いつもお話する通り、観音運動は病気治しが根本でありまして、宗教が病を治すといふ事に就き、世間は未だはっきり判ってゐない。之は無理のない事で、今迄の宗教は病気を治さなかった。キリスト教等殆んど治さない。最近では天理教等も相当治したが、近頃は治さぬ。今迄多数の宗教によって治したのは、実はお説教や御祈祷で治すのもあり、治したんではない。
天理教あたりでも、半日位もゐて有難い神様の話して、日蓮の行者其他の祈祷者等が、汗水垂らして神仏に祈願する。それで御利益を戴き治るといふ順序になってをり、仏立講など病人があると、何人も寄合って汗水垂らして話す。人の道などのお振替などの如く、教祖がなり代る。
之も霊的のもので、生長の家などで、本を読めば病気が治るといふ。之も一種のお説教で、之は文字によるお説教ですが、赤ん坊や文字の読めない人には駄目で、極狭い範囲のもので、で、一方は霊的であり、一方は体的ですが、観音様はやはりどっちへも片寄らぬから、手を使って押したり、擦ったり、吹いたりですから、霊的でもない。そうかといって、薬や器械など使はぬから体でもない。
どっちへも片寄らぬ伊都能売式で、こういふ治し方は今迄に絶対なかった。之を世の中の人が知らぬから、医学以外に治す事を一種の観念療法といふ。で、そういふ観念で治るんでない事を大いに知らさなければならぬ。
も一つは観音会で大いに言い度い事ですが--
「観音治病力は観念療法ならず」(御発表)
結局はこゝまで行って、西洋医学で治るか、観音力で治るかといふ所まで行かなければならぬ。
「観音力療法は一切の病気治しなり」(御発表)
今読んだやうに、一切が病気になってゐる。で、一切の病気を治すのが観音会で、先刻の話の貧乏も、之もやはり病気ですから、貧病とでも言ってもよい。貧病の方は相当手間がかかる。肉体の病気にも原因がある様に、貧病も原因がある。
ですから、貧乏も日本式健康法と観音行でやればよい。たゞ難症は手間がかかるんであります。そういふ経済病の事は既往をよく遡(サカノボ)ると判る。それを早く改正して、観音行をすればよいのであります。
観音行について、病気を治すのは霊に偏るか体に偏るかですが、今迄丁度いいといふものはない。凡ゆるものが偏ってゐた。之が大きな世界の事ばかりでなく、一個人の事でも偏ると行詰る。どっちも偏らなければ開けて行って、順調に行くんであります。
私は、いつも柿を食ひ乍ら思ふんですが、樽柿の一番甘いのは、柔らかからず固からず、といふのが一番いい、あまい、あそこに観音行があると思ふ。気候でもいいのは春と秋で、物の味でも甘からず、辛からず、といふのが一番よい。
私はよく台所から聞かれるが、味はどんな位がいいかといふが、いつも丁度いいところがいいといふ。その度にいふので、此頃は聞かなくなった。すべて言葉でも、話でも、日常の事でもすべて同じ事で、余りしつっこくては嫌で、又簡単でも判らぬ。ですから、しつっこくなく簡単でない、丁度いい言葉がいい。
場合により、人により、時により、いろいろに合して行けば決して行詰らない。そういふやうな行り方や教へ方はなかった。之は観音様が出られなかった為であります。
阿彌陀様は絶対他力だし、お釈迦様は自力で、自分の力だけたよったり、阿彌陀の力だけたよったりする。丁度、その間がなかった。その間が本当の真理で、之によりすべてがよくなる。
今迄何事があっても、情に捉はれたり、理屈に走り過ぎたりしたが、情も加味し、理屈も立たねばならぬ。そこに言ふに言はれぬ味がある。そこが観音行で、もしも物がうまく行かなかったり、金がうまく入らぬとかいふ時は、必ず一方に片寄ったところがあるに違ひない。
ですから、丁度頃合を行けば行詰らない。右か左か一方へ行けば、必ず行詰るに決ってゐる。今は右がよいか、左がよいかになってゐる。右にもよく左にもよくといふ、その間がない。その間の運動が観音運動で、之より他にはない。之をどこまでも実行して行けばよい。
信仰もあまり熱心ではいけない。カンカンでもいかぬが、ぼんやりでもいかぬ。馬鹿に一生懸命やるかと思ふと、すぐしなくなるんではいかぬ。真似目にコツコツやるのがいい。どこまでもそれでやるのがいい。之が観音信仰の真髄であります。
男でもなく女でもなく、又男であり女でもある。両方へ皆観音様はかかってゐる。之が観音様のお働きを表はしたもので、どこまでも、之を本位で進まなければならぬのであります。