御講話 (昭和十年十二月二十一日)

今、岡庭さんからお話がありましたが、最初、玉川のあの土地も変な工合で、十万円位のものが一万円位で手に入りました。之は、観音力でありますが、所が十二月二十日迄に第二回の支払として、二万一千円を払はなければならぬ。年末に差掛って、第一回に一万一千円払ひ、それから三月で二万一千円払ふなどといふ事は、人間の考えでは絶対不可能な事ですが、やはりその日迄に出来た。之も観音力で、要用だけの金はちゃんと出来るんであります。

病気治しのみが観音力ではない。凡ゆる事を観音力で自由に出来る。之からどんな仕事するにも、金などは一寸も心配はない。観音様は自由自在ですから、どこからでも金は集められる。唯、何か宮など建てる場合など、いざといふ時、この金で建てる事になってゐる。所が、多くの人を助けなければならぬ上に於て、今度は大光明世界を建設するんですから、その光明世界建設に際して、いくらかでも、その人に御用をさしてやるといふお慈悲ですから、敢て御用はしなくとも金は集る。

たゞ御用をすれば、それだけの徳を戴くんであります。ですから、是非共永遠の為、御用さしていたゞく。無理して金を突込む事はないが、そして御神徳を戴くんであります。ですから、こちらから頼むとか、請求されるといふ気であってはならぬ。どうかお使ひになっていたゞきたいといふ気でなくてはならぬのであります。

それから、観音様の御力により、約三月で半分は手に入ったやうなものです。も一つ不思議な事は、最初は十万円で手に入るといふのを、妙な事で二万円負けられた。之がすっかり決り公正證書までとり、どうしてもそうならなければならぬやうに決った。それで二万円安くなった訳です。そして玉川郷は、土地としては心配ない事になった。

最近、癌の患者が一回でその場で治ったことがあります。それは小さいのでしたが、それが進んで行くと、大きくなって子宮の中へ入る。そして重体となるんで、それでも治るんですが、一昨日来たのは初期でしたが、私が話しながら手を当てるとなくなった。もう治ってると言ったら、道理で腹を他へ持って行かれたやうで、何ともないといふのです。ですから、その癌は全く治って了ったのです。

此次の「東方の光」に、子宮癌十分間で治る事を出すつもりであります。

も一人の足の片方が太くなった病人の娘ですが、それは助けやうとする父母の想念が邪魔したやうに思はれる。そういふ事実は沢山にある。

此子は是非に助けたいと思ふ様なのは、反って死ぬ。こんな人間は邪魔者だから、どうでもいいと思ふと、反って死なないのです。之は、生の執着が邪魔するんで、治療する場合に、特にこういふ事が多い。子なら子を治療する場合、観音力の霊光注射すると、そういふ場合なかなか清まらぬ。親が無関心でゐるとよく清まる。親が助けたい助けたいと思ってゐると、親の霊が子の霊体へ入って行く。

そういふ子の病気などは、親の霊が曇ってゐるから、折角観音力で浄めてゐても、親の想念の為に曇る。諦めると親の想念が除れるから治って行く。ですから、少し危い時は諦めなさいと反対に言ひ切った方が、助かる場合が多い。病人自身でも、生の執着をとった病人は治りいい。

死を覚悟した病人は助かる。重い病人でも助かるが、諦める方が早く治る。諦めると霊体の方が開放される様になって、観音光がよく入るんで、助からう、助からうといふ時は、その人の霊身は固くなる。ですから、成可く重病人は諦めさせる事が肝腎です。

之を以てみても、飛騨さんに駄目だと思はせたのは、如何に観音様の御心持であるかが判る。ですから、人間の方では、いけないと思へばいけないと言へばいい。要するに助かればいい。すべて観音様がやってをられるのですから--。

今の話を聞いても、医者の診断の誤りは実に多い。実に間違ってゐる。皆ではないが、間違ってゐる方が多い位で、胃と肺とを間違えたり、立派な博士が手術してみたら癌がなかったんで、あわてて塞いだといふ話などあります。

斯ういふ出鱈目な医者に生命を任してるのは、実に危険であります。一番危険な事は、医者に任して医者が治してくれるものと思ってる社会程、危険な社会はない。それが判らぬから当局も之を保護してゐる。之が判ったならば、今一番取締るべきものは医者で、今は善意の殺人的機関になってをります。実に危険千万な話であります。

今度九州と北海道へ初めて出張したといふ事は面白い事で、観音様の光が、ざっと果から果まで届き出したといふ一つの現れで、大変意味のある事で、将来全国的に拡がって行く第一歩の工作であります。

講話会は成可く早くお出になった方がよい。随分早い時も面白い。為になる話があります。最初もなかなか面白い話がありました。とにかく、成可く早く来られた方がいいと思ふ。

最近、大本教と天理教の事件がありましたが、あれが出てから、こゝへ来る患者の方は減って来た。人間の心理状態は変なもので、こっちには別に関係はありませんが、一般に宗教的な事の信頼は減ったか知れませんが、観音様は実にその点は巧いんで、早速と日々新聞にこゝの記事が出た。そうしたら俄然来る人が増えて来た。検挙事件のあった前よりもズーッと増えて来た。斯ういふ事も観音様が、凡ゆる事をお使ひになってゐる事が判ります。

