御講話 (昭和十年十月十一日)

昨日は大変にお天気が良くて、御承知の通り今日はこの通り雨が降った。一日の引越しの時はお天気が良かった。二日に雨で、斯ういふ工合に観音様は、天気を自由にされてゐる事がよく判る。天気を自由にするといふ事は絶対力でなくては出来ないので、如何に絶対力であるかが判りますから、今度なども天気の悪い事などは考へずに準備したんですが、もし今日のような天気ならばお祭りは出来ず、外の人は傘をさしてゐなければならなかった。そうすれば昨日のやうないゝ気分はなく、仕方なくやるやうなものですが、実に結構でした。

でありますから、すべても此お天気と同じ事でどんなにでも自由になる。而も昨日もお話したやうに、十年十月十日といふ事ですが、丁度越したのが一日で、その十日目にお祭りするなど一日も違はず、ピタリピタリと行ってゐる。之が絶対力で、たゞそれ程の力が目に見えぬから判らぬ。力といふと目にも見える顕著なもののやうに思ふんですが、力があればある程目に見えない。振り返ってみると素晴らしい動きがあって、観音力といふと激しい強い力が働くやうにみえる。

ファッショなどはあれは人間力で観音力からいふと、あんな事をせず何でもなくヱチオピアが伊太利の手に入る。こゝが人間の考へと違ふ。玉川郷が欲しいと思ふと金づくで掛合ったり談判したりすると、如何にも力があるやうにみえるが、それは力のない事で、力のあるのは、天然自然に何もせず入ってくる、之が力であります。 病気治しなども、器械や薬も使はず講釈も要らぬ。

生長の家のように、有る病気を無いと思へなどとはいはぬ。有るものは有るんで、それを無いと思ふ努力は大変なもので、之も如何に生長の家の力がないかを表明してゐるもので、あるものを無いと思ふ努力、此位の努力はない。こゝに電気があるが、之を無いと思へなど、こう思はなければ病気は治らぬなど、如何に無力であるかを表明してゐる。言ひ換へれば、無力を斯くの如く表明してゐるやうなものであります。

観音会の方は病気があると思っても治る。思はなくても病気はある。之が本当の神の力であります。あるものは有る。あるものを無くす、之が本当の神で、神の力であり、あるものをなしと思ふ、之は人間の力であります。力といふものは反対に考へたがる。角力をとっても、力を入れて向ふを追っぽり出すなどは本当の力ではない。取っ組まずに先方を倒す、之が観音力であります。ですから、観音力は頼りないやうにみえる。

それで病気を治すにでも、そう撫でたりさすったりして病気が治る。そんな事で病気が治るとは判らぬが、病人の方でよくなったといふので、変に思ふ位であります。ですから、いくら生長の家をやってもタカが知れてをります。あれが滑稽なのは、本を読まねば病気は治らぬといふが、そうすると急病人は治らぬ事になる。

本も厚い本を一遍読んだだけでは駄目だといふ。病気が治らぬと本の読み方が足らぬといふ。何遍読めば治るといふ事はいはぬ。すると教育のない土ん百姓などは治らぬ。とてもあれだけのものは読めない。そうでなくとも難しい新しい書き方ですから、相当のインテリでなくては判らない。

余程哲学的趣味でもなかったら読めない。そして又野蛮人は救へない。黒人は絶対に救へない。それでゐて万教帰一だなどといってゐるのはおかしい。帰一と言った所で、アラーの神など拝んでる土人みたいなものは救へやしない。よく人の話題に上りますからお話してをきます。

人は神の子といふ。人間は罪の子じゃないといふ。罪の子といふのは嘘で、神の子、仏の子だといふ。罪の子と思ふが故に罪を犯すやうになる。実は神の子であって罪の子ではない、と思へば神の子になる。之もおかしい。何となれば、現実に罪を行はぬものはない。

恐らく生長の家の信者の誰でも罪を行はぬものはないと思ふ。いくら神の子仏の子であるといっても、そういふ人は万人に一人か二人しかないでせう。本当いへば神の子であり、罪の子であるといふべきで、皆半分しか言ってゐない。どこまでも罪の子であり、神の子であります。

人間は向上すれば神の子だし、堕落すれば罪の子になる。一日の中でも神の子にもなり、罪の子にもなってゐる。之は仕方がないので、たゞ或範囲を越えなければそれでいい。美しい女を見て無感覚でゐる人はない。アゝ好い女だ、妾にでもしたらと誰しも思ふ。之は私も思ふ。之はキリスト教ではそう思っただけでも罪になるといふ。実に野暮な話であります。

そういふ心を起さす心を造ったのは、やはり神様であります。金持の子などをみると、巧くやってやがら、ぶっつぶしてやりたいと貧乏人程そう思ふのは仕方がない。たゞそれを行に表はさなければいい。罪の子の部分より神の子の方が勝てばよい。あるものは仕方がない。賀川豊彦が言った事に、善悪は電信の符号のようなもので、良心が切れると又悪が続き、又切れては続く、一寸切れては繋がる。これは大変よく出来てゐる。これによれば、繋がった時が神の子で切れた時が罪の子になる。たゞその切れた時が短かければいい。

