御講話 (昭和十年十一月一日)

今会長さんからお話の通り五日の観音詣りの事でありますが、今度玉川郷が出来まして、それと同時に、あちらから初めて来た三十三体のお観音が此方へお出でになった。それで、御承知の通り十月十日に最初御開帳されたんですが、其日が丁度観音詣りの初日で、今度は十一月十一日に秋の大祭をするといふ事のお知らせがありますが、十一日が観音詣りの最終の日です。これで三十三日間になります。

そして、初日と終日が玉川郷で大祭する事になった。之は深い意味があり、今度三十三ケ所の観音様が来られた。之はこちらへ御祝ひに来られたといふ事になり、いよいよ本当の観音様の活動が始まるに就て、はるばるとお祝ひに来られたのです。関西十ケ国になってをるそうです。そういふ訳で、今度私達が廻るのは、はるばると御苦労様でしたといふ御挨拶に行く訳です。

いつかもお話した通り、玉川郷は西と東の間になってゐる。今迄東京本部は東の経綸をしてゐた、所が、玉川郷は西と東の方ですから、今度は西の経綸が始まる。それで、今度三十三体のお観音様がお帰りになると、大いにあちらでお働きになる。今迄は更に西の方は開けなかった。発展がなかった。それで、今度十二、十三日過ぎると西の方へ芽が出て来るんだそうであります。

そういふ訳でありますから、今度の観音様の御開帳は、観音会とは大変な関係がありますから、どうしても万障を繰合しても行かなければならない訳で、将来西の経綸の初めになる。そのつもりで出来るだけお出でになった方がよいと思ふ。朝の八時からですから、お腹が空きますから、二食の人でも弁当持って来られるがいいと思ふ。

医療士の方に申しますが、中には郵送して来た方もありませうが、之は私の方で送ったんでない。全国治療士大会ですが、此会で送って来たものも相当あるでせうが、私の方へも来て、之は大変いいと思ひますから、三日に都合のつく方は出て頂きたいと思ふ。

驚いたのは、治療士といふ意味の療治する者が全国に如何に多いかといふ事で、相当の団体を作ってやってゐる。素晴らしいものです。之にもかいてあるが、種類は指圧もあれば浄血浄化とか自彊(ジキョウ)とか気合とか、兎に角薬を使はずに治す。中には電気等多少の器械を使ふのもある。鍼灸、按摩マッサージは、医学の方へ入り属してる。鍼や灸は試験を受けて、その免状を警視庁から貰ふてやってゐる。治療士の方は未だそこまで行かない。

斯様に治療士が増してくるに従ひ、医者なども恐畏を感じて弾圧しやうと荐りにやってゐる。それに対し此方も、医者よりも此方が治る事を主張する。そして社会へ知らす、それ等の事に就き、会とか組合を作って段々にやってるやうですが、観音会としては、それ程に重要視はしないが、一つの勢力として今後医者の方面に対抗するに、一人でも頭数が多い方がいい。

最後は理屈はどうでも頭数が多い程通る。で、頭数を多くする意味に於て一人でも多く行き、会員になって頂き度い。何かと便宜な事があるらしい。先方も頭数が多い事を望み、こっちも頭数の多い方がいゝ場合が多いと思ふ。之についても一つの運動が興らうとしてゐる。

新興宗教で今盛んに爼上に載せられてゐるのは、人の道と生長の家で、生長の家など矢面に立って喧嘩腰でやってゐる。悲壮な奮闘をしてゐる。それに対し、仏教を中心としたものがその方で、それに対抗すべくよりより運動を方々でやってゐる。之に加勢してゐるものは共産主義で、新興宗教の方はどこまでも霊的唯心的に行くし、共産主義はどこまでも唯物的ですから、反対で弾圧しやうとする。

それで既成宗教の方の弾圧と、共産主義の方がいくらか相通じてゐるやうな形で、之が文書に講演に新興宗教とは言はず、邪教撲滅というのを之から始めるらしい。それに対して観音会は、それほど社会的には評判になってゐないが、此方も社会的に認められたり、表立ったりするのは訳はないけれど、現在本部へは沢山人が来ても収容する事が出来ないから、目立たない様にしてゐる。

