玉川郷秋季大祭御講話

今日はお天気も大変よくて、いつも決ったやうなものですが、大変結構な事と思ひます。観音様はお天気等自由自在になさいますから、それを多くの方に知らしたいといふ思召があるんであります。

いろんな報告は今お聞きになったでせうが、別に大したお話する様な事はありませんが、二三簡単にお話致します。

今日は、此間卅三ケ所の札所(フダショ)を参拝しましたが、お開帳の最終の日になり、こちらは十月十日にお祭りしまして、初日から最終の日まで丁度三十三日間で、之についてはいつかお話したが大変な意味がある。先刻も会長さんが話された様に、もう観音様の方では決ってゐる。

芝居のプログラムのやうなもので、どうしやうとこうしやうと、決められただけの事は出て来るんで、やるだけの事はやるんで、口ではいへぬ位大したものなんであります。それを早く知るには信仰に徹底する事で、そこへくれば疑ひがなくなる。

第一に私が観音運動に就ては、疑ひに疑ひぬいた。然しいろんな奇蹟があって判った。私は御多聞にもれず疑深い性質で、事柄があまりに大きいので、どの位疑ったかしらぬ。どうしても、そういふ大きい事をやるやうな気にもなれず、そうかといって、又大丈夫やれるといふ事を、いろんな事によって知らされて、之なら安心といふとこまで行ってやりはじめた訳であります。

天地が崩れても出来る。邪魔しやうと何しやうと大光明世界は出来る。そして全世界は統一される。人類始って以来ない結構な事になる。それが何百年、何千年先の事ではない。昭和三年から三十年間といふ。之で大体大光明世界の基礎が出来る。私が七十七の時で、早くいへば制規が出来る。それから本当の世界になる。

只今から世界は一歩々々そうなって行く。その時はすべてが非常に結構な事になる。皆が一生懸命にならうとなるまいと出来る。ただ一生懸命にならぬと置去りにされる。代りはいくらでもある。この人がグズグズすると、此人がするといふ工合になり、折角自分が役になり、結構な使命をいひ付けられても、お代りが出来る。

そうすると永久に取残される訳であります。もしか疑はれるならば、やってみられるといいのであります。兎に角結構な空前の大事業に携はらして戴く、此位幸福な事はないのですから、取残されぬやうにすればいいと思ひます。

観音様は難しい無理な事は仰有らぬ。喜んで愉快に出来る事しかやらされぬ。

今迄世界の凡ゆる大仕事など、皆非常な苦心惨澹した。今度の仕事はそうではない。苦心惨澹したら出来ない。ボンヤリしてブラブラしてゐても出来ぬ。例えば、飯を食ふにも茶椀と箸をとる位の事はしなければならぬ。それだけの手順は尽さなければならぬ。病気治しにしても、御祈祷加持で汗水垂してやるんですが、観音力では薬に出来る。そういふ訳ですから、その点は大変に有難い。

私も観音行を始めてから、随分苦しんだ事をしたが、寧ろその時は結果がわるい。そういふ時は寧ろ避けた方がよい。楽にやればよい。

どういふ事を一番気を付けなければならぬかといふと、お祭りや講話会に御無沙汰する事がいけない。それをしないと決してうまくゆかない。いざといふ時に間に合はないからお取替えになる訳であります。

それで月に一回以上は本部等へ必ず参る事で、それも難しい事でない。他の宗教などは朝の五時頃に起きて行かなければならぬ。一日一回は必ず行かなければならぬ。そんな強制的な事をせぬから苦しい事はいらぬ。そして後は出来るだけ運動をして拡めればいい。今、会員を沢山造らなければならぬ。それも無理に奨めたりするなどする事はいけない。気持よく話して先方から進んで信仰に入るやうにしなくてはいけない。その点も大いにいい。

要するに、観音力はどっちか極端になってはいけない。どうしても信仰に入れぬ人は説いてはいけぬ。又信仰に入るやうすすめてはいかぬ。機会をみてあっさりやればスラスラと入る。