斯ういふ事も真実にふれず頗る独断的であります。又、物質は心の影といふ。之は心の方からいふので、物質は心の影になる。これは見方によって違ふ。

こゝに観音行が絶対真理である事を識るのであります。すべてに於て絶対に決めない。そこに真理があり、昔から善悪不二、一如とかいふ。人は神の子であって罪の子であるといへば、絶対に行詰りや見当のとれぬやうな事はない。ですから、生長の家は一方では非難される。今度高津精道といふのが裁判所へ告発した。生長の家の欠陥は、一方へ決める、それでやられる。今後観音行で行けば、どんな事でも決して負けない。応変自在であります。

次に病気治しについて、観音様を奉斎さしておいて治すのと、そうでなくて治すのと大変な違ひがあります。本部へ来る人でも、観音様を奉斎しなくてやると長くかゝり、奉斎した人は非常に短くてすむ。それが実にはっきりしてゐる。況して医療士の方などがする場合、特にお祭りするとしないとの違ひさは大変なもので、少くとも三倍は違ふ。

風邪とか腹下し位はよいが、少し慢性になると、どうしても観音様を祭らせなければいけない。お祭りさすと非常に楽であります。それで此方も先方も助かる訳であります。といふのは、以前話した事もあるが、お母さんは真宗に凝って、とても頑固で観音様をお祭りしない。観音様をお祭りする位なら、治してもらはぬといふ。娘の病気は治らなくてもいいかといへば、治らないなら娘一人位犠牲にしてもいいといふ風で、その娘は掌の指が曲ってゐて、合すとピタリと合はなくなってゐる。

又、座ると足が曲らない。阿彌陀さんは外国の仏様で、日本人が拝むべきではない。その娘は此所へ来て治療すると、踵(カカト)が三分か五分位つくようになる。それが翌日来るとズーと離れてゐる。又、短縮して家へかへると又戻るのです。阿彌陀さんは夜の仏様故、それをお祭りすると家が暗くなる。いくら光で治しても又暗いところへ行くから戻る。それで此間は、観音様をお祭りしなかったら仕様がない。どうしてもお祭りしなければ、その病気は駄目だと言ったんで、それっきり来なくなったんであります。

観音様をお祭りすると、どうしても病人が無くなる。病人がなくなるから、病が無くなる訳であります。で、医療士の方は、観音様をお祭りさせる事が一番肝腎なんで、も一つの意味は、本来観音力で病気を治すのは、病気を治すのが目的でない。信者を増やす上に於てするので、病気の治る事を知らすのみでなく、観音力の偉大さを知らすんであります。

そして、観音信者を作る事が観音運動を拡げて行く、その最後の目的は大光明世界の建設で、その為の病気治しであります。そういふ目的ですれば、いくらでも病人が来る。観音様が連れて来られる。病気治しが主となると、病気も思ふやうに治せず、病人も来なくなる。大光明世界建設の為に信者を作る。

その為に観音様を祭らす、祭らす上に於て観音力を知らす、観音力を知らす為に病気を治すので、それが病気治しが本位になると病気は治らなくなり、収入が少くなる。収入を得る事を本位とすると収入がなくなる。そういふやうな大きな目的でなければならぬ。

観音様をお祭りして順調にゆくべきものが、ゆかなくなるのはどっか間違った事をしてゐるのですから、よく考へると、必ずその点がありますから、そこを改良すると又うまくゆく。その故障の事も大きな見地からみればよく判る。それがはっきりと気が付いて判るやうになった人が、身魂の磨けた人であります。

今日も斯ういふ人が来た。非常に商売が忙しいが、いくらやっても結局肝腎の所へ行くと駄目になってうまくゆかぬ。で、原因が判ってみると、その人の家には不動様を外に、弁天様を内に祭ってある。弁天様は龍ですから外に祭り、不動様は内へ祭るべきものであります。それでものが逆になって行く。それでは力が足らぬから、観音様をお祭りするやう奨めた訳です。

それでお受けして行ったんですが、順序が違ふとその通りに行く。観音様を祭ったり祭らしたりするのに、他の神様が上になると、どうしてもそれ以上お力が出ないから御利益も薄い。それで順序とか障りとか、気をつけると大変な違ひであります。

神仏でなく人間でもそうで、奉公人を二階へ寝かし、主人が下へ寝るやうでは、その奉公人は必ず言ふ事をきかぬ。之は子供を上に寝かしてもそうで、妻と夫が寝る場合でも部屋にも上座下座あり、上座の方へ奥さんが寝るのは違ふ。病気を治すのも治療する人が上座へ、下座へ病人をおくべきもので、私はどこの家へ行っても上座に行く。

本当は宣伝の場合もそれでいいが、場合によってはそうはいかぬ。時と場合によっては下座にもなる。そこは千変万化で、臨機応変にやって行けばいいが、原則としてはそうであります。然し、病気を治す場合は絶対的に上座にならなければならぬ。

すべて一寸した事に大変な関係がありますから、そういふ事に気を付けなければならぬのであります。話の工合でも、病気を治したり、話するにも一寸した事に呼吸があり、いふに言はれぬ点があります。之は非常に難しい非常に面白い事であります。一寸した思ひ方でよくなる事もある。

生長の家で言ふ本を読めば治るといふのは、一つの暗示であります。之とは違ひますが、私も之は時々使ふ。もう治ったんだといふと快くなる事があり、暗示といふものは非常に力がある。