何れ玉川郷へ大きなお宮が出来れば、大いにやらうと思ふのです。今の所は出来る範囲でやってゐるつもりです。そういふ状態になってゐるから、観音会の観音運動は非常に面白いと思ふ。観音会は新興宗教ともいへない。観音様は古いから、然し言ふ事は新興宗教的な事を言ってゐる。然し、運動といふ名が付いてゐるから、新興宗教に見做される。

ブチまけていへば、この事は商売争ひにすぎない。新しい宗教が出来て相当信者を獲得して行きますから、今迄のお得意が新しい店の方へ行く。これは大変だと、今度出来た新店はわるいといふ事を宣伝する訳です。何となれば、既成の方で新興の方をそう研究しない。

人の道でも生長の家でも、確かにいゝ所がある。又病気によっては治る。既成の方は少しでも治るといふと、お得意をとられるから邪教だ迷信だと頭ごなしに排斥しやうとしてゐる態度は実に醜い。その中堅になってるのが友松円諦の真理化運動で、此外凡ゆる方面の仏教方面の闘士が加はり大変な騒ぎになってる。

それで丁度喧嘩するだけして草臥れたあたりの所へ、観音会が出るやうになると思ふ。そういふ運動の場合、どういふ事を言ってるかといふと、新興宗教は第一は病気治しで行く。所が、その解釈は安直で、曰く病気治しをするのは現代社会人は生活難等について苦しんでゐる。その為に病気になったり、神経衰弱になる。

之に偶々慰安を与へるものが出来たから、それに(カジ)りついて一時よくなる。その心持で病気が治るといふ。それなら既成宗教の方でやれば訳はない。丁度、新興宗教では慰安を与へられるが、俺の方では与へられない事を表現してゐるやうなものです。で、病気に対しては現代の医者は甚だ冷淡で、新興宗教の方は親切で、その心持によって治るといふ。

すると、之から医者の方で新興宗教のやうに親切に情を尽せば、大いにそれによって病気は治ると、斯ういふやうなのは盛んに称えられてゐる。それに対して観音力は慰安もくそもない。疑はふがどうしやうがこうしやうが治ると、いろいろ科学的な説明もしたいが、今は設備がなく受とれないから説明する事が出来ない。それで、こういふ様に既成宗教の方でいふのも無理はない。



生長の家では、病気は一切心で治ると説いてゐる。病気がないと思へばない、病気があると思ふと治らぬ。又、人間は罪の子にあらず神の子仏の子であるといふ。それと思へば病気はないといふ。ですが、医学でいへば、精神的にそうと思ふとか、信ずるとかいふのは観念で治ると解釈出来る。それで生長の家も不完全ですからそうとられる。

観音会はそうではない。といひたい所ですが、ハデにせずボツボツやる。今度の「東方の光」にも一寸出してみましたが、もっと医者に最後には医科大学の総長に実験を申込む。そして大学へ、入院患者に、医者の方が治るか、観音力の方が治るか、実験を申込む。之は総長として受入れなければならない。受入れなければどんな攻撃もする。最後はそこへ行かなければならぬ。然し未だ準備が出来ない。

生長の家では、病気はないと思へば治るといふが、それに対して観音会では病気はあると思っても治るといふ。生長の家の方は、病気はないと思はなければ治らない。観音会の方は有ると思っても治る。この違いさは大きい。実際そういふ論議をしてゐるのをみるとはがゆいんですが、未だ時期が早いから虫を殺してゐる訳であります。

ですから、医者に属してる階級と既成宗教と之等が一方のかたまりで、又こっちの方は民間療法の治療士達と新興宗教と一団となって、一つの戦とならうと思ふ。一日一日こういふ機運になってくる。之が現状維持派と政党との戦と同じ事であります。 も一つ大きく言へば日本と外国と戦ふのも同じ事です。

も一つお話したい事は、本当の事をいふと今迄いろんな病人を扱ってゐるが、本当に診断すれば、内部まで見透して診断すると、どんな人でもみな膿だらけといっていい。どんな方でも体内はとても汚いもので埋まってる。よく生きてると思ふ位です。何故生きてるかといふと、未だ霊界は夜ですから結構それでやってをれる。だんだん明るくなると、汚いものが浮いて出て来る。そうすると出来物や皮膚病になったり、いろいろな病気になる、之が大変な事になる。

