私は入信後、出来るだけ信仰の知識を得ようとして、間さえあれば大本教の出版物の読破に努めた。当時大本教では教祖出口直子刀自の書かれたお筆先を、唯一の聖典としてゐたので、一般信者は勿論私としても専心読み耽った事はいふまでもない。元来お筆先といふのは、明治廿五年一月元旦教祖出口直子刀自五十五歳の時、祖神である国常立尊といふ神様が教祖に憑られ、帰幽時まで約廿年間書かれたものである。勿論神霊現象の一種である自動書記で、大抵一回の御筆先は半紙数枚位として、凡そ一万冊といふのであるから実に浩瀚なものである。文字は全部いろはで、判読しなければ判らない程の変態文字で、普通人は半分の意味さえ読みとれない位である。尤も教祖は眼に一丁字もない婦人であると共に、此不思議な文字に反って価値を見出すのである。
そのお筆先の要所のみを集録したのが教祖の跡を継いだ出口王仁三郎氏であった。勿論漢字と混ぜて普通文としたので、誰にも読み易いものとなった。恰度飜訳書と同様である。お筆先の内容に至っては過、現、未に渉る神界の真相や教義、予言、道徳、人生観等、人事百般に渉ってをり、文意は幼稚であるが、人間の作品とは受とれない程の神秘幽玄なものがある。
その予言に至っては驚く程的中してゐる。それは明治二十五年から三十年頃の予言中には、日本対世界の戦争や、極度の食糧難、天皇初め特権階級の転落、財閥の没落、封建性の解消、日本の民主化、平和世界の実現等々その殆んどが的中してゐるといってもいい。私は敢て大本教を宣伝するものではないが、事実を枉げる事も出来ない。公平にみて日本の当局者が早く此筆先に注目するとしたら、或は彼様な無謀な戦は避けられたかも知れないと想ふのである。然し筆先の中にも難点はある。之は教祖の自我意識が相当織込まれてゐる点で、それは余りに独善的であり、国粋的であり、よく神道家が言ふ処の神国思想を高潮してゐる事である。然し予言の大部分は既に出尽してしまって、今後に残るものとしては、恒久平和の理想世界が生れるといふ事のみであらう。
茲で一寸出口師の事もかく必要があるが、師は超人間的傑出した点はあるが、惜しい哉宗教家としての資格に欠けてゐた。といふのはあまりに奔放無軌道的な為、発展するに委せて道義を無視するようになり、内部の紊乱を防ぎ得なかった。それのみではない、当時の国情として最も危険である不敬の言動が相当濃厚であった為、彼様な法難を受ける事になったのであらう。私は一時氏を師と仰いだ事もあるので非難の筆は執りたくないが、後世の宗教家に対し頂門の一針としてかくので、之が聊かでも裨益する事となれば、霊界に於る師も亦満足すると思ふからである。
先づ大本教批判は之位にして再び私の事に筆を転ずるが、忘れもしない大正十五年即ち昭和元年十二月或夜十二時頃、未だ嘗て経験した事のない不思議な感じが心に起った。それは何ともいえない壮快感を催すと共に、何かしら喋舌らずには居られない気がする。止めようとしても止められない、口を突いて出てくる力はどうしようもない。止むなく出るがままに任せた処、『紙と筆を用意しろ。』といふ言葉が最初であった。私は家内にそうさせた処、それから滾々と尽きぬ言葉は思ひもよらない事ばかりである。
先づ日本の原始時代史ともいふべきもので、五十万年以前の日本の創成記であった。其時代に於る人間生活が重なるもので、例えば猛獣毒蛇が横行し、人間はそれと日夜戦ってゐて、それを防ぐ為の仕事が重要な日課であった。殆んど穴居生活で火を燃し続け、絶えず敵襲に備えたのである。武器としては弓矢が一番先に出来た。勿論竹に藤弦を絡めたもので、大蛇に対してはその目を射る事を練習した。今日蛇の目といふのは、それから起った事である。言葉も手真似から漸次舌の運転となり、火の利用は割合早く、木を擦り合したり、石と石との衝撃で発火したのである。最初の草木は種類も少く、土壌も現在より余程柔かく沼地が多かった。米なども最初は数粒位しかならず、時の進むに従って十数粒から数十粒位となって今日の如く数百粒生えるやうになったのである。此点人口の増加と正比例してゐる。其時代の人間は非常に巨大で、普通十尺以上あり、最も高いのは十八尺もあったそうである。やや進んでから食物も種類が殖え、衣服なども出来るようになった。衣服の初めは木の葉を種々な蔓で繋ぎ合せ、僅かに寒気を防いだのである。
其後、漸次人口も殖えるに従って猛獣毒蛇の害も減少したのは勿論であるが、それに替って今度は人間と人間との争ひが発生し始めた。それは各所に部落や邑が出来たので、土地の争奪戦は固より、婦女子の奪い合ひ等も発生した。武器も益々発達し簡単な家屋も漸次数を増す事となった。
未だ悉しくかけば限りがないが、その中の興味ある二三の話をかいてみるが、それは日本の大地震である。其頃の人口は数万人に過ぎなかったが、その大地震の為大陥没を起し、それが為人口は百分の一位に激減した。其陥没地震が今日の日本海を作り、太平洋岸も殆んど陥没した結果、其時以来日本国土は約三分の一に縮小されたのである。其際天上から見た神は地震の光景をかかされたが、先づその壮観は到底形容は出来ない。特に富士山がそれまで数万尺あったのが一挙に陥没し、何分の一になって、今日の如き大きさとなったのであるから、その地殻変動の大規模さは想像の外である。その大地震で日本国土は全く肉が落ちて骨ばかりとなったようなものである。そうして右の地震は約十万年以前といふ事である。
今一つ面白い事をかいてみるが、それは数万年以前印度が盛んな頃、日本へ大軍を以て征服に来た事がある。九州の一角から上陸し段々征め上って、山陽道の半分位迄攻略した頃、今で言えば国家総動員といふ訳で、全力を挙げて対戦し、遂に敵は敗北し海を渡って遁走した。途中暴風雨に遭い、その一部が台湾に上陸したので、その子孫が彼の生蕃で、今日の高砂族である。印度が日本へ征服に来たといふ事は、恐らく誰も知らないであらう。
此神憑りは七千年以前まで出たが、そこでピタリと止って了った。約三ケ月位であった。その記述は便箋にかいて約三四百枚はあったであらう。勿論大事に保存してゐたが、其後当局から度々弾圧され、その都度家宅捜索を受けたので、ブリキ缶へ入れ土へ埋めたりしてゐたが、未だ安心が出来ないので、終に焼却して了った。何故なれば皇室に関する事が割合多くあったので、其頃としては之が一番危険であったからである。
その記録の中、未来に関したものも相当あったが、之は今日発表する事は未だ時期の関係上困難である。満洲事変も太平洋戦争も、現在の世界情勢も、知らされた通り表はれたと共に、今後の世界の未来記も知らされてゐるが、発表出来ないのは実に遺憾である。
此事によって私といふものは、如何に重大なる使命を以て生れたかといふ事を知り得たので、茲に心気の大転換が起った。之は安閑としてはゐられない。よし全身全霊を此大聖業に没入しなければならないと覚悟をすると共に、昭和三年二月四日節分の日を期して、それまでの職業を支配人に無償で譲り、信仰生活に入る事となったのである。
(自観叢書四 昭和二十四年十月五日)