お話の前に、お知らせする事があります。それをお話致します。
御承知の通り段々進展して来ますと、本部が出来なければならないんでありまして、御承知の通り、此家が仮本部となってをります。そして、今年の一月元旦から仮りに本部として使ひ始めたんであります。到底将来はもっと、ずうっと大きな本部が出来なければならぬ。然し人間がやってゐるんじゃないから、いくら此方でやきもきした所で、観音様の方の仕度が出来なければならぬ。
応神堂を五月五日に引越して、今の自観荘へ私が住む事になった。自観荘へ越してみると、どうもどっか本部となるべき所を、予め査べておく必要があると思はれて仕様がない。六月五日の日が休みですから出かけた。それは玉川方面へ気が向いて仕様がない。それで、玉川沿岸の高い所を査べてみると、六郷橋から玉川の手前の方の沿岸を査べてみると、砧といふ所があり、小田急の線路の直き手前なんですが、その辺までグルグル廻って歩き、家へかへったのが五時半だった。
それで大体の地形だけ判ったが、どうもここといふ所がない。今度は凡そ此辺と思ふ所を、もう一遍査べやうと思ったんで、その話を会長の竹村さんの奥さんに話した所、会長さんは之を聞いて、それは結構だ、又行きませう、といふので、十五日の日に出かけた。で、今度は無駄な所は、必要がないから、ここと思ふ所を通って歩いてゐるうちに、竹村さんが玉川方面の御出身ですから、菩提寺に立寄って住職に聞かれたのです。
それで先の亡くなった田健次郎といふ人、之は男爵で、今迄生きてをれば一遍は総理大臣位になってる人で、その人の屋敷が売物になってるといふ事なんで、それを見やうと行った。その時もこゝと思ふ様なとこはみな廻ってみた。場所のいい所としては、岩崎別荘とか成城学園等廻ったが、それらしい所はない。どうしても本部になる所は、普通の所とは違って、自らそうなってゐる所でなくては仕様がない。普通の畑や森などでは駄目であります。
それで田さんの所をみると、木の間からかすかに茅葺がみえる。それで、そこは竹村さんの親戚の又親戚で、そこへ行って聞いてみた。そして見ると実に吃驚した。あんまりよくて立竦(タチスク)んだ。そして一も二もなく、之だといって、之は用意してあったものだと言ったのです。
それは庭の地形といい、又高さも一番高い所だし、全部で七千五百坪あり、特に半分がよく、三千二百坪といふのが別になってゐて馬鹿にいい。そこから見下すと丁度下は桃畑です。そこの所だけが桃畑で、そこより外は全部田圃で、その先が玉川があり橋が見え、そこから武蔵野の丘続きになってゐる。恐らく東京中探しても、あの位の眺望の位置の良い所はないと断言してもいい所であります。
処で、丁度三千二百坪と四千二百坪と別々になってをり、三千二百坪のいゝ方は、その時の向ふの親戚の話では面倒な事があるから、四千五百坪のいゝ方を手に入れるように言はれたが、私としてはいゝ方を先に手に入れなければならぬと思った。処が、その御親戚は良い方はまるっきり手づるがないと言はれる。それから帰る早々玉川郷と名を付けた。
然し、之が全部手に入るには、二十万円位要るんですが、一文も金がないんですから、こゝへ入れるなどといふ事は、まるっきり空想に等しい事で、病気が治るよりも、もっともっと奇蹟がなくては駄目だ。然し、どうしても此所に違ひないと自分で決めた。之は決める訳はないのですが、どうしてもそう思はれる。
すると、大森支部の岡庭さんの所へ病気治しに来た人があり、聞いてみると、田さんの長男の篤といふ人がそこに住み、男爵を襲名してゐる訳で、その病気治しに来た人は田さんの息子と、殆んど君僕の友達位の間柄なのです。その人が聞いてみて上げませうといふので聞いてくれた。
