此標題は随分変ってゐると思ふ。無論読者もそう思ふであらう。此問題に就て、以下私といふものの心裡描写をかいてみようと思ふのである。茲で前以て断っておきたい事は、私自身の内面的心の動きを客観的にみ、些かの虚構のない事を主眼としたのであるから、読者もそのつもりで読まれん事である。
救世主即ちメシヤなる言葉は、洋の東西を問はず、時の古今を問はず、如何に言ひ古された事であらう。全人類待望の救世主なる超人間的力の持主が、現実に此世の中に生れるべきものであらうかといふ事であるが、一部の宗教信者を除き、世界の大多数者は、単なる理想的希望でしかない、大きな夢でしかないと思ってゐると見るのが間違ひない事であらう。尤も俺は救世主だと誇称する人も稀にはあったが、時の推移と共に何れも消えてしまふにみても、未だ真の救世主は表はれない事は明かな事実である。
私は自分から救世主と名乗る事は好まないのである、といって救世主ではないと断定する事も出来得ないといふのが偽らざる告白である。実に救世主出現といふ事程重大なる問題は、人類史上曽てない事は今更いふ迄もない。此意味に於て決して軽々に論議すべきではない事も勿論である。飜って考ふるに、救世主出現は単なる人類の理想と極める事も出来得まい。何となればキリストの再臨もメシヤの降臨も、ミロク下生も、往昔の聖者が予言してゐるに於てをやである。故に、何時かは出現の可能性がある事を信じない訳にはゆかないのである。
之から私の心理描写にとりかかるのであるが、私は救世主の第一条件として以前から考えてゐた事は、何よりも先づ人間の病気を解決する事であって、人間の健康を完うし天寿を得させるといふ事の絶対的方法を授けると共に、それへ具体化する力を有する-その資格こそ救世主としての最大要素であらねばならない。勿論肉体の健康と相俟って、精神の健康が伴はなくてはならないのである。
ナザレの聖者キリストの曰った、「汝世界を得るとも、生命を失へば何の利かあらん」といふ有名な言葉によってみても明かである。此意味に於て、人類から病気を滅消し得る力のない宗教も、宗教家も、その価値は限定的のものしかないといえるであらう。私は此理論を常に抱懐してゐたのである。然るに、私が信仰生活に入って十数年を経た頃の或日、病気の根本原理と、その解決法とを知り得たのである。
嗚呼、其時の私の驚きと喜びは、何人も想像はなし得ないであらう。何となれば今日迄の世界の人間のうち、之程大きな発見をしたものは絶無であったからである。如何なる大発見も大発明も、此事に比較すれば問題にはならない。実に私といふものは何たる不思議な運命を持って生れたものであらう。
(昭和二十三年十月二十日)