観音運動の根本としては、いつもお話する通り、病人のない世界を造る事で、すべてはそれが根本になるんであります。で、そういふ病人のない世界といふのは、開闢以来誰もやった事がない。又やらうとした人も無かった。又、之は大変な大きな力でなくっては出来ない事なんであります。
実際の事をお話すれば、お釈迦様でもキリストでも、日蓮だの親鸞、弘法大師でも、昔から有名な人がテンでやらなかった。それを今度初めてやるのであります。
そういふ事が出来るかどうかといふ事は、普通は疑ふんでありますが、毎度講話会でお聞きになる通り、種々な御神徳話は大体病気が良く治る事が主であり、一々体験された方のお話であって、又肉体の病気まででなく、精神上、生活上等、すべての上の病ひ迄種々と御神徳があり、それによって体験された方は、病気のない世界が実現する事は、疑ふ事が出来なくなってくるのであります。
それで、私が日々講義にして-講義といってもあんまり講義はしませんが、私が病人を治してるうちに、実地にみるのと、断片的に私が話すのを聞くのと、時間があると口述するので、それを聞く。一週間して、大きな財布のやうなお守りを受ける。そうすると、僅か一週間で博士よりも良く病気が治る。実に之は不思議な話であります。
先刻、大竹さんの話で、瘤ケ原の大天狗が三十日も二十日もかかって治らなかったものでも、僅か数日で治ったといふのですが、瘤ケ原の大天狗にしても、少くとも山へ三年位は入って断食したり、水行したり、種々な難行苦行をしたものに違ひありません。それでも、医学博士よりは気が利いております。
何となれば、山へ入るのは学校へ入り研究するような資本(モトデ)が要らぬから、親の脛をかじったりなどしない。此前お話した通り博士となるには少くとも万といふお金は費し、十年二十年の歳月は費して苦しんだものであります。そうした博士や、あらゆる難行苦行したものが治らぬものを、大竹さんは、つい此間ここで一週間修行した計りで、一月と経たぬのに、そういふものが治せる事が出来るのであります。
ですから、病人のない世界を造るには、そういふ観音会の医者が数多く出来れば、それでいい訳で、後は病気に罹らない事を教へればよいのであります。それはどうすればいいかといふと、本を読ませればいいのであります。
そうして、あらゆる健康法の間違った事、間違った衛生法を知らし、本当の健康衛生法を教へますから、それに気が付いて、言ふ通りに実行すればいいのであります。 将来そういふ本が出来るんで、そういふ本が出来て、社会百般のものに読ませるやうにし、観音医者が数多く出来れば、それでいいから、そう難しい事ではなく、変った事ではないのであります。
それに就て、観音様の方針を示されておりますが、そういふお医者の名前は、三段に分けられてあります。一番最初の人、下の階級は医業士といふので、次に普通の医者の学士に相当するのが、医療士と言ふ名になるんでありまして、丁度今の医学士に相当するんであります。今のは医学といふ医者の学問で、医者の学問を学んだから、医学士といふので、字がはっきりと現はしております。
成程たしかに学問であり、或は学んだものですが、観音会の方は治すのですから、療の字をつけるので、医し療すのであります。次に、其上の階級を医療博使といふのであり、しの字を使の字にしてあります。士の字をつけるとお医者と間違ひ易いから、使としたんであります。
実際、博士をハクシとよますのは、之も士の字は可笑しい。医者は軍人じゃないから、さむらひの士の字をつけるのはチト変であります。もっとも、今の医者は、さむらひといってもいゝかも知れません。切ったりハッたり血を出したり、或は腕の一本位切り落す位は何でもないのですから。
又、将来は病院を沢山作るつもりで、之から博使も出来ます。医療博使は将来は病院長になられるのであります。
それから今医療士を第一期として百人を作る訳なんであります。そうして第二期として千人、第三期として一万人作るので、一万人作ると日本中から凡ゆる病気はなくなり、伝染病や重病などはなくなる訳であります。
