも上げるやうにいふかもしれませんが、その点をよく認識されたいのであります。今迄の宗教は、極上等で二百円使って百円のお礼を戴く。然し観音様は、一円のものを上げるとして、百円の御利益を戴くのであります。

御利益の価値を貨幣に換算するとは卑しい事ですが、そういふ訳になる。それで九十九円はいたゞく事になる。それではあまり安すぎるのです。之は序ですから、本当に救はれる為に、も少し出しなさいと言はれるかも知れませんが、あまりにもたれてもいけず、搾取されてもいけない。程よくすべてがいいといふ所に落付くのが本当であります。

最近或信者の方で、此方は非常な或事情で金の御用をしなければならない関係のある方で、一旦死ぬ所を助かって、その時家庭の事情があって金をお上げして尽す事が出来なかった。それを、少しも痛まず、それだけの御用をさせる為に、その人の家を、二三千円の相場のものを一万四五千円に売られたんで一万円といふものは、只でもらったやうなものなんですが、之は観音様がそうされたもので、私の方でその一万円を借りる事になった。

一カ年間五朱の利息で、支払ふやうに観音様からお知らせがあった。銀行に預けても三分三厘の利息なのに、それを五朱でかりる。その利で元金もふえるんですから、本当いへば、一万円差上げねばならぬ事情があるのを、そういふ風にして済まして下さるのです。そういふ特別の方でありまして、実に大慈大悲の御心と思ふのです。そういふ工合ですから、金銭問題について、迷はれてゐる方がありませうが、略々之でお分りの事と思ふのであります。

最近、大本教の検挙問題がありましたが、之につき詳しい徹底したお話をしたいのですが之から予審になるんで、十分にくわしくし難い点があり出来ないのです。たゞ事件の結末は、案外な結果になるといふだけをお話するに止めてをきます。又、事件の進んだ具合でお話する事にします。事皇室の問題に係はってゐますから、何ともお話する事は出来ないのであります。たゞ之が、ある型になる事だけは私共は思ってをりますが、どういふ型になるかといふ事も言へない。とも角何らかの型になって出るといふ事も思ってゐるのであります。

世界の状勢ですが、之は私達は非常に関心をもたねばなりませんが、だんだん時が進むにつれて考へてゐる事ですが、日本が段々すべてに於て、産業、国防等凡ゆる方面に飛躍しつつある。此勢は多々益々増えるとも減る気遣はないのであります。又、後戻りしては大変であります。で、だんだん発展するにつれて、その先の結果は一体如何なるかと、斯ういふ事を考へなくてはならない。

それは何かといふと、仮りに隣国支那、露西亜、米国と、この三つを考へて、安心出来ぬ点があると思ふ。最近の状勢をみると、支那は日支提携しやうとしてゐますが、提携すると見せ、肚は実際違ふ。北支問題も日本に頼るやうにみえてるが、一面に於て北京の学生などは、排日運動をしてるのが、昨日と一昨日の新聞にみえる。ですから、日本と心から肚を合はす腹はない。

日本に対して面白くない考へを抱きつつ、本当に融和して来ない。支那側から言へば、日本は満洲を手に入れて、あわよくば支那全土に手を伸さうと思ってゐるに違ひないだらうと思ってるに違ひないが、アメリカや英国などは本当に分割しやうといふ肚はあるが、日本は東洋平和といふ念しかない。個人々々でも肚の中を知り合って和合するといふ事は難しいのですから、国際間の事は余計にそれがひどい。ですから、結局支那は、本当に日本と融和が出来るかどうか判らない。

又、一方ロシヤは非常に大きな組織の下に軍備を拡張してゐる。最近は飛行機によってタンクを輸送して演習をやった事が新聞に見える。そうして敵の後方から逆襲して挾み打ちにしやうとするものです。ロシヤは何を目標としてゐるかといふと、第一歩に日本で東亜を大いに蹂躪しやうとしても、日本に出られてはどうする事も出来ない。又、アメリカは海軍の大拡張をしてゐる。之も日本が目標であります。

兎に角、隣国の支那、アメリカ、ロシヤ、此三カ国が日本を仮想敵国としてゐる。従ってドイツ、フランス、イギリス等の白人も、日本の勢が支那蒙古と進展してくれば、その結果、黄白の争ひが起るに決ってゐる。そうならぬうちに日本を滅ぼそうとするものが起らうと思ふ。英国としてもインドは個人でいへば、家作をもってゐるやうなもので、いづれは総掛りで日本へ来ないとも限らない。

私が観音様から知らされた所によると、万一、そういふ事が出て来た時、観音会の信者は、大変結構な働きが出来ると知らされてをります。時が来ればもっと細かい事もお話出来ますが、未だ充分出来ないのであります。

国際状勢がだんだんそういふ風に進んでゐると思ひますから、大いに吾々は覚悟しなければならぬと思ふのであります。

大本の検挙の今度の原因としては、類似宗教や新興宗教等、淫祠邪教退治の機運が動いてをります。之は大変結構な事で、徹底的にやってもらいたいと思ふのであります。世間は新しい宗教が、皆そうだと認められてをるやうですが、之は割に既成宗教の方にもあるのですから、既成新興おしなべて悪いものは潰し、よいものを育てるといふ、之が社会政策上肝腎の事と思ひます。

宗教で病気が治るなどと、そんな事があるものか、そんな馬鹿な事はないと、之を一概に迷信といふやうに説いてゐる。信仰なり、宗教を求める場合、その根本原因は何かといふと、すべてを科学で解決しようといふても科学一点張では解決つかぬ。どうしても判らぬ。そしてうまく行かぬ。いくら科学で病気を治さうとしても、科学では治らぬといふので、新興宗教へ趨(ハシ)る。

科学でどうしても治らぬから、止むを得ず信仰を求めてゆく。そして入ると、入口は大変によさそうで、中へ入ると段々、結局インチキや迷信と判ると、どうしていいか、今の人間は判らなくなる。結局、科学でも信仰でもいけない。そういふ人が、観音会へ入ると救はれるんですが、未だ小さいので、そうでなく他の宗教、どこへ入ってみても科学でも迷信でもないといふ本当のものがあまりにもない。

科学にも非ず、迷信にも非ずといふのが、観音会であります。そういふ方面の状勢をみるにつけ、そういふ人を救はなければならぬと、痛切に思ふのであります。 観音様がやられるんですから、率(ソツ)はありませんが観音様は霊ですから、やはり人間が道具に使はれてやらなければならぬ。そしてどこまでも、科学にも慊(アキタ)らず、迷信もいやといふ人にどしどし話して、出来るだけ話して救はなければならぬと思ふのです。

之が観音力で、病気を治すのは丁度それで、薬や器械を使はぬから科学でなく、又お祈りや神憑りもしないから迷信でもない。ですから、科学でも迷信でもない。幾分観音様を拝むから信仰にもなってゐる。然し、掌を使ふから念ずるばかりでもない。又、病気の治る説明も、科学的にどんなにでも説明がつく。それで、科学でもなく信仰でもなく、そうかといって、全然科学でもなく、お祈り宗教でもないといふわけで、又迷信に堕せず、科学にもないといふ事は病気治しでも判る。

要するに、凡ゆる事の中庸を得た本当の事で、真中にゐて真中の道を行くものなんであります。