それが切(キッ)かけで、又見にも行ったりしてるうちに、奇蹟から奇蹟のうちに、とうとうその二百坪のいゝ方だけ、今日手に入る事に話が決った。そして決ってみると金も極僅かで、個人として算段の出来る位の金で入れる位になった。いづれは建物も建てなくてはならぬが、殆んど奇蹟の連続で入れる事になった。
最初は竹村さんが御親戚へ行かれるので、自動車を降りてると、清水さんが入る。私も入ると、家内は人の家へ入っては駄目だといふ。然し通り抜け無用とかいてあるから、見ても構はない。書いてある事なんだからと、そうっとおそるおそる行ってみた。清水さんがお庭を拝見さしていたゞき度いと頼みますと、どうぞ御覧下さいとの事で、おっかな吃驚見た訳であります。
その次に玉川の方に安い地所があるといふので、如何かと思って案内と一緒に行ってみると、大した所じゃなく、序にそこへ行ってみようと行ってみた。そういふ時に清水さんは、全くいい意味で図々しいので、充分御覧なさいと言ったんで、ゆっくりとよく見た。所が見れば見る程いい。
大抵な家は、最初見た時はいいが、二度三度となるとアラが見えるものですが、見れば見るほどいゝ。然し何とも当はなし、どうなるかと思ひつつも話は進んで来て、家の中を一遍みたらどうかといふので、三度目に行って家の中をすっかり見た。すると、家の中も思ったよりも使ひ道になる。
然し、何にも此方の方では入るあても何にもない。一体どうなるかさっぱり判らぬ。そうする内にだんだん話が進み、いろいろややこしくなったが、兎に角来る一日に越すといふ事に決めた。
今年の一月元旦に此所を創(ハジ)め、十月一日にはもう越せるといふのは非常に早い。馬鹿に早い位であります。然し、そういふ順序になって了ったから、人間的の想像は全然出来ない。観音様は実にその変り方も非常に妙を尽してやってをられる。今約半分が手に入り、後半分は無論手に入る事になる。如何いふ風に手に入るか、又、観音様が素晴しい奇策妙法を施されるだらうと思ってゐます。
あっちへ越したら見物だけでも価値があります。之から紅葉もいいし、何だか遊山のやうになりますが、藤もあり、之は東京第一だそうで、白紫と両方あって、今上陛下が行幸遊ばされた時のお泊りの部屋もあり、記念の為相当の方法をするつもりです。又、お手植の松もあります。
何故そういふいい所を、未だにそうして人が入らずにゐたかといふと、第一番にその為で、陛下の御泊りのお部屋は、うっかり普通人が入れば困る。そういふ点が残しておく因になる。今迄に三度も話があったんですが、みな其為に破談になった。そういふ重大な記念物的意味があり、田さんもやたらに人に後を譲れない。支那料理屋などもいい価で言って来た事もあったが、そういふものには譲れず、今度観音会に就て先方は大いに喜び、欲得でなく譲る気になったものなんであります。
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陸軍のパンフレットが最近出ました。あれはよく問題になるものですが、それを或人から寄贈されて読んでみた所、観音運動に或意味に於て共通した点があり、そのお話しますが、斯ういふ事がある。
世界と日本との非常時の根本がかいてある。なかなか面白くかいてあると思ったんであります。それは何だといふと、世界からいふと、世界を二つに分けて、二つの国に分けると、満足国と不満足国とあり、満足国は世界の凡ゆる部分を分捕って、そして現状維持をどこまでもして行かうとしてゐる。
不満足国の方は、国が狭いにも拘らず人口が増える。それをどこかへ掃かなければならぬ。之は日本を指していった事ですが、時勢は斯ういふ工合にして、不満足国をそのまゝにしておくと、どこかの掃け口を求めて、利害の衝突といふ事になる。
