私とサタンとの闘争史

私が御神業開始以来、之迄数へ切れない程悪との闘争をして来た。といふのは、何しろ邪神界にとっては、私程恐ろしい者はないので、何とかして私を亡ぼそうとして心を砕いてゐる。といふのは私が有ってゐる神力である。彼等は長い間神は此世にないものと思はせ、散々人類を瞞し、堕落させ、善悪の差別さへ分らない程にして了ひ、最後には世界全体を掌握しやうとしてゐるのであるから大変な話である。

処が今日迄はサタンの思ひ通りに進んで来たので、遂に現在の如き暗黒無明の世界となったのである。そんな訳で彼等が安心しきってゐる中へ、私といふ大きな光が現はれたのであるから、邪神界にとっては空前の大事件である。そこで彼等は私をして何とか葬って了はうと思ひ、執拗に彼の手此手で攻めゐるのである。

とはいふものの私の方には、最高の神様が守ってゐる以上、其都度悪の攻撃は或程度で止まり、難を免れるといふ例は絶へずあるので、本当を言えば私は始終悪魔に取巻かれてゐるやうな気がしてゐて、一日として心から安心される日はないのである。併し之は斯ういふ意味でもある。つまり神様の経綸は此世界が九分九厘迄邪神に占領され、後一厘といふ瀬戸際で一厘の御霊が現はれ、悪の世を引っくり返し、善の世界にするのである。

此事に就て面白い話がある。私が大本教信者であった頃、此一厘の意味を知ったのである。それに就ては大本教々祖出口直子刀自の有名な御筆先の中に斯ういふ一節がある。“此世は九分九厘といふ処まで悪の自由になりてをりて、今一息といふ処で一厘の御霊が現はれて、建替え、建直しを致すぞよ”といふのと、今一つは、“悪の世を善の世に振り替えて松の世、ミロクの世と致すぞよ”といふのもあって、此一厘の御霊に就ては、信者間でも常に疑問の的とされてゐた。

勿論私もハッキリ分らなかったが、斯ういふ事があった。それは或日、大本教信者の中で私の信者みたいになってゐた人が、古銭を持って来て差上げたいとふい。よく見ると天宝銭一個と、明治四年の銀貨と、年号は忘れたが一厘銭一個であった。私は判じ物みたいだと思ったが、不図見て驚いたのは、教祖は天宝生れであり、又当時の教主出口王仁三郎師は明治四年生れであったので、一厘銭こそ私の御魂である事に気がついたと共に、全く神様が御知らせになったに違ひないと分ったのである。それから月を経、年を経るに従い、実際的にも色々な奇蹟が表はれ、愈々確信を得たのである。それはそれとして、今私は現在に到る迄の善悪争闘史をかいてみようと思うのである。

之は昭和七年春の話で、此事は自観叢書にもかいてあるからザッとかくが、当時大本教部内で私は注目の的になり、異端者扱ひをされ、排斥の火の手が上った事がある。一時は私の問題で教団内は喧々囂々たる騒ぎの頃、当時共産党から転向した一青年信者があった。彼は物凄い形相の男で、共産党のメンバー中、相当恐れられた人物との事であったが、此男は私を大本教の平和を紊す怪しからん人間と思ひ、或日短刀を持って場合により私の命を奪はうとして談判に来た。

之を霊的にみると、サタンの赤い辰、即ち赤龍が憑いて来たので、私は見破ると共に奇蹟が起って助かったが、兎もあれ之が受難の最初であった。其後私の腕を折らうとした奴があった。気合術といって柔道の一層烈しいやうな術で、此術の猛者が来たのである。之も又奇蹟で難を免れたが、其後も私は執拗に狙はれたが、無事に済んだのは全く厚い御守護であった。そんなこんなで遂に私排斥の猛運動迄起ったので、私は遂に大本を脱退したのであった。然し之が幸ひとなり、同教弾圧事件の際も累を免れたのである。

