黄泉比良坂の戦

此標題に就て、時々訊ねられるから概略解説してみよう。之は勿論古事記にあるものでそれを如実に私が体験した経緯をかくのである。

今から恰度二十年位前、或日青山から明治神宮参道から神宮の入口に向って二三丁行った処の恰度参道ダラダラ坂の三分の二位の地点で、一番低い処のその横町に其頃某子爵が居た。そこへ私は招かれたのである。その子爵というのは大分落ぶれて、生活にも窮してゐるような有様で、一種の神道的信仰を始めて間もない頃であった。未だ少数の信者で、なかなか経費を賄ふ程には行ってゐないようであった。神様は国常立尊を中心としてゐたので、此時私は何か神秘がありそうな気がすると共に、種々信仰談に花を咲かせ、私も相当の援助をすべく約束した。

其時霊感によって知り得た事はその家が黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)になるといふ事である。黄泉とは世を持つ即ち天皇である。而も世を持ってゐた幕府が倒壊し、それを継承したのが明治天皇であるから、明治神宮の参道は平らな坂で、世もつ平坂といふ事になる。面白い事には右の子爵と懇意になってから互ひに数回の往き来をして、最後には私は彼を晩餐に招いたので夫婦揃って来た。其時土産にもって来たものが、実に神秘極まるもので、子爵の家の宝物となってゐたものである。

又其時までの間に彼と私と一種の争ひが起った。それは甚だ複雑してゐるので茲では略すが、兎に角争ひの結果和解の形になった為招いたのであった。最初から最後迄の経路を考えると、どうしても黄泉比良坂の戦の小さな型であったとしか思えない。而も其晩戦に勝って、敵は賠償金か貢物のような意味で、右の宝物を持って来たものであらう。以上の如く、最初から最後迄の経路を考える時、どうしても黄泉比良坂の戦の型としか思えない。

其後数年を経た昭和十三年不思議な事があった。その起りというのは斯ういふ訳だ。私は昭和九年に麹町平河町に信仰的民間治療の営業所を借り、開業したが、それが一年経つか経たない中に非常に発展した結果、宗教専門にすべく、玉川上野毛の今の宝山荘の土地家屋が売物に出たので買入れたのであった。というと馬鹿に景気がいいが、実は先方の言ひ値拾万円というのに、私は五千円しか金がないのでどうしようもないが、然し欲しくて堪らない。売主へありのまま話をすると、面白い事には売主は借金だらけで、一日も早く逃げ出したいのであるが、今と違って其頃は買手が殆んどない。借金取りには責められるといふ訳で、兎に角一万円の金を入れてくれればすぐ立退くとの事、後金は分割払でいいというので、私も他から五千円借り都合一万円の金を入れ、昭和十年十月一日引越したのである。

引越したとはいうものの、それからが大変だ。何しろ十万円の買物に一万円しか払ってないので、三月後第二回の払弐万数千円を七所借りしてやっと払ったといふ訳である。処がその土地家屋は勧銀に担保に入ってゐたが、右の売主は殆んど年賦金一文も入れなかった。先方はそれを秘密にしてゐたので、買ってから判ったのである。私もあまりの軽率に後悔したが今更仕方がない。その中勧銀は競売の挙に出でた。負債は元利積って五万円位あったと思ふ。先づ第一回の競売の時、勧銀の指定値は五万五千円で、札の入れ手がなかった。第二回が四万五千円であったが、私としては第三回はもっと安くなるから、其時札を入れようと少し欲張りすぎたのである。処が思ひきや第二回の四万五千円の時入札者が現はれたのでそれへ落ちて了った。

その通知を受けた私は愕然としたが、もう取返しがつかない。弁護士に相談すると、競売決定までに一週間あるから、その間に異議の申立をすればいいというので一縷の望みが出来た。茲で奇蹟が起ったのである。それは右の一週間目の期日に弁護士が私の家へ来た帰りがけ某所へ寄った。処がその人曰く、「岡田さんの競売決定の期日は一週間とすると、今日あたりではないか。」との事で弁護士も気がつき、「コレは大変だ、確かに今日が期日だ。」という訳で、急遽事務所へ帰り、書類を作り裁判所へ持って行ったが、其晩の十一時であった。後一時間過ぎれば右の不動産は永遠に先方の所有に帰するのである。

何と重大な一時間ではないか。本教の基礎を造ったのは此家であるから、その時失敗したら今の発展はあり得なかったであらう。其時思った事は競売異議申立に要する保證金は相当の額であったが、奇蹟的に間に合った。勿論百円札であったから、百はモモと読む、即ち百円札は桃の実になる。黄泉此良坂の戦ひに一旦は破れた神軍が、伊邪諾尊から下されて桃の実を魔軍へぶっつけたので、勝いくさに転換したといふ其意味であらう。

(自観叢書四 昭和二十四年十月五日)