それから次に海外進出となり、東洋各国は勿論の事、西洋の各地へも日本医学の病院が出来る。そして西洋人の病気を治すのであります。無論、西洋医学よりはずっとよく治りますから、西洋医学は段々と人類から無くなる訳であります。
ですから皆様も、親戚の方などで医学の学校へ出てる人があれば、今の内にやめられる様にされた方が、算盤に合ふと思ふのであります。
で一万人作るには、矢張り医者をそれに当てるより仕様はないと思ふのであります。今度病院を建てると、博士や学者も傭ふのです--といふのは、世間に医者を信じてゐる人を安心させる為と、も一つはお医者さんに日本医学を知らす、つまり教育する訳で、本当に之程治る医学はないといふ事を判らすんで、治る医学を宣伝させ、お医者に知らさなければならぬと思ふのであります。
つい此間も麹町会館で伝染病予防の話がありましたが、慶応病院の草間博士の話で、今日の医学では病気は治らぬ事が判った。それで今は、病気に罹らぬ研究を医学界でしてゐるんだといふ事を、或人から聞きましたが、その様に医者自身、今日の医学では、病気は治せぬといふ事を自覚して来たのであります。
要するに、段々と観音運動に対する機運が醸成されつつある訳であります。そういふ訳でありまして--
所で、段々忙しくなりまして、私が直接病気を治したりする事も、もう長くはないと思ふのであります。でありますからして、講義なども先へ行くと直接する事が出来なくなると思ひます。今講義を受けるお方は、その点が非常にいいと思ひます。
ですから第一期の百人といふ数は、御都合のいい方は出来る丈早くお受けになるのがいいと思ひます。今月一杯で四十人位になりますから、後二月たてば百人位は出来ると思ひます。
それから先は、又他の仕事にかからねばならぬ事になりそうですから、今やる方は非常にいいと思ふのです。ですから、出来る丈御都合の付く丈、今のうち受けられるといゝと思ひます。矢張り将来博使になる方は、早く習った方が博使になる可能性がある訳であります。今度の病院は医学博士が下になるのですから、大学を卒業した人よりも地位が上になる訳であります。
で博使になる資格としては、信仰のしっかりした人で、治療の方は無論優秀、人格とか、品行とか、そういふ方面も大病院の院長として相応しい方といふ事になる訳であります。
世間のそういふものとは違って、光明世界になると試験とか、袖下とか、そういふものでやるのでなくて、自然と其人がそういふ資格になるので、閥とか情義とかはなく、無理がなく、一人でにそういふ地位になるのであります。ですから、その点は絶対公平なんであります。
どうしても、そういふ考えを以て進まねばならぬ。是非とも病院が出来ます。病院が出来ればどうしても看護婦とか、そういふものが沢山出来るのであって、なかなか養成も大変ですから、是非そういふ事も--
で、看護婦の婦長は、今日から育った観音会の婦人があてられるので、そういふ婦人は、東方の光を売る人が、その候補者のつもりであります。将来そういふ看護婦長になり、御婦人の地位を得られるのは、半年以上新聞を売られた方、それが将来そうなるといふ事になるのでありますから、そういふ希望のお方は観音隊へ入って頂きたいと思ひます。
それから、指圧療法の大きなお守りは--御守の御玉串百円となっておりますが、男の方で東方の光を半年以上売った方は、それは要らないといふ特典がある事になりました。で、それは半年以上売らなくとも、半年売ってやめても差支えない訳であります。そして、未だ東方の光売った方の特典は、未だ未だ出るかも知れませぬが、新聞売る方は大分観音様も優遇される様で、だんだん規則のやうなものにされて発表されますから、そのお積りに含んでおいていたゞき度いのです。
いづれ、本部の地所の候補地も凡そみつかりました。何故凡そかと言ひますと、未だ金を出して、此方のものにならないからで、約一万坪ばかりありまして、金さへ出来れば、何時でも此方のものになるやうになってゐるんであります。それも、他の宗教のやうに、皆さんから寄附を強要するなどといふ事は全然なく、是非出さして戴き度いといふ方はお断りは致しませんが--
