観世音菩薩と私

観世音菩薩と私との因縁に就て皆知りたがってゐるから、茲に開陳する事にする。忘れもしない大正八年私が大本教の信仰を始めたが或事情の為、四五年空白、十三年再信仰になってから半年位経った頃、或人が訪ねて来て、其頃流行宗教であった大本教に関しての話を聞きたいといふのである。種々の話をしてゐる最中、その人は、(地図の製作業者)私の顔を凝乎と見ながら、「大本教は観音様と関係があるのですか?」と訊くので、私は、「否、大本教は神道であるし、観音様は仏であるから関係はない。」と言ふと、その人は、「然し先生の座って居られる右の方に等身大の観音様が見える。」といふ。つまり其人は、其時霊眼が開けたのである。

茲で霊眼に就てザッと説明してみるが、或種の人で五感の外に霊感、霊能を有してゐる人がある。そういふ人は霊界の霊が見えるのである。此人も霊視能力があったと見えて、観音様が見えたのである。尚その人は言葉をついで、「先生が今便所へお立ちになると、観音様が後からついて行かれ、先生がお座りになると同時に観音様もお座りになった。」又よく訊くと、「観音様は眼を閉じて居られ、お顔やお身体は、画や彫刻にある通りです。」-と言ふのである。其後その人が私の家へ行かうと思ふと、眼の前にぱっと観音様が見える。-といふ事などを聞き、私も不思議に思った。それまで私は、観音様の信仰は全然しようとも思はなかった。処が右の事があって、「自分は観音様に何か因縁があるに違ひない。」と思った。

それ以来、種々不思議な事が次々起る。或時は大本教信者の某氏が、私の「頭の上に渦巻が見え、その中心に観音様が居られ、脊中に十の字が見える。」といふのである。私はその意味がはっきり判らなかったが、其後信仰上一大迫害を蒙り、苦悩のドン底に落ちた事があったので、初めて判ったのは丁度右の霊視の通り、渦巻の真中に私が置かれ、十字架を負はされたといふ運命に逢着したのである。其後暫くして私は三月ばかり神懸にになった事がある。其時は種々の神や仏が懸ったが、其中で、観音様の御本体である伊都能売の神様が憑られ、私の使命を知らして呉れた。それは観音様が私の肉体を使って人類救済の大業をさせるといふ事や、二千六百年以前、釈迦出世の時代、観自在菩薩として印度補陀落迦山上に安住され、救道を垂れた事など、種々の因縁を明されたが、それ等は非常に興味津々たるものではあるが、何れ時が来たら説くつもりである。今はただ観世音菩薩の守護神である金龍神に就て、興味ある事実をかいてみよう。

忘れもしない昭和四年四月、私は大本教に熱心な信仰を続けてゐる頃であった。大本教の年中行事である春季大祭が丹波の亀岡で執行された時の事で、慥か四月の十九日だったと思ふ。同教の教主出口王仁三郎師の出身地である曽我部郡穴太在にある、聖武天皇の王子が祭神である小幡神社に祭典があった。その祭典へ参列しようと思ひ亀岡から二里位あるので、自動車を傭ひ、信友「神守」といふお守札みたいな名前の人と出掛けようとする刹那、其頃政友会の代議士であった志賀和多利氏夫人が、遙々埼玉県から今着いたばかりで、自分も連れて行ってくれといふから、恰度いいと同車させ、車は走り出した。其時私は、志賀といふ姓に何か神秘があるように思はれたのであった。「ハハー、近江の琵琶湖は一名志賀の湖、(滋賀県といふ名も之による)といふ名だ」と思った。すると、琵琶湖と今日の祭典と何か関係があるのではないかと想ったのである。

出口師は祭典が済むや否や、直ちに琵琶湖に向って車を駆った。其当時、名は忘れたが湖畔に有名な料理店があった。そこの料亭へ師は赴いたのである。勿論主人は大本教徒であったからで、翌廿日出口師は帰路に就くべく同家を出発の際、「怒涛沖天」といふ字を書いたといふ事を後で聞いたのである。処が不思議なるかな翌廿一日、琵琶湖の湖上に大暴風雨が起り、漁船四十七隻が沈没したといふ椿事で、その当時の各新聞に掲載されてゐたのである。それは何の為かといふと、神示によれば、観世音菩薩の守護神である金龍神が、同湖底に数千年間潜んでゐたのが、時来って昇天する際、遙かに之を眺めてゐた赤龍、(聖書にあるサタンは赤い辰なりといふ。)が最も恐れてゐた金龍神出現を知って急遽飛来り、金龍神を斃さんとして、湖の上空に於て大争闘を演じ、遂に敗北して北方へ逃げ去ったのであるが、その乱闘が暴風雨となったのである。其後一ケ月を経て、其当時私の住居は東京都大田区(当時大森八景園)に在ったが、正午頃住居の上空に大暴風雨雷鳴が起ったが、其時から金龍神は私の守護神となったのである。

其後三年を経た昭和七年春、月日は忘れたが、突如大本信徒である未知の青年が訪ねて来た。彼曰く、「今大本教内で、貴方の為に大問題が起ってゐる。其訳は大本教で最も重要とされるお守やおひねりを貴方が作って信者に与えてゐるそうだが、之は神に対し大不敬である。一信者たる者が作るとは怪しからぬ。そういふ異端者は生かしておく訳にはゆかぬから、大本教団の為、神に対する反逆者を誅伐(チュウバツ)する。もし止めなければ自分は一身を犠牲にし、貴方の生命を貰ふ。」と言ひ、懐中から短刀を出し畳に突刺したのである。見ると彼の顔面から喉首にかけ、普通人には見られない程の赤色に染ってをり、眼は烱々(ケイケイ)として血走ってゐる。私は直感した。「ハハー赤龍が此青年に憑って、私を亡そうとしに来たな。」と思った。いよいよ金龍に対し、赤龍が人間を使って、雌雄を決せんとしに来たのだ。「よしサタンに負けては大変だ。」と意を決し彼の要求を断乎拒絶した。すると彼の顔色はサッと変り、今や行動に移らんとする刹那、彼は突如として俯臥(ウツブセ)になると共に、苦悶に呻くのである。訊いた処、彼曰く、「腹が痛んで堪らない。」といふ。「よし私が治してやるから横になれ。」といひ、浄霊をするや忽ち快くなった。それから彼の態度は一変し、穏やかになると共に出口師に面会の為、私と同道して大本教の本部である京都府下亀岡へ赴いてくれと云うので、私も快諾し翌朝出発、亀岡へ行ったのである。尤もお守やおひねりは出口師の諒解である事を私が語ったからで、彼はそれを確める為である。直に出口師に面会した。出口師曰く、「自分でさえお守は出来ない事になってゐる。之は三代直日、(この婦人は出口師の長女で三代様と信徒は言ってゐた)だけが、神様から許されてゐるのであるから、信者が造る事は出来ないのだが、岡田さんは特別の人だから、あまり目立たないように作って呉れ。」といったので、彼も止むを得ず沈黙したのは勿論、此問題も之で一先づ解決したのである。

(自観叢書四 昭和二十四年十月五日)