その実例として、相当古い信者で、相当立派な信者の方で、その家庭四五人はみんな二月ばかりの間、皮膚へ吹出てる。手も腐ると思ふ位です。子供なども実に可哀相で、痛く痒くてねられぬといふ位苦しい。そういふのは、その人だけではなくて皆そうで、観音会へ入らぬ人でどの位あるかしれない。そうならぬ人は死ぬ。その時期が大分近づいてゐる。

観音様をお祭りするとおデキが出来る。それは光によって浄まるから、死ぬやうな病気も、そういふ風にして助けて下さる。掃除をして下さるから結構なんで、外の宗教でも入信してから、そういふ状態になるやうだったら、それは本当のもので、そうでないものは夜のものだから助からない訳であります。

未だ未だ大きな事をいふと誤まられますが、本当は観音会へ入らぬと助からぬ位で、浄められる人が光明世界に残る人で天理教へ入らなければ滅びるとか、大本でなかったら救へないとか死ぬとかいふが、そういふ事を実際的に示さぬ。たゞ予言として漠然たるものです。観音会では実際的に知らせる。お祭りするとおデキが出来るから、浄められて助かる事が判る。

ですから、出来るだけ観音運動の御手伝ひをして、観音行をして汚れを少しでも余計に浄める事で、要するに軌道にのる。正しい信仰ならば苦しまずにすむ。それでだんだん浄まる。中には下痢で血が下ったり、膿が下ったりする人もある。こういふのは極いい。軽くすむ。そうするうちに心もよくなる。

人間はどんな人も癖がある。そういふものが除れてゆく。そして凡ゆる人と調和してゆく。心が綺麗になって和む。二三日前にこういふ人があった。観音会の人は皆顔色がよいといふ。之は大変結構で、そうなるべき筈で、段々時機が経ってゆくと、観音会以外の世間の人は非常に病人が多くなり、死ぬ人が多くなる。

之はそろそろ始まってゐる。何よりも此間人口増加の発表があった。一昨年は九十何万人、去年は八十何万人で、一昨年より昨年は十何万人少ない。斯の如く増加率の減るのは大問題で、仏蘭西が心配してるのは、此増加率の減る事ですが、日本も一昨年より昨年が十一万人も減ってるから之は大変な問題です。所が、斯事は問題にしない。医者の方がそうすると工合がわるくなる為かもしれませんが、もっと問題にしなければならぬ事です。

非常に人間の身体が弱くなって、病気に罹り易くなってゐる。つくづく思ふのは、近頃大分ブルジョア階級の、査べてみるとより以上に、子供などフワフワしてゐる。現に今ここへ治療に来る或金持の子など、やがて二つになるんですが、今もってお粥と柔いお菜で、お菜は全部裏漉(ゴシ)して食ひ、お香物など一遍も食べない。それで屁を放(ヒ)っても下痢をする位です。始終胃腸がわるく、風邪を引易い。

医者にかかってゐたんですが、ここへ来て段々日本式健康法をした所、次第に丈夫になって来た。父母は天津(テンシン)にゐるんで、天津で医者に此子はここへ置いては生命が持たない。日本へ行かさなければいけないといふので、母さんだけで日本へ連れて帰った。それで今お婆さんが育ててゐるんで、こゝへ最初来た時は飯を食はせぬと言ってゐたんで、飯を少し宛食はせねばいけないといふと、それを早呑込みして……。今日は一かけ食はせ、何ともなければ明日は一かけといふ風にする様にといったのを、最初から食はした。又、お菜は裏漉をやめて歯で噛むやうに奨めたのです。

実に今日の医学の衛生は、如何に人類を弱らせるか論議の余地はないのです。 そういふ訳ですから、その度に上流に生れた者は不倖せだと思ふ。皆ヒョロヒョロしてゐる。今日町を歩いて、小学校へ行く子をみると、青瓢箪のやうな癩病の系統のやうな眉の薄い子供が実に多い。それは何かといふと窒扶斯の予防注射とか、疫痢の予防注射とか、牛乳や肝油等を呑ます為に弱るんで、学理上だけで実際上の事は知らない。実に子供は可哀想であります。

そういふ間違った事を、之から観音運動によって救ふのですから、なかなか大事業であります。