阿呆文学 屁の玉宗

世の中も変れば変るものじゃはい。雨後の筍みた様に新興宗教とやらがニョキニョキと、出るわ出るわ一週間に、一本宛位とは恐れ入る。

中にも近頃売出しの、藪に生れて長くなる、筍みたいな錯覚宗、何々薬か化粧品の様に、新聞広告を第一の、道具に使って広告し、ニキビ書生や青二才、蓮ッ葉女性や生臭坊主、未(マ)だ世の中の苦労など、した事ない様な坊ちゃんの、引ッ掛りそうな御託宣、並べて好奇心を先づ唆(ソソ)り、何とかの本を読んだなら、釈迦基督に一遍に、なるといふのだから笑はせる。

もしそうなったなら大変じゃ、釈迦基督が多過ぎて、差詰お寺の坊さんは、肉食妻帯御取上げ、まったイヱスが、彼方此方に不敬事件を起すので、毎日死刑じや堪らない。

そんな物騒な本などをどしどし売られたらどうなるか、とは思ってもみたものゝ良く考えりゃそれはその売薬などの広告と同じ流儀の商売上手、釈迦や基督云々は、誇大広告の嘘の皮、一皮剥げば影の影、実に何にも無いのやて、先づは安心なんどゝは思ひも何にもしないので御座る。

西洋医学に愛想尽かした人達の、相手に出来た何々療法、数え切れない其中に、これはこれは驚いた。珍妙不思議な療法が出来て只今ジャンジャンと鳴物入りで広告中但し之には名がないので阿呆が命名して進ぜる。

それは精神錯覚療法と命(ナズ)けたらピッタリ合はふで御座る。とは余りに変テコな、名前じゃないかと言ふ事を、罷(ヤ)めてトックリ聞きなさい。

此療法の言ふ事にゃ此人間の肉体は、心の影じゃで肉体は、テンデ無いから肉体の、病気もテンデ無いんだと、言ふのぢゃからして面白い。

詰り筍も人間も、宗教も国家も此地球も、テンデ無いので、有ると見えるのは生命の、実相とやら知らぬ奴。本来宇宙の一切は、空々寂々ゼロの零といふのじゃから何が彼やテンデつかまえ所などないマルッキリ湯の中で屁をした様でアブク論。

御本人様も無いんじゃて、それに向って文句言ふ、とは屁の玉を相手にして喧嘩する様な箆棒(ベラボウ)だが、阿呆も割と利巧者いくら悪口言ったとて屁の玉同然空気同然の蔭みたやうな相手じゃて、ブン撲ぐられる心配なんか無いのぢゃから面白い。

之で病気が治るといふので御座るから世の中は狭いやうでも広いもの、鼻糞程に利もせぬ、売薬じゃとてデカデカな、広告すれば売れ出して、何十万の金儲け、する奴さへもあるんじゃて、石川や浜の真砂は尽きるとも世に泥棒と言ふ処を、泥棒の二字を馬鹿の字に入れ替えたなら猶の事名歌になるのに五右衛門もチッと脳味噌の足りぬ奴。

ともあれ「在るものを無いもの」と思はせ、無いものを在るものと思はせるといふ大錯覚、嘘と思ふなら誰方でも此宗教の本部とやら--一寸覗いて見りや判る。青い顔した病人が、現実の病気を一生懸命に無いと思はふと--

錯覚に、汗水垂らし八の字を額に寄せての苦悶面見れば洵に可哀想、哀れ儚なき次第で御座る。

だが待てよ、病気治しの錯覚丈なら、未だ未だよいが今一歩、脱線したなら大変じゃ、人の物と、自分の物と、自分の物と人の物と、アリャコリャトンチンカンに思ったら、金のある奴は堪らない、ウッカリとして此娑婆に、居られる者じゃ御座らぬて、などと心配する程の、事もない哩(ワイ)初めから影も形もテンデ無い。臭いばかりの屁の玉宗、煙となって発散を、して了ふので先づ安心。

(東方の光八号 昭和十年十月二十一日)