只今発表した、大黒様の御賽銭ですが、一番高い投票は二百五十幾円といふので、之は景気のいい方で、一番下の方で三十幾円といふのがあり、之は又馬鹿に遠くなっちゃった。非常に面白いと思ふのは、五十七円五十五銭といふのに対して、五六七(ミロク)といふ方が非常に多く、之は五六人あった。
それで五十六円七十一銭の方が五等で堂々と入った訳で、五十七円から五十六円七十銭を引くと三十三銭残る。五十七円五十五銭から五十七円を引くと五十五銭となる。五十七円を基点としてみると、外が五十五銭、内が三十三銭になる訳であります。
それで、五五、三三になる訳で、五は表の数、三は内の数で、五が日、三が月ですから、之が伊都能売になってゐる。五五、三三を入れかへますと八十八になる。伊都能売は五三で八になる。ですから八十八といふ事は、伊都能売の神を開くといふ事になる。お賽銭の数にも、こういふ神秘があると思ふのであります。
之からいろいろな仕事をして参りますけれども、重なる運動の仕事としては、病気のない世界を造ることで、医学の革命、又宗教改革であります。宗教改革は昔マルチン・ルーテルが宗教改革したんですが、そんなものじゃないんですが、改革といふ事が人口に膾炙(カイシャ)されてるから、それを使ひます。
要するに、迷信が自滅するといふ事で、之から東方之光と光明世界へ、迷信の実例を出したいと思ひますから、迷信の実例の材料があれば、投書して戴きたい。そして世の中の人の目を醒ますといふ事が、必要な事です。
最近あった迷信の実例として、非常に面白い事があった。之はお稲荷さんといふ意味ですが、それを祭っておられたんですが、今度、観音様を祭られたので、その御神体を処分したいといって持って来られたので査べてみると、何か狐の毛が三本あるといふのです。行者が或日、自分の部屋の畳の上に狐の毛が三本あったといふので、之は慥かにお稲荷様が来て毛を残したに違ひないといふので、一本十円で分けたので、その方は三本貰ひ三十円出したそうです。
中を開けてみると立派な金襴で包んであり、中に小さな鏡がついてゐる。開けてみると、又中に金襴の袋になってゐる。段々開けてみると、長方形の袋がある。段々破ってみると、黒茶色の毛が一本入ってゐる。三本あったといふから、二本は詐欺したものといふ事が分る。
よくみると猫の毛らしい。狐の毛としては如何にも黒い。どこか畳の上に猫が来て落したものに違ひない。之を神体として相当な人が拝んだに違ひない。是等は迷信の実例として最も適切なものと思ふのであります。斯ういふ事は笑へない事実で、未だ未だ沢山あるに違ひないのであります。
昔から堂々たる分子に迷信が沢山ある。
今迄学者方面が迷信を暴いた。然し学者が暴いた事は余りにも科学的で、自分の立場からすべてを迷信といひ、反って反感を持たれるやうであります。それで反って学者の方が可哀想な位にみられた。
今度、観音会が発表する事は、信仰団体なれば余程変ってゐる。それも観音会は迷信がないから出来る。も一つ話しますが、或熱心な信者ですが、その宗教ではお土といって泥を病気を治すのに使ふ。相当の効果はあって、おデキや怪我等の外科の方に用ふれば、確かに効果はあった。
所がその人は、それを内科用に使った。又使はした。泥を煎じて飲んだのです。その方は大変御利益を戴き、すべてお土を使へばよいと終には呑んだ。一時大病に罹った事があって、此時とばかり今度は蜜柑箱に一杯のんだ。その為土の中毒者になった。私が最初みたら身体は土色になってゐた。
之が本当の土人だらふと思ふ。で、長い間かかってやっと良くなったんであります。それは病毒でなくて土の毒なんで、土は人間が呑んだり食ったりすべきものでなく、人間が食へるやうに出来たものを食ふべきで、土を食ふのはおけらかもぐらもち位なもので、之等も著しい迷信の結果であります。