それが此前に問題を起した為か婉曲(エンキョク)にかいてある。国内に於ても又そういふ様に、現状維持派と、どこまでも積極的に進展して行かなければならぬといふ派で、どこまでも軋轢するといふ。之は非常に適切な見方と思ふ。
大体に軍人は非常に頭がいい。政治家の意見など聞くと実に頭がわるいが、軍人の方は非常にいい。それは何だかといふと、軍人は実際に国を思ふ念強く純な為で、私の心や、自分の党派の利益などといふ事はない。本当に日本をよくしやうといふ純情の為に頭がいい。政治家はどうしても我党といふ事にとらはれる。
政治家は巧い事を言ひ乍ら、結局に於て国家全体の利益よりも政党の利益を計り、又、政党の利よりも自分の利益をはかる事になる。政党の利益を計っても、国家が進展すれば結構だが、今後の日本を背負って立つとしても、日本を進展さすといふ上に於て、ロシヤが御承知の通り、益々軍備を充実して支那に向って働きかけてゐる。之が支那全土を赤化するつもりで、だんだん勢力を増して行く事を考へたらじっとしてをれぬ。
米国は一九三一年になれば、日本よりも海軍力は非常に多くなる。どうしてもそれに対する国策をやって行かなければならぬ。で、それに対する国策をやってくれれば政党もいい。然るに甚だ微温的で、どうしても国を真に思ふ者はじれてくる。それが非常時となると書いてある。
観音会がやってる事は、現在は病気を救ふ斯事になってゐる。之が丁度現状維持派に対しての改革をしやうとしてゐるのと同じで、たゞ之は世間の非常時よりも危険はない。誰も心配したり傷つけたりする事はなく、反対に、反って人が助かる。何故かといふと、病気に対する方法としては、西洋医学一点張りで固めてゐる。網の目を張ったように一分の隙もない様に出来てゐる。
之を釐(タダ)して病人がなくなり、日本人の体格が良くなれば何をか言はんやですが、講習を受けた人は特によく判りますが、西洋医学で満足すべき所でない、大変な間違ったもので、観音力の方が馬鹿に能く治る。先刻も誰方かのお話で、博士が親切に苦心に苦心しても治らぬといふものが、岡庭さん所へ来て段々よくなったといふ話ですが、之からいふと博士と、素人同然のもので、少し講習をうけた人が、博士で治らぬものが治る。斯ういふ事実が発生したからには之でみても現状維持では駄目で、一日も早く誤った西洋医学を改革しなければならぬ。
それで、日本はどういふ風に進展したらいいか、先刻の改革派の問題意見も必要ですが、そういふ事をするより、何よりも先に、先づ人間が健康である事、日本人の健康が根本の問題ですから、どうしても之に向って全力を尽す事で、最初の手初めに、先づ日本人を不健康から救はなければならぬ。
近頃の事実をみると、病人など衰弱して骨と皮になって死ぬのは少なく、丈夫でピンピンしてゐて死ぬ。床次逓相なども大変元気で、もう少ししたら出庁せねばならぬと、書類を持って来いと言ってゐた翌日に死んだ。斯ういふ事も沢山ある。
之をみても医学は益々早く解決つけるやうになって来たんじゃないかと思ふ。
いゝ方の解決をするには、なかなか難しく、悲観の方の解決を……斯ういふ事を思ひ切って書く事も喋舌る事も出来ない。
人間を助ける事をオッカナ吃驚しなければならぬ。盛んに人の寿命を縮める事を自由にしてゐる方は自由にしてゐる。之が世界の満足国で、どこまでも現状維持派のやってる事と同じであります。
パンフレットに斯ふいふ事がある。強国が沢山の国を擁して、それに反対し、又反抗の行動を執る者は、世界平和の撹乱する者……と、之は面白く言ってあります。先の軍縮の際の五対三といふやうな訳であります。
世界の現状をみると、強国なら強国が沢山の殖民地を擁してる。丁度ヱチオピアのような場合に、その強国のやる事に対し、即ち現状維持派に対して反対の事すると、平和を撹乱するものとされるといふ訳です。
