本教の使命は地獄で苦しんでゐる人達を、天国へ救ふので、それによって社会を天国化そうとするのである。此意味に於て、人を天国へ救ふには、先づ自分が天国に上って天国人となり、大衆を救ひ上げるのである。つまり地獄から天国へ梯子をかけて、手を延して一段一段登らしてやるといふ訳である。之が今日迄の凡ゆる宗教と異る点で、それは寧ろ反対でさえある。
周知の如く、昔から宗教人といえば、粗衣粗食、最低生活に甘んじ、難行苦行を重ね、自分は地獄的状態にあり乍ら衆生を救はうとするのであるから、梯子を逆に用ひる訳である。即ち、救ふ者が救はれるものを押し上げてやるのであるから、上から引張るよりも押し上げる方が、どの位骨が折れるかは、推察さるるであらう。
処が、その当時としては、実は天国は出来てゐないから止むを得なかったのである。勿論それは時期尚早の為で、霊界が夜であったからである。然るに、昭和六年以降、漸次霊界は昼になりつつあるので、天国を造る事は容易になったのである。否、人間が造るのではない、神様が造るのであるから、自然に時の進むに従ひ進捗するので、人間はただ神のまにまに動けばいいのである。即ち、神が設計し、監督し、多数の人間を自由自在に使役するので、私としての役目は先づ現場監督と思えば間違いないのである。勿論其一部として現在天国の模型も造ってゐるので、信者諸君はよく知る処である。
右の如くであるから、土地にしても予期もしない時期に、予期もしない位置に、売りたい人が出る、すると私はハハー神様がここを買えといふのだなと思ふが否や、それだけの金額は別に苦労しないで集ってくる。それに準じて、最も適した設計者も土木建築家も、材料も思ふ通り必要なだけは、判で捺したように入手する。庭木一本でも突如として誰かが持ってくる。それがちゃんと当嵌まるような場所がある。時には、庭木が数本も数十本も一時に入手するので、私は戸迷いするが、之は神様がなさる事と思ふから庭を睨み乍ら、順々に植えて行くと、過不足なく、きっちり当嵌ってしまふ。その度毎に、一切は神様がやられる事が実によく判るのである。或位置に斯ういふ石や木が欲しいと思ふと、一日か二日でちゃんと来る。之が奇蹟でなくて何であらう。斯ういふ事をかけば限りのない程で、追々かく事にするが今はただ片鱗だけをかいたのである。
此文は凡て人間がやってゐるのではない。神様の経綸のままに、人間がやらされるといふ事を、判らせる為にかいたのである。之等によってみても、神意は地上天国建設の第一歩として、その模型を造られるといふ事があまりに明かである。然し乍ら、模型ばかりではない、人間、個人が天国人とならなければならない。否、なり得る時期が来てゐるのである。勿論、家庭も天国化し、天国的生活者となるのである。それで初めて、大衆が苦しんでゐる地獄から救ひ上げ得るのである。故に信者に対し、私は常に出来るだけ苦のない生活環境を作るべきで、それが神意に叶ふ所以であるといふのである。即ち、病貧争の三苦が除去されなければ本当に人を救ふ事は出来ない。然し其様な事は、夜の世界では不可能であったが、今日はもはや可能となったのである事を知らなければならない。彼の釈尊の唱えた苦の娑婆の時機は最早終ったのである。此事の真諦が判ったとしたら、その歓喜は人類の経験にない程絶大なものがあらう。
(自観叢書四 昭和二十四年十月五日)