西洋医学は科学的だといふが、それは間違ってゐる。成程機械的ではあるが、科学的ではない事である。何となれば、その診断に当って、その病気の測定方針に確乎たるものがないのである。
其証拠として、五人の医師に診察を受けるとして、五人共診断が区々であるといふ事の事実を誰もが知るであらふ。若し適確なる科学的診断法があれば、それは何人の医師が見ても、同一の診断でなくてはならないのである。此一事丈にみても、私の此説の当否は充分であると思ふが、今一歩進んでその真相を暴露してみやふ。
西洋医学が進歩したといふが、実際からいへば、医学としては聊かも進歩しない処か、反って退歩否邪道に低迷してゐるといふ方が当ってゐるかもしれないのである。何となれば医学とは、病気を医する学問であるに不拘、医する事が出来ない。医するが如く世人を欺瞞してゐるのが事実である。成程、医療器械は頗る巧妙になってゐる事と療法の複雑多岐に渉った事と、薬剤の種類の増加は慥かにあるが、それ等は医学の進歩ではなくて、療法の巧緻化でしかない。一面から言へば不必要なまでの複雑化である。
又、その外表に世人は幻惑されて、大いに進歩したかの様に錯覚してゐる丈なのである。実際を視よ、病理も病原も衛生も、その根本に向っての何等発見はなく、十年一日の如しである。病菌の種類の発見は確かにある。そうして、それの予防による減少の功績も認めるが、一人の伝染病を予防し得て、十人の他の疾患の増加の事実に盲目である。
そうして、風邪の原因も熱の本体も不明である。人間の病気とは何が故に発生し、何が故に治癒しないかといふ事も全然不明である。その結果として、国民の健康が日に月に退化しつつある事実に直面して焦慮しつつも、どうする事も出来ないのが現在の状態である。又、病理と雖も、科学的な確定がない。
今療病に当って先づ根本としての方法は、病気の診断である。病原の探究である。其際病原としての発熱は、いづくにあるかを診査する方法を知らない。抑々、発熱は身体の或一部に発生した病素を溶解すべく起ったものであるから、其発熱の根拠丈を治療すれば、速かに全身的に治癒するのであるが、現在医学の診断は、之を発見する事が不可能である。
それは医療から転じて来た患者を、常に扱ひつつある吾々は、医学の診断が甚しき疎漏(ソロウ)と杜撰(ズサン)であって、病原不明か或は誤診である事が、少くとも半数以上は確かにある事を知るのである。此事に就て嘗て聞いた事がある。或一人の医科大学生が常に、解剖実験を見る時、其診断と余りに相違するのである。
殆んど誤りの方が九十%位ある事実に驚いて教授に質問したそうである。すると教授の答に曰く、それは君人間の身体を外部から見るんだもの、違ふのは当り前だよ、との事であった。之によってみるも、如何に出鱈目であるかが判るのである。事、人命に関するに於て信じられない位の事実である。
次に、病理及びその原因に於ては、何等進歩の跡を見られないのである。病理とは何が故の発熱であり、何が故の痛苦であり、何が故の腫物であり、又、それ等はいづれから影響し、何の為にそういふ現象が現はれたかといふ、それ等の闡明(センメイ)である。又、原因とはその病理構成以前の否、病理構成状態のその根元の発見である。
然るに、それ等根元の発見などは、未だ医学ではその端緒をさへ掴んでゐない。もし医学に於て原因の説明をすれば、それは牽強附会(ケンキョウフカイ)でしかあり得ない。何等科学的根拠があり得ないからである。医学に於ては、病理も原因もあらゆる病原は、頗る単純にも黴菌一点張りである。
而も、その黴菌の感染のみによって、病気は発生するものと思ってゐるのだから、発狂や癲癇、中風などの伝染病以外の病気に至っては、その説明は絶対困難である。それ等を偶々説明してあるものをみれば、噴飯に価する如き出鱈目さである。
以上の如く、病理も病原も何等適確なる、科学的根拠がないから、医学の診断なるものは、実は其時に於る医師の推断が根拠となってゐる。故に、診断が適中するといふ事は、その医師の推理的頭脳が優秀であるといふ訳である。
例へていへば優秀なる易者は、比較的的中するやうなものであり、相場師が前途の騰落を推断するそのやうなものであるとも言へると思ふのである。それがそれぞれの医師によって、診断が違ふといふ原因であると思ふのである。之にみても西洋医学なるものは、器械的ではあるが、科学的ではないといふのである。
(昭和十一年五月二十九日)