天理教や大本教の検挙、之は予言しておきました。

「光明世界」三号の「最後の審判」といふ所にありますが--。

又、宗教にしても、インチキや間違った事をしてをれば、どしどし滅んで行くし、それを自覚して悪を革め善に立還れば、再び伸び栄えて行くんであります。

之が観音力の偉大なる力の表れであります。又、その前に、観音力即ち東方の光は、今後月日の経つにつれて、それは凡ゆる方面に渉って--。

大本も天理も間違ひがあって、それを是正される為にあった事で、致し方ない事で、確か大本は余りにもひどい事があり、去年あたり私は予言した。

天理教など脱税問題など面白くない。商人としての場合ならば、同情すべき点はありますが、天理教などの脱税したのは驚くべきもので、その金も唯信者から出したもので、それを脱税するとは、如何に普通の商人等よりも、もう一杯見下げ果てた事で、之を神様が見逃す訳はない。

も一つはあゝいふ風な事があると、観音会等に影響があるんではないかといふ事ですが、之は大変な間違ひで、東方の光が出て明るくなるに従って、昼間になり、間違った事が消えて行くんであります。

悪といふ字ですが、西の元の心は悪で、西に出来た宗教の根本は悪ですから、どうしても清算される。悪といっても今日迄は必要だったんで、善いとか悪いとかいふ事ではない。それで脱税などする事になる。西に起ったものには、どうしても悪の分子が必ずある。それがどうして清算されるかといふと、夜の産物であり、夜の宗教だからで、秘密がどうしてもある。

昼間のもの、昼間の宗教は明るいから、そういふものがない。西のものには必ず暗い所がある。如何に月が明るくとも、日のようにはゆかない。秘密があるから、それを暴く為に官憲に家宅捜索などされたりする。その為に、これからは、凡ゆる宗教にいろんな問題が起ってくる。

昔からいふ世の終りといふ事は、世界の終りといふ事ではなく、夜の終りといふ事で、世界の終りなどといふ馬鹿な事はない。世界は永遠に発達してゆく。吾々の世界が滅亡するなど、常識からいってもそんな事はない。今迄の宗教は夜の宗教で、どうしても昼間の宗教と入れ替えになる。之は宗教だけではすまない。

宗教は霊界に属する品物で、今度、神様が光明世界を造られるには、霊界の方から先にされる。すると宗教の方から先に清算される。洗はれるから、宗教の方を先づ掃除し、それから政治、経済、教育の方面になる。そうなるといろんな問題が起ってくる。それは今お話は出来ない。

で、最初に宗教界の大掃除がある訳であります。今度の事件によって、当局も、之から大いに警戒しなければならぬと警察等、宗教課を造って大いに取締るやうですが、之は非常に結構な事で、吾々としても大いにお願したい位なものであります。

いゝものは栄える。悪いものは滅びる。観音会は昼間の宗教ですから、観音会が発展するに従ひ、夜のものはどうしても用がなくなってくる。月夜で照ってた月も、日が出てくるに従ひ、月の用がなくなり、白月のやうになる。之はどうしても仕方ない。太陽の明るさによって、月又は星は光を失ふのは仕方のない事であります。

英国は月、米国は星の型になってるが、日本が勃興するに従って、英米の光が薄れる。それと同じく、観音会の発展と共に、西の方の宗教は光を失ふ。そして、それが崩壊される。それは観音様がやられる訳でなく、私がやる訳でもない。丁度、夜が明けるに従ひ、夜の秘密が判ると、之は怒っても仕方ない。

それがだんだん光明世界が出来て行く型になる。そういふ訳でありますから、観音運動は段々発展するに従ひ、明るい世界になって行くから、他の宗教はどうなっても、相関せず焉(エン)であります。

もう一つ最近の事件で、日大生殺しといふのがありましたが、六万六千円につけた保険金を得る為に、自分の子を殺した。之の根本は何かといへば唯物主義で、此思想が第一に働いてゐる。私は「日本精神乎、猶太(ユダヤ)精神乎」といふ論文を書かふと思ってゐますが、目に見えぬものは信ずるべからずといふ、此思想を徹底さすれば、日大生殺しのやうな事になって了ふ。之がパルチザン式であります。

絶対に神も仏もないとすれば、悪い事をする方が得です。人間の眼はくらませても、神様の眼はくらませる事は出来ない。といふやうな心があれば、わるい事は出来ない。絶対の神様がなければ、人間の眼を誤魔化し、わるい事をした方が得であります。

此日大生殺しは、唯物主義の徹底したもので、悪はどこまでも無神論で拡げやうと努力してゐる。あゝいふ事が沢山あるやうに努力してゐる。

観音運動はそれをなくす仕事で、唯物主義から出た医学や薬、器械で、目にみえるもので治らぬ。観音力は目にみえぬもので、それで治る。

どうしても、唯物的の猶太文化を徹底すれば、それでいいといふ思想の唯物思想に、唯心的霊で治る事、霊で治して物質を使はないで治る事を示す。本当に観音様はそういふ事実を見せられ、良い人間を沢山作られる。でありますから、此運動をするより本当に人類の救はれる運動はない。

他の宗教は、こういふ目に見えぬ力を表はす力がない。どの宗教にも力のあるやうなものはない。ですから、既成宗教は理論で人を救はふとしてゐる。こういふ事で絶対に人は救はれるものではない。理屈で救はれるものならば、学校の修身で教はっただけで、皆善人にならなければならぬ。

偶々人の道や生長の家などでやりますが、これとて観音力の十分の一もない。何となれば、生長の家では、厚い本を十冊も読み、何回も読まなければならぬ。又病気は無いと思はなければ治らぬ。こっちは、ないと思はなくとも、本を読まなくとも治るから、その力は較べものにならぬから--。 人殺しだの詐欺だの、そういふ事をなくすのは、観音運動をするより仕方はない。そういふ訳で、結局、観音運動を大いにして、一日も早く、一人でも多く救はなければならぬのであります。