そして之は別な話ですが、今世の中をみると、もう凡ゆる方面が実に間違った事をする為に、人類は苦しみぬいて、みてをれぬ位であります。日々吾々が扱ってゐる病人も、殆んど皆間違った医学衛生の為に、治るべき病気も治らされずにゐる。又、丈夫でゐるべき身体を弱らされてゐる。

又、助かるべき生命も助からぬやうにされてゐるやうに、間違った方へ走って苦しんでゐる。之を釐(タダ)すだけでも大した救ひであります。之も表面から打つかれば問題になる。今西洋医学万能で、政府もそれを固持してゐるから、吾々が、その間違ひをいへばすぐに潰される。ですから、当らず障らずにやって行く。

又、宗教は殆んど間違ってゐる。一時は一寸よいやうですが、先へ行くときっと苦しみ、貧乏をし、いろいろの災が出て来る。よく新しく出来た宗教を、邪教だのインチキなど、いろいろと雑誌に出てゐますが、新しい宗教は、そういふ事もありませうが、元気があるから存在の価値があるでせう。寧ろ古い既成宗教の方が邪教的の事が沢山あります。

現在ある宗教によって、救はれようとしても救はれず、そうかといって此儘ではすまず、仏教などでは学校へ宗教を入れるといって騒いでゐる工合で、日暮れて途いよいよ遠しといふ工合で、進退は窮まってゐる状態で、それを打開するには、大いなる光明に導く。それが観音会の使命であって、之は出づべき時が来て出たんであります。

其他、経済政治等いろいろな方面の事もありますが、それ等も大体行詰ってるのは同じ事で、近頃観音様といふ事を盛んにいふやうになったのも訳のある事と思ひます。

序でにお話するんですが、既成宗教はどこか理屈で救はふとしてゐるから救はれない。病気は理屈で治るものではない。貧乏も亦救へぬ。それで、心だけで安心立命しろといふ風な理屈を造ってるだけのものです。

近頃、観音様の事がいろんな方面に、大変に漲ってゐる。之も時期で、段々進むに従って、観音様のいろんな事が出て来る。又、よく聞かれる事ですが、御神体に大中小とあるが、あれは一つにしてもいゝじゃないかと言はれる事がよくあります。之は馬鹿々々しい事ですが、そういふ時、どういふ風に答えたらいいかといふと、すべての事は相当といふ事が肝腎で、その家に相当したのがいい。

大きな床の間に小さい御神体をおかけしても相応しない。大中小と、その床に相応したものでなければならぬ。丁度、大人が子供の着物を着てるやうなものではいかぬ。羽織の紐でも何でもやはりその通り、丁度いい相応の所に附いてゐる。すべて世の中の事柄は相応が第一で、大きい家には大きい御神体でなくては相応しない。大きい家に小さいのを、小さい家に大きな御神体を祭るのもいけない。丁度百燭の電燈を四畳半に点けるやうなものです。部屋や家の大きさによって大中小を決めるのです。

今年の十二月二十三日には、私は満五十三才になります。伊都能売の大神は五三でありますが、今日迄の会員数が五百十三人になったといふのも面白い。五が霊で、三が体で、又、五が火三が水で、今迄の世界は、それが三五で、水が上、火が下になってゐた。三が体で五が霊で、体が上で、霊が下になって逆であった。

それで、今迄は三五の月の世界だった。今度は日の世界になりますから、五が上で三が下になる。それで、何故に発展するかといふと、今迄は霊的に非常に仕事が出来てゐる。霊的には万教帰一され、世界は統一されてゐるんですが、霊的では判らぬ。私が五十三になると、三は体ですから体の働きが出てくる。それで目に見えて発展出来る。

昨年の十二月二十三日に創立され、今年の一月一日から活動を始めたんで、丁度今年の十二月二十三日で満一年になる。丁度子供に今迄お乳を飲ませてゐたが、これからは御飯を食べさし、だんだん大きくなって言葉がいへる。飯くって歩き出すといふ風ですから、二十三日は一年になる訳で、丁度、そういふ風に御神業は成って行く。そういふ風になれば、皆さんの宣伝も益々効果がある事になる。労した以上の効果があがる事になる。

観音様のお働きは、そういふ風になって、段々進んで行くものであります。