病気を治すのに何百円金を出せば治る等といふ。実際に治ればいいが、結局様々な事になる。
之も話したかもしれませんが、恐るべき迷信がも一つある。こういふ迷信がある。五六日前或人が、近頃盛んに書物を宣伝してゐる「生長の家」といふのがありますが、決してわるくいふ為でなく此「生長の家」の雑誌を読んだ方の質問ですが、その本の中に念の法則に適へば悪事をしても栄えるといふ事がある。之はどういふ訳かといふ質問があった。之は実に怪しからん事で、念の法則に適へばどんな悪事をしても栄えるとは怪しからぬ。
昔親鸞の有名な言葉に、「善人尚往生を遂ぐ況や悪人に於てをや」之を怪しからんと思ふに拘はらず、親鸞の教の人は有難がってゐる。之を字義通りに解釈すると、善人も救はれる、まして悪人は尚救はれる、彼等はこれだから有難いといふ。
いづれ東方の光にも出すつもりですが、之を押し拡げてゆけば、善をするより悪の方が栄えるといふ事になる。此位反道徳的な事はない。
善人でなくては救はれぬといへば、悪人は飛込んで来ぬ。悪人も救はれるといへば、悪人も入る。そこが彌陀の大慈大悲な所だと有難がる。之も一理はあるが、その効果よりも悪人の方が救はれるといふ影響がどれ位大きいか判らぬ。どうしても善でなくてはならない。悪では駄目で、之は天地の法則を破る怪しからぬ事で、之を有難がるのはやはり迷信であります。
又も一つ、親鸞上人は自分には弟子はないといふ。みな御同行であるといふ。弟子もなし同じ行者であるといふ。之を又有難がってゐる。之は共産主義思想と認められる。階級撤廃、階級無差別の思想です。何となれば、師があれば弟子があり、そこに階級がある。弟子も師匠も同じ所位にあるといふ。弟子も師も同じでやはり人間であると。之がマルクスの主義の根本で、そういふ事を有難がるのはやはり迷信であります。
此迷信の起るべき根本原因を査べてみると斯ういふ点であります。
昔からある世に出た釈迦、キリスト、親鸞とか、日蓮、空海とか有名な偉い坊さん、そういふ聖者の行ったり言ったのは何でもかんでも絶対のものと有難いものと決める。それが迷信の因となる。でありますから、成程今迄はそれでよかったが、本当の大光明世界建設するには許せない。お釈迦様の言ってた事も間違ってる事は間違ってる。キリストにしてもそうで間違ってゐる所がある。
それが観音様の思召しであります。何となれば、お釈迦様やキリストや阿彌陀が、観音様よりは下の神様ですからで、今度観音様が出て、今迄釈迦やキリストのいった事はいかんと叱言を言はれ、間違ひを正される。実に滑稽な事が沢山ある。而もバイブルはあの当時反逆罪で磔刑になった、弟子が十一人残ったんであります。
それでうっかりすれば散々に身を隠しほとぼりの醒めるのを待った。そのほとぼりがさめるのに十年以上かかった。そしてボツボツイヱスから聞いた事を書いた。確かにそういふ事を聞いたといふ事をかいた。ですから敢てイヱスのみを責めるのも酷かと思ひます。
釈迦の経文も諸々の弟子が書いた。そこに誤りがないとも限らぬ。あの時代の印度の思想と、今日の社会とは非常に違ふだらふと思ふ。仏法の根本はあの当時バラモン教が盛んで、非常に難行苦行しなければならなかった。十年二十年山へ籠ったり、羅漢姿の変梃子な恰好したりなどして、なかなかそれで道をさとりにくい。あれ程苦しい目に遇ふのは可哀想だ、もっと楽にさせねばならぬ、もっとた易く修行させなければならぬと、その為にお経文を説かれた。
