宗教に由る治病は不可であり、異端であるといふ論を多く聞くが、之程不思議な事は無いであらふ。そうして、一方には反対に斯ういふのである。病気治療は医療ばかりではいけない、本来病気とは気を病むのであるから、精神が肝腎である。病気によっては精神から治してかからねば駄目である、との論であって、右の二様の説は、同じ人の口から出るとは又不可思議である。
治病上、精神治療が必要であるならば、其精神治療は一体誰の役目であらふか。まさか教育者でも学者でもあるまい。どうしても宗教家より他に無いであらふ事は明かである。それは人間以上の力、即ち超人的力に縋る意味で、其力とは神仏其ものでしかないのである。
前述の如き相反する矛盾を、平然と曰ってゐる宗教家も尠くないのである。それでゐて既成宗教の大部分は、之等の救済に頗る無関心である。否無関心であるより、止むを得ないのであらふ。何となれば、其超人的力に縋らす事すら不可能である程に、無力になって居るからである。
それが為に、社会事業を経営しなければ、其存在の意義さへ無くなるので、病院を建設し、医学の力を藉りて治病するの止むを得ない事実である。然るに医療では、容易に病気が治らないから、仕方なしに病者に対して、健康復活の希望は説けないから、病苦其儘で諦めさせよふとする。それが病苦に超越せよといふ美辞である。
そうして、安心立命が得られるといふのであるが、夫は余程の偉人か、精神変質者でない限り、到底凡人には困難であらふ。何となれば、元々精神と肉体とは別々の存在ではないから、病気の苦悩はどうする事も出来得ない。病苦に超越せるなどといふ事は、実際言ふべくして行ひ得るものではない。恐らくそれを説く宗教者と雖も、病苦に超越するよりも、病気が治癒して健康になった方が、どの位いいか比較にならないであらう。
然るに新興宗教は此点に於て、多少なりとも治病能力を有してゐる。尤も之のみで発展したといっても可いのであるが、然し、是等新興宗教に於ても、如何なる病気も治るといふ力はない。限られたる或病気のみであって、治る病気もあり、治らぬ病気もあり、一旦治っても再発又は死の転機さへするものが往々ある実際を、常に見聞するのである。然し、医療よりは確かに優ってはゐるが、絶対ではないから問題にはならないのである。
そうして、新興宗教の治病は自力を強要しないものはない。或ものは、有る病気を無いと自力で錯覚させしめよふとし、或ものは、病気は神の戒めとなし、自力による改悔(カイゲ)によって治癒させよふとする。又、祈祷に渾身の努力を払はなければ治らないと曰ふのもある。夫等種々の信仰的治病が、果して何程の効果ありやは、何れも統計を示さないから正確さは知る由もないのである。
以上説くが如く、既成宗教に於ては諦めと理論と社会事業を宗教的行事と誤認し、新興宗教にあっては、自力強要による治病を主としてゐるが、其実績の統計を示さない以上、社会から迷信視せられるのも止むを得ないのである。是等現代宗教を総括してみる時、全人類を真に救済すべき可能性あるものは、一も見当らないのである。噫、然らば世界人類を救済すべき世界的宗教の発生は無いであらふ乎。
そうして世界的宗教としては、如何なる条件を具備すべきであるか、今それを説いてみよふ。
世界人類を救ふといふ如き広範囲の目的のものは、当然文字を解する文明人も、一丁字もないアフリカの土人も否食人種でさへ救ふ力のあるものでなくてはならない。故に、文明人はいざ知らず、野蛮人に対しては理論や戒律は何等役に立たない事で、彼等の知識相応に認識出来得るものでなくてはならない。それは何かと言へば、偶像礼拝と治病の此二つのみである。
世人は偶像崇拝と云へば、直ちに低級視するといふ妙な傾きがあるが、世に偶像崇拝でない宗教は殆んど無いであらふ。例へて言へば、仏教に於る如来仏や観音、不動等其他帰幽して已に形の失(ナ)い開祖もあり、基督教に於ては最も偶像崇拝を非難するが、其実一部を除く外、イヱスの油絵、十字架の形物等を拝ましてゐる事で、基督教と雖も已に野蛮人を救済するのに夫を用ひてゐる。
又、亜細亜の大半は仏教に於ける観音仏や回教に於ける、太陽や、アラーの神等の偶像が主なるものである事も人の知る所である。之によってみれば、偶像礼拝は昔から、人類の大半が行ってゐる事実である。
第二の治病も、日本は固より世界各国に於ては、一部は昔から行はれてゐるが、然し、夫等は殆んどが自力であって、人間の精神力によって治病されるので、決して他からの力ではない事である。故に、此精神力を発揮するとしては、或程度の理解を必要とする為、全然野蛮人では困難であるから、夫等は孰れも世界的救済は行ひ得ない事は明かである。
之等の点に就て、医学は如何なる野蛮人でも、何等脳力を要しないから、理想的ではあるが、治病力の薄弱は如何ともし難いので、勿論資格は無いのである。
此様に説いてくると、世界的宗教としては、どうしても迅速簡単にして、治病効果百パーセントの力を有ったものでない限り、資格のない事は自明の理である。此意味に於て、我観音会こそ、真に世界的宗教であると断言し得るであらふ。
(昭和十一年六月十八日)