大本信者時代の私

私が大本教に入信してから数年の間は、実に信仰は小乗的で、固苦しい極端な程禁欲的であった。何しろ衣服などは絹物はいけない、木綿でなくては着るべからずといふのであるから推して知るべきである。言霊学上絹物とは着ぬ物であり、木綿は気がモメン、家庭がモメンといふのであるから実に滑稽である。故に信者の会合などに行く時など、私は態々木綿の着物を作って着て行ったものである。そのくせ平常は、絹物を着てゐたのであるから止むを得ない虚偽である。勿論食物もその通りで肉食も厳禁されてゐる。彼等にいはせると四足を食ふと血が穢れるとの事である。そうして大本教の重要行事として一年に一度、丹後の高砂冲に冠島沓島といふ二つの小島があり、それは大本教の根本神国常立尊といふ神様が修業された行場であるといふので、多勢の信者が船に乗って参拝するのであるが、其際も皮製の鞄は厳禁してゐる。といふのは四つ足の皮は海の神様がお嫌いになり海が荒れるからといふのである。

処が私はどうも理屈に合はないような気がする。何故なれば、肉食もその皮もいけないとしたら、外国人を救ふ事は出来ないではないか。大本は世界人類を救ふといふ建前と矛盾してゐるといふ訳で、私は入信前と変りなく、肉食もし、特に大本へ行く時は洋服を着たものである。其頃洋服を着るのは多くの信徒中私一人であったので、それが為洋服の岡田さんとして有名になったものである。又本部へ参拝に行く時、数人で汽車へ乗った時など食堂へ行くと、決って私はサンドウィッチを食べる。外の者は驚いて種々忠告するが、私は只笑ふのみであった。然しそれから数年位経た頃から信者も漸次変って来て、私が脱退した頃は、肉食も洋服も世間一般と同様になった事は勿論である。

以上の訳を説明してみるが、教祖出口直子刀自は、経の教で小乗的であるに反し、出口王仁三郎師は大乗的緯の教であったからである。然し、王仁三郎師は緯になり過ぎ経を閑却された為、彼の様な法難を受ける事になったのであらう。

(自観叢書五 昭和二十四年八月三十日)