又、斯ういふ事が書いてある。世界の人口の少い国や、資源の足りない国が、止むを得ず他に資源を求むるのに対して、他に求むる事はならぬ。又、沢山の人口、又国を持ってる国は、それを平均させる事がなければ、世界の平和は絶対に来ない。之は洵に卓見で、之が最後の結論と思ふ。
例へば、英国はあっちの濠洲等持ってゐて、他国民の出入を禁じ、アメリカは非常に大陸の移民制限をやってゐる。之は不合理であります。
日本は世界一の人口稠密(チュウミツ)な国で、沢山に広い土地を持たねばならぬ国で、何等かの方法によって移民をさせる事にならなければ、絶対に世界の平和は来ない。之が最後の解決すべき事で、之を吾々のやってる事に当て嵌めてみれば、医者の方でも民間療法でも、本当に病気の治るものなら何でもする。そして、お互ひに人の助かるやうにすれば、何のイザコザはない。西洋医学より何十倍も治るものが出ても、それは用ひない。丁度今の之も同じ事であります。
私の観音力治療と医者の方と比べると、百対一で、現代医学が一なら観音力は百の割合ですから、どうしてもお医者を減らし、観音力で治すやうにしなければならぬと思ふ。
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偶像崇拝といふ事を言はれてる。昔から特にキリスト教の方で言ってゐる。何か木仏でも金仏でも拝むと、偶像崇拝だといふ。そういふ意味からいふと、基督教もやはり偶像崇拝です。天を拝しますが、天なら天として見えざる神を想像して拝する。やはり之も偶像ですが、観音会はそうはいへぬ。観音様は生きた人間を使ふから、生きた人間は偶像にならぬ。故に、或は今度の「観音運動」の為に偶像崇拝といふ事を言ったんだと思ふ位であります。
此前にお話しましたが、高等の学問をうけた人は割合に偉い人にならぬといふお話した。近頃よく論文などがあって、人物が段々なくなって来たと、床次氏が亡くなったに就いて新聞等の論説に出てゐるが、後その人に代るべき人間が段々小さくなる。昔の原敬とか、伊藤公などのやうな人物は、その人亡くなると出なく、今はなくなったといってゐる。之は事実に違ひない。
ひとり政治家のみでなくして実業家芸術家などにしても、今迄あったやうな優れた芸人や画かきなども大変になくなった。画の方なども明治時代の名人としての雅邦・芳崖・是真など、又、最近にしても栖鳳・大観などの後継になるやうな人がない。芸人でも先の団十郎・菊五郎・左団次等に匹敵する人はない。今日若いからといっても、そう若いものでない。私は芝居をよく見たが、第一身体の威厳からして違ふ。団十郎などの身体の威厳は素晴しいものだった。団十郎は今以て好きです。
私の子供の時からみると、段々と人物が小さく平凡になった。それはどこが原因かといふと、学問の発達で、その為理屈に捉はれる為で思ふ事が出来ない。政治など理屈に外れた事をするのが偉い。それで人物が少なくなったのは、たしかに学問の発達の為で、その代り中腹の人が多い。以前は下らぬ者も多かった。所が、今日は下らぬ奴と偉い奴とが均(ナ)らされて、偉い奴も下らぬ奴も少なくなった。丁度、山が谷になったやうなものであらふと思ふ。
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観音様をお祭りして、トントン拍子に面白いやうに行くものですが、どうかすると思ふやうに行かぬ事がある。その時にフラフラとして変だと思ふ事がある。どういふ訳かといふと、どこかに間違った事がある。そこを考へればよい。
観音様は非常に几帳面で、間違った事はお嫌ひですから、もし思ふやうに行かない時には、スラスラ行かぬとかいふ時は、必ずどこかに違ひがある。そこを直して行くと、又スラスラ行く。それを心得ておかなくてはならぬのであります。