神の審判は文化的である

今度の事件で私は、四十七日間の拘留を受け、殆んど毎日のように調査訊問を受け、一つの取調べに実に大変な手数のかかるには、初めての私はたゞたゞ驚愕のあまり、むしろ呆然としたのである。

先づ、私と金久平を逮捕する為に、八十人の武装警官が動員され数時間に渉り四ケ所の家宅捜索を受けた。そして私達の身柄は拘置所へ数人の警官につきそはれ拘引される。

四十七日間三度々々食事を給されるは勿論、看守は附きっきり、どこへ行くにも放れた事はない。調査は殆んど毎日行はれる。時には七、八人でとり調べられ、一つの調書をとるにも一日掛りである。検察庁へは度々送られる。その手数と国費の費消、時間の消費は大変なものである。

もし私に之だけの人員と手数と時間を与えられたとしたら、私は優に百人の善良なる国民を造り得る位の仕事はなし得たであらうと思ふ。

今、新国家再建の重大なる事、実に勿体ない事である。而も私は少くとも神を信じ、社会の為少しでも善事を行はんとしてゐるものであって、何等社会に害を及ぼすものでない事を断言して憚らぬ。こういふ人間を罰する為に、これだけの大仕掛の浪費をなさねばならぬ要がどこにあらうか、実に奇異な感で一杯であった。而も一方、法網を潜って大多数国民の苦しみを犠牲にしてゐる大悪人もある。

戦後の殺人、強盗、窃盗等の脅威は完全にとられてゐない。これだけの動員力を何故その方面へ注入されないであらうか。

吾々の如き社会に害毒を流さないものを苦しめるよりは、先づそれ等の社会の脅威を除くべきが警察本来の使命ではなからうか、と私は係官に数回も言ったものである。

御垂示によれば、霊界の審判は実に公平であって、三途の川を霊が渡る時、それぞれその罪の多寡に応じて公平に審判(サバ)かれて行く、従って一点の誤審も手数も要らぬ訳である。こういふ形式がもし現界に行はれるとしたら、如何に手数が国費が省かれる事であらう。然し、それは夢としか思えない。

処が、その夢を神は立派に実現された。それは、大光明の出現である。今日まで調査を充分しなければ罪悪が発見されなかったのは罪悪と暗さが平均してゐたからである。人間の所持する罪悪の暗黒面もなかなか捕捉し難く、その暗黒の表はれたる証拠を唯一の手掛りとした。

然し、そこに一度光明が出現する時、明るさは如何に陰蔽せる醜悪もあらわに露呈するであらう。陰蔽も湮滅(インメツ)も火の前には無効である。それぞれ所得の罪は何の手数も要せずさばかれて行くのである。これこそ、真に文化的の審理である。

あゝ、この光が物質化される発明は出来ないものだらうかと、つくづく感じた事である。

(昭和二十五年九月)