所が今日の頭で考へると楽にする為に説いた経文があまりにも多すぎる。あの時分のやうな生活難もなく、国際的紛糾な問題もない頗る呑気に暮された。天然の物を食べて生きておれる、山や林間へ籠って、幾日もボーッと考へておった丈で食って行けた。
所が今日の人間は、その経文を読む丈も大変で、みんな読まなければ今日悟りを得られないといふと、あれを皆読んだら一家は干ぼしになる。商売はなくなる。そういふ訳でありますから、仏教のお経文なんてものは廃止した方がよい。併も此言葉たるや、梵語を漢訳して支那で訳し、日本へ伝わったものですから、よほど此点に間違がある。分らぬ-分らぬものを読む必要はない。
ですから、観音会の祝詞などは判るやうに書いてある。分らんもので人類を救ふのは無理です。分らぬと迷ひが起る。今日、経文で救ふ等といふ事は余りにも時代錯誤で、食ふに困らず、晒し木綿を着けてブラブラしてゐた時代のもので今日を救ふとは、それは無理で、バイブルの中に金持の天国に入るは駱駝の針の穴を潜るよりも難しいとある--すると金持はどんな事をしても救はれぬ、といふ風にとく。若しキリスト教信者が救はれるとしたら貧乏にならなければならぬ。
所がアメリカやヨーロッパの信者には金持は沢山ある。而も金持の懐(ポケット)からすべて維持されてる。それは可笑しい。そうして早く貧乏になるのかしれぬが、金持は絶対に救はれぬといふのは可笑しい。之も金持の金を打倒したりなどするといふ、やはり迷信に違いない。
宗教ばかりが迷信してゐるんじゃない。医学を信じて死ぬ人も沢山にある。之も医学の迷信でそういふ風にみて行くと、いろんな事が間違ひだらけな事が沢山ある。そういふ事を沢山知らせ、眼をさまし、たしかな真理を行ふ。或は本当の事、本当の信仰、本当の生活といふ事の標準を示さなければならぬと思ふのであります。
いろんな迷信的な禁厭(マジナイ)とか方角等がありますが、之も迷信で、迷信にみえてゐて迷信でない事もあります。之もよく知らしたいと思ふ。お知合の人などで、そういふ材料があったらば、意味丈書いて投票して下さる様にして頂きたい。
も一つは天照大神様が観音様に化身される事で、此点はっきりしないと万一不敬に渉る事があってはならぬ。
天照大神、之は主神で全大宇宙は天の御中主の神の御神体で、之は漠然として掴み所がない。それと高御産霊神、神御産霊神で、之を造化の三神といふ事にしてあります。もっと違ふ説もありますが、之が一番根拠ある説で、高御産霊神は霊系の祖、凡ゆる森羅万象の霊を司られる。物質界即ち体の方は全部神御産霊の神で、此三性の個性を持っておられないから拝む事は出来ない。
すべての中心として主神は天照皇大神様を表現神とする。要するに統一する中心の神様として御顕現遊ばされたのであります。でありますから、天照大神は人体をもって一度表れ給ふた方、之が主の神様で、一切の中心主でゐらせられる。
天照皇大神様は世界統治の権を天皇にお委ねされた訳で、皇祖の御遺訓として「豊葦原瑞穂国は我子孫の王たるべき地なり、汝皇孫ゆひて治めよ」といふ事は統治の権を授け給ふた事なんであります。
その他に救ひの権を与へられた。それが観音様で審判の権は国常立尊に与へられた。それで国常立尊は艮へ押し込められ、幽界に於て閻魔大王となられ審判をせられた。
統治の権と救ひの権と審判の権を定められた。でありますから、お観音様は救ひの権をもたれ、どこまでも大慈大悲、善悪を問はず救はれる。此点は悪人も善人も同じ様に救はれる。丁度日月の光が遍ねく照るのと同じ事なんであります。その様に救はれる、それを大慈大悲といふのです。
国常立尊は善悪を絶対に立分け審判される。丁度閻魔大王と同じ事なんでこの点を明らかにしておけばよろしいと思ひまして、一寸お話致しました。