抑々、資本主義の発生は何に因るものであらうかといふ事から検討してみよう。即ち資本主義の根本観念は、限りなき利己からである。ただ儲かりさえすればいい、従業員や労働者の幸福などはあまり考えない。唯だ生活出来るだけの報酬さえ与えればいいといふ、洵に人情も慈悲もない冷たい考へ方である。
愛といひ慈悲といふ思ひやりの感情は勿論精神活動からであって、所謂唯心思想である。それと反対に物欲一方に偏する利己思想は唯物主義であらう事はいふ迄もないとすれば、資本主義なるものも全く唯物主義の産物といえるのである。
処が、右の如き資本家の利己一点張りは、到底長く許さるべきものではない。遂に彼のマルクスやヱンゲルスが現はれて、共産主義理念を発表したから堪らない。それまで虐げられて来た労働階級並びにその支持者等は、之なるかなと忽ち謳歌し、反抗的気勢は年を逐ふて強靱となり、遂に共産主義国家を産むと共に漸次今日の如く世界的に発展まで到った事は、現在迄の共産革命の歴史である。
処が、それだけならいいが、今度は資本家を打倒して、自分達がとって代らうとする気勢さえ示して来た。其結果労働階級の利益のみを考え、資本家や自分達以外の者は極力打倒して没落に追ひ込めようと、執念深く活動の手を緩めないといふのが現状である。これが為到る処陰に陽に闘争に日も之足らぬといふ現状である。斯様な共産活動の利己一点張である事は、資本家のそれと何等異る処はない、どちらも唯物主義である事はいふ迄もない。
こう考えて来ると、今日世界人類苦悩の根原は、之等両極端の唯物主義者陣営の闘争である事は疑ない事実である。故に以上の原因を解決しない限り、何年経っても人類の幸福は決して実現しない事を断言出来るのである。
然らば其解決法は如何といふに、それは勿論唯心主義を以て人類を同化する事である。即ち強力なる宗教である。処が既成宗教がその役目を果すべきであるが、それは無理である事も今更説明の要はあるまい。どうしても超宗教的の新しい力が生れなければならないとすれば、吾等は確信を以て其任に当るべく現在其方針を以て進んでゐる。それは何よりも人類をして唯物主義の誤謬に目覚めしむる事である。
(昭和二十四年)