すべて神様の事は、どうか出さしてくれといふて出すのが本当であって、いくらいくら出して呉れと金高までかいた奉加帳を門並を持って廻歩くなどは間違ってゐるんであります。
それは今迄の行方で、既成宗教へいくと、どこどこまでものばさねばならぬと、非常に迷信的の宗教の為、苦しみ悩む人が沢山出来る。それは無くさねばならない。それは信仰の病気で--
それで、病気治しを願ふ時、その病気は治してやるからいくら出せ、などいふのは、実に恐るべき迷信で、こういふ事は断然無くして了はなければならないのであります。そういふ方法は、あらゆる宗教にあるんであります。
観音様の方は実にうまいもので、之は、今発表はしませぬが、それについてこういふ標準があります。今茲に或人があって、或宗教へ入ったとすると、その宗教へ入った時と入った後と比べてみればいい。その宗教に入ってから病人が無くなり、体が丈夫になったかといふ事、又財産が減ったか増えたかを見ねばなりませぬ。
もしか、財産が減ったか、又つぶれたかとしたら、その宗教は本当のものではないのであります。何となれば、本当の宗教は病貧争を無くするんでありますから、貧の方へ接近させるのは本当の教ではないのであります。そういふ風に見るのが一番判り易いのであります。
先づ信仰に入って財産が増えたか減ったか、或は、商売が衰微したかどうかをみればいい。もしか少しでも財産が減ったなら、それは迷信だと断定して差支えないのであります。
所が、観音会には決してそういふ事はないのであります。もしあれば斯ういふ事は言へません。
然し、特に使命のある人は、一時商売をよさなければならぬから、大きい家に住んでゐたのが、小さい家に一時入るやうな事があるのは、特に仕方がないと思って戴きたいのであります。
観音会の方の博使や医者が出来ても、外の既成宗教の役員や布教師ですと、いくら成功しても、生活はキリキリ一杯であります。けれども観音会はそうではないので、すべてが無理がなく、相応の理で身分階級も当てはまるので、博使以上になると、家も門構えの家に住むやうになるのであります。
既成宗教を見ますと、丁度一将功成り万骨枯るといふ状態で、之は凡ゆる宗教に当てはまると思ひます。本部は馬鹿に太くなって、御一統は素晴らしい豪奢な生活をし、信者は切り詰めた生活をしてゐるのであります。
それは大変にいいように思はれるんです。それは大変に間違ってゐるといふ事は、すべて階級があるので、ある程度の階級はなければ相応しないのであります。すべてのそういふ種々な、今迄の欠点や、今迄の間違った事を、本当の治った行方になって来るのであります。そういふ新しい形式、新しい文化が生れるんであります。
之はずっと先の話ですけれど、観音会で将来、観音様から知らされた事なんですが、一つの都会をつくるんであります。
仮りに十里四方の土地を買ふとして、そこへ三里四方位の土地をつくる。観音会員ばかりの都市を造る。病院とか警察とか裁判所など、そういふ忌はしいものの一切ない都会。又、文化設備の凡ゆるものを取入れて、又、高壮な建築物も出来、劇場も出来、鉄道など交通機関も完備した素晴しいものが出来るんであります。
之が大光明世界、地上天国の模型で、之が最後に出来、それを世界の人間に見せる。そしてそれを世界各国の都市が見倣ふといふ具合になるんで--成程、今日の都会をそういふ風にするのは、改めたり壊したり大変であります。
それで、観音会でそういふ物を建設するんであります。或は小さい国位は出来るかも知れません。そうすれば、或は支那辺りへ一国として出来るかも知れません。 日本にも無論一つ位出来ます。
種々な経綸は、未だ沢山ありますが、追々と少し宛にでもちょいちょいお話をする考へでありますが、先づ之からの方針と、最後の目的たる大光明世界の片鱗を時々もらす場合がありますから、講話会へは出来る丈お出でになった方がよいと思ひます。そういふ片鱗は雑誌へ載せませんから、知ってをく事は結構と思ひます。