それから昭和十一年夏であった。私は埼玉県大宮警察へ呼ばれ、一晩留置されて拷問攻めに遭ったのである。間もなく玉川警察署へ十一日間留置され、厳重に取調べられたが、何にも罪がなかったので釈放はされたが、彼等の面目上からか今後信仰も治療も相成らぬと言ひ渡され、失業者となって了ったので、遂々一年三ケ月浪人生活をする事となった。

それから色々な運動をして、漸く宗教は相成らぬが治療だけなら許すといふ事になったので、漸く愁眉を開き、開業する事となったのである。何しろ一年以上も徒食してゐた事とて、其間の生活は随分苦しかったのである。其時が十二年の十月であったが、それから三年間治療一方で進んだが、随分繁昌し弟子も多く出来たので、其時の弟子が今日教団の幹部の人達である。処が又しても十五年の暮、医師法違反の疑ひで三日間玉川署へ留置され、厳しい取調べを受けたが、此時限り私は廃業したのである。といふのは相当弟子も出来たので、生活に困らない見込がついたからでもあった。

それから三年後十九年春箱根へ、同年秋熱海へ移住する事となったが、困る事には大宮警察での拷問によって虚偽の調書を取られ、それが警視庁へ廻ったので、当局は岡田といふ奴怪しからん奴だと、ブラックリストへ載せられたのである。従って其後は行く先々の警察へ通知が行くので、其土地の警察からは始終睨まれ、警戒されたので、毎日々々不愉快な日を送ったものである。といふのは私は其当時民間療法専門ではあったが、治った人達は私を神様のやうに慕ふので、警察は彼奴隠れて宗教宣伝をしてゐるに違ひないと思ふと共に、以前不敬問題を起した大本教の残党であるから、秘密に大本教再建を目的としてゐるだろう、との疑ひがあったからでもある。そんな訳で警察の者なども時々調べに来たり、又真向ひの家にコッソリ出張して、塀の隙から出入の人達を調べて署へ報告するといふやうに嫌な事が随分あったものである。

それから間もなく終戦となり、信教の自由ともなったので、廿二年八月法人となり、漸く大腕振って歩けるやうになったのである。すると翌廿三年秋早くも脱税問題が起り、新聞に書かれ、パッと世間へ知れ渉ると共に、高額の税金を課せられ手痛い目に遭はされた。

それもどうやら片付いたのでヤレヤレと思ひ、漸く一昨廿五年春メシヤ教と改称するや、又しても此年五月今度は贈収賄問題始め色々なややこしい問題の為、私はじめ部下七、八人警察や刑務所へブチ込まれ、短いので廿数日、長いのは四、五十日間牢獄生活をさせられたのは、みんな知ってゐるから記かないが、右の如く私と邪神との闘争史は随分頁数が増へたのである。

そうして一番閉口する事は、彼等サタンは官憲を利用する事である。聖書にもある通りサタンは赤い辰、即ち赤龍であって、此眷族が大部分の役人に憑依し、私を苦しめるのだから堪ったものではない。何しろ先方は生殺与奪の権を握ってをるので、悪人をやっつける為の武器を善人に対して利用するのだから善人こそ災難である。

衆知の通り教団としても大規模な事業をしてゐる以上、目の届かぬ点もあり、大抵な事は人に任せきりなので、手抜かりもあるであらう。といっても意識的に社会へ害毒を流すやうな事は絶対あり得ないのであるから、大目に見てもいいと思ふのである。処が今日の役人は重箱の隅の塵を咎めるやうであるから、斯んな世の中としたら、何もしないで暮すのが一番賢明と思うが、私などは神様から大任を荷はせられてゐるので、そういふ訳にはゆかないので、之も運命と諦めてゐるのである。

茲で一言いひたい事は、本教が如何に多くの悩める人々を救ひ、国の為になってゐるかは、少し目のある人なら分らない筈はあるまいと思うが、其様な肝腎な事には目を覆ふて見ないらしく、只無暗に憎悪の念に駆られて困らすやうな気がするが、之をよく考へてみると最初にかいた如く、私を恐るるサタンの計画であるので、止むを得ないと思ってゐる。然し乍ら斯んな事も今少しの辛抱と思って、何れは私の仕事が分り、大いに国家から表彰される日の来る時を待つ事としやう。

(昭和二十七年)